■第十一話 湖のほとりにて
やはり思い出と夢は連動しやすいのかと思いながら、アリアは朝を迎えた。
そして軽く朝食を摂った後、村があったはずの場所に向かって出発した。
街道から村へ逸れる道は、残念ながら目印らしい目印はなかった。
だが、地図と自身の感覚で、大体の場所は把握しているつもりだ。
アリアは一度馬から降りた。
そして馬を引きながら、かつての自分と今の自分の歩幅の違いを計算しながら目的地へと進む。
道はなくとも、雑木林にまでなっているわけではないので進むことはできた。
しかし道がなくなったところである程度予想がついた通り、かつて村があったと記憶している場所には何も跡形は残っていなかった。もともと廃村になった記録すらのこらないような小さな村なので長期間風化せずに残るようなものもなく、森の一部になっているだけだ。仮に地面を掘れば皿の破片くらいは見つかるかもしれないが、あまりに変わり果てた形にアリアは複雑な気持ちを抱いた。
エスタと自分がまったくの同一ではないし、たとえ村が残っていたとしても自分が知る人は誰もいない。けれど自発的ではなく、外部から別の人生なのだと示されたことはこれが初めてだ。
ただ、ようやく言える一言がある。
「ただいま」
前は状態の悪さを知られないために、通り過ぎるだけだった。
ずいぶん時間が経ってしまったが、やっとゆっくりと挨拶ができた。
何もない場所をアリアはかつての情景を思い浮かべながら歩き、それから更に森の奥へ進んでいった。
次の目的地は少し距離が離れている上、足元もこれまで以上によくないが、歩けないほどではない。
(多分この辺りを北かな)
そうして進んでいくと、やがて拓けた場所に出た。
「まぶし……」
しかし目が慣れてくると、そこにはよく知る光景が広がっていた。
優しい風に撫でられ、光を揺らめかせる水面は空と木々を映している。
かすかな葉擦れの音とともに鳥の声は響き、耳に届くのが心地いい。
「全然、変わらない……」
もちろん木の種類だとか太さなどは世代交代もあり、まったく同じというわけでないことは理解している。
それでもその場所の雰囲気は、前世で見たものそのままと言っても差し支えがなかった。
「……少し、休憩していこうかな」
近くの岩に腰を下ろそうとしたアリアは、旅の荷物の中に横笛が入っていたことをふと思い出した。
楽器ケースに入れたそれを取り出し、組み立て、そしてゆっくりと息を吹き込んでいく。
「懐かしい」
練習音を響かせただけで、そう強く思ったアリアは、徐々にかつてよく奏でていた曲を一つずつ演奏し始めた。転生後は吹いていなかった曲も自然と奏でられている。
そうして指も十分ほぐれたところで、アリアは一番好きだった曲を演奏することにした。ここでも、一番よく吹いていた曲だった。
しかし、その曲の演奏を始めたとき、ふと人の気配が近づいていることにアリアは気がついた。
(こんな場所に……?)
主要街道とも人里からも離れたこの場所に一般人が近寄るとは思えないが、そんな場所ならならず者も近づきはしないだろう。
しかし気配は獣のそれとは違い、確実に人間だ。
特に悪意も感じられないが、警戒は緩められない状況下でアリアはじっと一方向を見つめた。
緊張感が高まる中、やがて現れたのは一人の少年だった。
歳のころは十代半ばからといった具合で、黒髪に黒い瞳、さらには黒い服に黒い外套という黒尽くめの出立ちだった。腰には剣が備えられている。
そして少年もアリアの姿を見て目を見開いた。
「子供?」
その言葉に、アリアは目を瞬かせた。
(確かに、よく考えたらこの場所に子供一人でいる方が、山賊が出るよりよっぽど変なことかもしれない)
相手の反応も実に正常だというものだろう。
(こんなときは……)
アリアはにこりと微笑んだ。
「ごきげんよう。王都にお住まいの方ですか?」
まるで近所に散歩にやってきているような気軽さで、アリアは少年に尋ねた。
相手が何者か分からないのは相手も同じで、何も話さなければ話が進むこともない。
少年はそんな挨拶がくるとは想像していなかったのだろう、目を瞬かせた。
しかし、やがてポツリと呟いた。
「……迷子では、なさそうだな」
その表情には少し安堵のようなものが混じったように見えた。
鋭い目つきに反して、どうやら優しい少年であるらしいとアリアは理解した。
そうなると、作っていた笑みも自然なものに変わった。
「私は旅人からここに美しい湖があると聞いて立ち寄りました。迷子ではありません」
「こんな場所をほかにも知っている者が……? それよりも、お前は一人なのか? 保護者はいないのか?」
「一人です。俗にいう『可愛い子には旅をさせよ』というようなものなので、家出でもありません。王都へ向かう途中です」
少し冗談めかして言ったものの、少年の表情は不可解だと言っているようだった。
だが、実際に馬を連れ、しっかりとした旅鞄を携帯していれば嘘ではなさそうだということも伝わったようである。
「そちらは、よくここへいらっしゃるのですか?」
「……たまに」
「美しいところですよね」
「そうか」
どうも、少年はあまり話し上手ではないらしい。
(ここにくるまでの道順はややこしいし、あえて好まないなら来るような場所じゃないのに)
あえて否定するのが不思議であるが、話が好きでないのなら、あえて初対面の人間に嗜好を伝えようとしていないだけなのかもしれない。
(もしそうなら、一人になりたいって思ってここに来たのかもしれないし……)
そう思ったアリアは横笛を片付け、出発の準備を整えようと考えた。
湖は王都から少し離れている場所とはいえ、王都からであれば来ることができる距離である。
「では、私はそろそろ出発しますね」
「そうか」
「どうぞ、ごゆるりと」
そうして去ろうとしたとき、不意に声がかかった。
「先ほどの曲は、なんという?」
「え?」
思いがけない問いかけにアリアは驚いた。
それなりに距離があるうちに演奏を止めていたつもりだったが、存外遠くまで音は響いていたらしい。
「ええっと……最後の曲でよろしいでしょうか?」
「ああ」
「『森の声』という曲です」
「そうか。有名なのか?」
「有名かどうかは存じ上げません。私の住んでいる地方では聞きましたが」
本当は聞いたことがないが、さすがに知らないと応えるのは不自然すぎるだろう。
当たり障りがない答えで応じると、少年は「そうか」と再び短く呟いた。
「止めて悪かったな。……この辺りは魔物は出ないが、稀に獣が出ることはある。用心はしておいたほうがいい」
「ありがとうございます。では、失礼致します」
そうしてアリアは今度こそ出発した。
(まさか、曲名を尋ねられるとは思わなかったわ)
今の世に残っている曲かどうかは分からないので、曲名がわかったところで少年の役に立つのかどうかは分からない。
しかし曲名を尋ねるくらいなのだから、多少なりとも演奏を気に入ってもらえたのだろう。もしかしたら、演奏をもう少し聞きたいと思ってくれたのかもしれない……などと思うのは少し自意識過剰というのだろうかなどと考えながら、アリアはゆっくりと来た道を戻った。
(でも、懐かしかったな)
それは、湖を見たことだけではない。
ウィリアムと出会った時も、アリアは同じことを尋ねられたのを覚えている。
「なんだか不思議ね」
姿形はまったく似ておらず、交わした言葉もごく僅かだが、どこか縁すら感じてしまうような気持ちになっていた。