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マンションカトレア  作者: 十月夏葵
6/6

マンション・カトレア エントランス

私は彼と手を繋いで、エントランスを歩いていた。

「菫、本当にいいの?」

「くどい。指輪のサイズ知らないとか女としてどうなのとか言わないでよ?ちゃんと測ったことなかっただけ」

そんな事言わないよと彼はくすくす笑った。私も言ってみただけで、彼がそんな事を言うとは思ってないけど。

写真集が届いてから数日後、久しぶりに会って話し合った結果、もう一度やりなおすに至った。あの時は無理だったことも今なら大丈夫かもしれない。

「なんでも話し合うようにしよう。もう、お別れはいらないから」

その言葉でやり直す、いや新しい関係を築く決心をした。このお付き合いはれっきとした『結婚を前提とした』お付き合いだ。今日はその記念と約束を目に見える形にしようということで、指輪を買いに行くことにした。

「もっとちゃんとした婚約指輪はもうちょっと待ってね。その薬指によく似合う指輪見立てておくから」

「楽しみにしてる」

どんっと後ろで誰かがぶつかる音がして、ふと振り返る。目が合った時、前に喧嘩していたカップルを思い出した。エントランスを抜けてなんとなくマンションを見上げる。私はそろそろこのお城とはお別れかもしれないな…。それが嬉しいような、寂しいような。

「どうかした?」

「なんでもない」

つないだ手を今度こそ離さないように、少し力を入れると彼が微笑んでいた。


一つ終わったなら、また一つ始めるべきかなという気分になった。三明と別れて少し経つ。そろそろ次を考えてもいいかと。

「その前に回覧板か」

判子を押してポストに入れておこうとエントランスに向かう。郵便受けに入れておいていいんだろうか?こういう事は大体三明がやってたからな…。

いつも通りに過ごす中で偶に思い出すのは、未練があるとかではない。ただ、ここには至る所にその影が残っている。でも、その影も別れた当初よりずっと薄くなった。これからもっと薄くなる。ここは三明と暮らしたマンションであると同時に、運命を感じた部屋だ。そんな素敵な部屋に住めたのは幸運だと思う。別に悲しい思い出も楽しい思い出も残っているけど、引っ越そうとは思わなかった。今ここにいることは無駄じゃない。そう思える生活がしたい。

「おっと…」

「ご、ごめんなさい」

エントランスで人とぶつかった。カッシャンという音と共に床にスマホが滑る。ぶつかった女の子は電話中だったようで、慌てて彼女が拾ったスマホから声が聞こえている。振り向いたお姉さんと一瞬目が合った。かなり夜遅い時間に見たことがある人だった。

「すみません、電話してて…」

そう声を掛けられ、視線を女の子へ移す。しきりに申し訳なさそうだった。

「こちらこそごめんなさい。よそ見してて…」

「本当にすみません」

ゆかちゃんとタイプは違うけれど可愛らしい人だった。ペコリと軽く頭を下げ足早に歩きだす。なんか雰囲気のある子だったな。何気なく郵便受けを開けるとはがきが1枚入っていた。ヘアサロンのバースデー割引のお知らせ。予約空いてるかな…。今日は天気がイイ。気分がイイから、髪を切りに行こう。新しい自分に会えたら、きっといいスタートを切れる。


今日は土曜日。昨日先輩は来なかった。でも、約束があるわけじゃないとも言っていたので、初めて私から電話を掛けた。多分、最初で最後の。

「もしもし、先輩?今日どうしてもお話したいことがあるので、お時間頂けませんか?そんなにはとらせませんので」

「いいけど、花音の家で?」

「いえ、駅前のドトールで。どうしても聞いていただきたいお話です」

「分かった。30分くらいで着くから」

どんっと誰かにぶつかり、スマホが手から滑り落ちた。

「ご、ごめんなさい」

歩きスマホなんてしてたから…。受話器から先輩の声が聞こえている。慌ててスマホを拾った。スマホからはまだ声が聞こえている。

「すみません、電話してて…」

「こちらこそ、ごめんなさい。よそ見してて…」

「本当にすみません」

軽く頭を下げて足早に歩きだす。感じ悪くなかっただろうか。またスマホを耳に当てる。

「もしもし?」

「もしもし」

「すみません、ちょっと人とぶつかって。私も今から向かうんで」

「じゃあ、あとで」

先輩はいつも通りだ。これから話す内容に察しはついているんだろうか。もう、これ以上は無理。やっぱり私は今すごく後悔している。婚約者さんに子供が出来たらしい。それで結婚を前倒しにすると人づてに聞いた。私に愛を囁きながら、他の女性を抱いていたということだ。分かってたことだし、信じてたわけじゃないけど、ふと手元を見たら私には何もないことに気が付いた。なら、全部手放すべきだ。先日課長に異動願いを出した。なんてことはない、すべてを清算するときが来ただけ。いつか終わる物だって知っていた。だから、終幕位自分の手で引きたかった。私はスマホをしまい、駅へ向かって歩き出した。


エレベーターを降りると目の前で人がぶつかった。必然的に俺と桔梗は足を止めた。少しやり取りをした後、1人は去っていき、1人は郵便受けを開けていた。去っていった人の方はなんだか張りつめた顔をしていた気がする。気のせいだろうか。そんなことを考えていると隣を歩く桔梗に袖を引かれた。

「ねえ、ベッドの予算どれくらい?」

「いや、買うのは机だ」

「やだ、べッドがいーい。ベッドが恋しーよー!最近全然眠れない」

リトルモンスターのわがままが出た。なんでコイツこんなにベッド推しなんだよ。爆睡キメて土曜の1限は遅刻ギリギリなの誰だよ。そもそもなんで机買うのかというと、先日葵さんから現金書留が届いた。

『桔梗がお世話になっています。迷惑料と思っていただいていいです。何か欲しいものを買ってください』

と書かれた一筆箋と3万円。特に欲しいものはなかった、というか自分で買える。でも貯金は味気ないので、桔梗の机を買うことにした。布団ではできないし、ローテーブルでは集中できないとレポートを書きながら文句を言っていた。それは分からなくはない。3万あればニトリでもそこそこのものが買えるだろう。

「ベッド我慢したら余ったお金で、前に行きたいって言ってたパンケーキ屋行けるなー」

「え!」

パンケーキ…、でもベッドが…などと呟いている。悩ましいらしい。注射を我慢したらおかし買ってあげるって言う母親と同じだな。

「着いてから決める…」

「はいはい」

俺は桔梗の手を引き歩き出す。半歩下がって桔梗が付いてくる。幼いころから変わらない。かつてと同じポジションで桔梗はにこりと笑った。


「あら、いい天気」

このマンションを建てて30年と少し。今までいろんな人が入ったり、出て行ったりしている。池袋に近いからか若い人ばかりだけど、みんな礼儀やマナーを守ってくれるいい子ばかり。

人生にはいろいろと挫折もあるし、辛いことも、苦しいこともある。でも、それと同じくらい楽しいことも嬉しいことも希望も等しくあるもの。入ってくるときはどんなに辛い時だったとしても、出るときは皆が幸せになっていればいいと思う。辛いことを耐えられたなら、その片手にはきちんと幸せの片道切符が握られているはずだ。その資格がある。

「さてと、花壇のお手入れから始めましょうか」

いつか孫に教えてあげよう。このマンションの名前は、なくなった主人が私に似ているといった花から来ていると。今やシワシワで見る影もないけど。でも、あの人だって最終的にはシワシワの上ツルツルだった。でも優しい人だった。じきに会えるはずだ。孫の晴れ姿とひ孫の可愛い顔を焼きつけたころ迎えに来てもらおう。幸せだと思う。

幸せは些細ゆえに壊れやすく、再び手にするのも楽ではない。でも、幸せになりたいと足掻く人こそ美しいと私は思う。願わくば皆に愛溢れる日々が訪れんことを。


カトレアの花言葉…純粋な愛、あなたは美しい


fin.

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