■第三十二話 黒竜
やはり木の影と正面では相手から受ける圧は異なるとアリアは改めて感じていた。
だが、そんな事はもとより承知のことだった。
竜に刺激を与えないため、シリルもアリアも剣は鞘に収めたまま、一歩一歩確実に距離を詰める。
そうしていると、やがて竜の目が確認できる位置に達した。
黒の体躯を持つ竜は目も黒かったが、胴体とは異なり目は光を受けていた。
『……何奴か』
それは動物の声を聞いた時とは異なる重みのある声だった。
竜から発せられるものだと言うことが本能的に理解できる厳かなものであり、同時に感情の起伏があまり感じられないものであった。
それが警戒されているゆえのことであるのは、アリアも理解できていた。
「私は騎士、シリル・スティルフォードと申します」
シリルが名乗ったことで、この声はシリルにも届いているものだとアリアも気づいた。そして、アリアもその声に続く。
「私は準魔騎士のアリア・エイフリートと申します。森の異変を感じ、シリル・スティルフォードと共に状況の把握のため参上した次第でございます」
アリアたちの声を聞いてか、竜はゆっくりと首を起こした。竜のイメージに比べると少し小柄な印象を受けたが、強圧的な雰囲気を漂わせている。
『……お前たちがここに来るまでの様子はあらかた感じていた。察するところ、相手の力量が見極められぬわけでもなかろう。我の前に姿を現した理由を述べよ。魔石か? それとも鱗欲しさか? 我が何もできぬ状態だと侮っているのであれば、容赦はせぬ』
その宣言は怪我をしていることを忘れさせるかのようなものだった。この圧力でこの近辺の魔物もここまでたどり着くことはできていないのだろう。
しかしそれは同時にアリアたちのことを少し小馬鹿にしたような、或いは自嘲したような雰囲気でもあった。
しかし、アリアが態度を変化させる事はない。
「私があなたに近付いた理由は、あなたが治療を必要としていると感じたからです」
『……何をふざけたことを。人間にこの傷が癒せると思うのか?』
「はい」
『思い上がるな。これは邪竜の呪いが含まれたものだ。人に癒せるものであれば、我の傷はとうに癒えていることだろう』
「呪いだということも、ここまで近づけばわかります」
それはアリアもかつて経験したことがあるものだ。力が尽き、けれど呪いで神聖力が回復せずに癒しの術が使えない。
だから、回復する見込みなんてあるはずもない。
それを理解した時、アリアには竜の気持ちが少しだけわかる気がした。どうしようもないことは理解している。けれど、最後に惨めな思いをするわけにはいかない。そういった気持ちがあるはずだ。そのためには、何にも邪魔されたくない。そんないろいろな思いもあるだろう。
だが、呪いが原因であればむしろ話は早い。
「呪いならば、尚のこと私に任せてはくださいませんか」
『小娘が何を言っている』
「石化の呪いを解いた経験はございます」
アリアとして解いた呪いはそれのみで、エスタとしても邪竜の呪いを解いたことはない。
(でも、状態を見た限り治せると思う)
石化の呪いよりも数段解除に力を使うのは予想できる。
ただ、できないとは身体が言っていない。
『……何を根拠に信じろと?』
「私の言葉以外に示せるものはございません。そして、あなたもそれに賭けなければ、朽ちるだけではありませんか」
ただ、仮に失敗したとしても竜に与える悪影響は何もない。よくならないだけだ。それなら、話に乗ってもらえるかもしれない。
そんなことを考えながら行った提案に、竜は大いに笑った。
『ハハハハハッ、ようもまあ、堂々とそのようなことを口にする!』
心底おかしいと言わんばかりの様子の竜は、やがて鋭い視線をアリアに向けた。
『我も随分耄碌したようだ。お前たちは悪意なき人間だと考えたが、どうやら見誤ったらしい。嘘を嘘だと悟らせない欺瞞に満ちた言動。呪いを解くなど、できるわけが無い。我を惑わそうとしたこと、断じて許さぬ』
竜がそう告げるのと、その体から炎の塊が噴き出し、アリアの方に向かってくるのはほぼ同時だった。アリアもそれは認識できていた。だからこそ、両手を前にしてそれを防ごうとした。
「障壁!」
透明な壁と炎の塊が衝突する。それと同時に、アリアには影がかぶさった。
平常時であれば影の正体などすぐに理解できたはずだ。だが、あまりに想定していなかったこと、竜との対話に集中していたことで今がどのような状況なのか一瞬理解が追いつかなくなった。ようやくシリルだと認識した時には庇われたことにより体勢を崩し、障壁により威力を吸収された後に軌道を変えられた炎の塊が上空に吹き飛んでしまっていた。
『はっ……?』
「え?」
アリアと竜が出した声は、両方間が抜けていた。もっとも、アリアと竜の気を逸らせた対象はそれぞれ違っていたのだが。竜は声と同時に怒気を失っていた。そしてそれに気付いたアリアは思わずシリルに向かって叫んだ。
「な、な、なにをなさっているんですか! 危ないじゃありませんか!」
炎を弾いたからいいものを、体勢によっては障壁がずれてしまっていたかもしれない。そうなればアリアのみならずシリルも大きな被害を受けただろう。
だが、そんなアリアの叫びよりもシリルの反論は大きかった。
「それはこっちの台詞だ、なにを考えている!」
「何って、この状況をどうにかする以外何を考えるって言うんですか!?」
どんな質問だとアリアは思うが、シリルの額に青筋が浮かぶのが見える気がして、アリアの顔は引き攣った。
本気で怒っている。
そして、それにアリアは飲まれてしまった。
「で、でもスティルフォード様も撤退の指示はしていないではありませんか! 私は命令違反を犯したわけではございませんから!」
「危険を察知したら言わなくても退避しろ!」
「避けるより安全だと思ったからそうしたんです!」
「『ほう……?』」
シリルの声に竜の声が重なった。
相変わらず竜からはすでに戦闘する意志が感じられない。
そしてその声色もシリルの怒気混じりのものよりも、面白がっているという雰囲気を含んでいた。
そして竜が言葉を発したことで、シリルも一旦言葉を止めた。
『本格的に、我は耄碌しておったようだな。まさか、神聖術使いがこの世にまだ残っていたとは。千年の春を越える間、出現しなかったというのに』
前世では聖女と言われていただけで、そのような呼び方をされたことはなく初めて聞く言葉である。竜の中ではそのような呼び方をしていたのかもしれないが、首を傾げたアリアに竜はくつくつと笑う。
『よかろう、小娘。お前の案を受け入れる』
「え? ありがとうございます。では」
そうしてアリアは竜に近付いた。
「少し傷口に触れますので痛むかもしれません」
『何、すでにそれよりひどい目に遭っている。自分で受け入れたことにごねるほど、我は幼くはない』
竜の返事を聞いてからアリアは傷口に触れた。
予告はしていたし、できるだけ静かに触れはしたものの、やはり痛かったらしく竜は少し震えた。だが、それ以上は大きな反応は示さなかった。
アリアは目を閉じて、手に光を集めた。それらは徐々に竜の傷口から体内に入り込み、竜の身体全てが光っているように見えた。
やがて光が収まると同時にアリアは目を開けた。
相変わらず光すら反射させない体躯であるが、傷口は塞がり、新たな血も流れていない。
軽く撫でても、すでに竜は痛みを感じていないようだった。
(治った)
そのことに、アリアはホッとした。