501号室 月見花音の場合
約束はいつでも金曜日だ。私は何食わぬ顔して、着替えて会社を出る。同僚はいつも
「金曜日くらい恋人優先!」
という子が多いから、ご飯や飲みに誘われることはほぼない。それでも話したいことや相談がある場合は土曜か日曜にランチが飲みに行く約束をする。そういうのは本当によかったと思う。おかげで不審に思われない。
マンション・カトレアの501号室が私の家だ。名前に花の名前が入っているところが気に入っている。その為、男性よりも女性の入居者のほうが多いらしい。
角部屋で隣は空室。隣に誰もいないというのは気楽だ。まだ就職して2年目。あんまりぼんやりもしていられない。高校の先輩だったゆか先輩は
「花音ちゃん可愛いのに恋愛に興味ないのかぁ。ちょっともったいないかも」
と残念そうな顔をしていた。ゆか先輩は帰宅部だったけれど、委員会が一緒。割と目立つグループにいたのに、面倒見のいいところもあった。後輩の私にも気軽に話しかけてくれた。先輩はめっちゃ可愛かった。それで、すごくモテていたけど敵も少なかった。そんな先輩に可愛いと言われるのは嬉しかったけれど、恋愛に興味ないのがもったいないの意味が分からなかった。
それでも最近、先輩がなんでもったいないと言ったのかを理解しつつある。先輩は多分『恋する幸せを知らないなんてもったいない』というようなことを言いたかったんじゃないかと思う。
「すまない、遅くなった」
「いえ、大丈夫です」
静かにドアを開けて、その人はやってくる。職場の先輩で私の教育係。私の6歳上。私は先輩から仕事のいろはを教わり、今に至るまでお世話になっている。先輩が教育係になったときはすごく嬉しかった。初めて見たときから気になっていた。
入社して4ヶ月経つ頃には既にただの教育係と新入社員の関係ではなかった気がする。正直、今の関係になった時期を詳細に覚えてはいない。付き合ってる、確かにそうかもしれない。でも、明確な始まりがあったわけでもない。なし崩し的にこの関係になってしまったとも言える。誰からも祝福される恋じゃない。それでも、恋する幸せを感じている。
「今日は泊っていくんですよね?」
「ああ。……次は日曜日だから」
先輩には婚約者がいる。最初は既婚者かと思っていた。いつでも左手の薬指に指輪が光っていたから。でも、それは彼女とのただのペアリングだと知り、まだ良かったとも思った。その時点でブレーキが踏めなかった私もいけなかったけど、アクセル踏んだ先輩もいけなかったと思う。入社して10ヶ月と少し経った頃、先輩の彼女は婚約者にランクアップした。それでも、先輩は私との関係を辞めることはしなかった。
「先輩はズルいですよね」
「そうだな。でも、大人はズルいものだよ……」
月に1回、多い時は2回。金曜日に先輩はウチに来る。泊まっていくときもあれば、始発で帰ることもある。始発で帰る時は大体、婚約者さんと約束があるからだ。婚約者さんはデザイン事務所で見習いをしてるらしく、果てしなく忙しい方らしい。一応週末休みらしいが。それでも、土曜日は休めることの方が珍しいらしい。そもそもそのデザイン事務所も名前ぐらいは私も聞いたことがある大手で、忙しい事務所だという。それでも土曜日、婚約者さんと約束が出来たなら先輩は始発で帰る。
もっと一緒にいたいし、本当は映画とかショッピングとか普通の恋人がするデートがしたい。ご飯はたまに連れて行ってくれるけど、そういうデートはしたことがない。
いつもドライブかおうちデートだ。別にそれが嫌ってわけじゃないし、普通のデートができる関係じゃないことぐらいわかってる。
「先輩、DVD見ませんか?」
「いいよ」
「この前レンタルはじまったばかりの新作です」
映画のDVDばかり見ている。私も先輩も映画が好きだからだ。そして時間を気にしなくて済むから。読書も時間を忘れられるものではあるけど、時間は限られているのに1人で出来ることするのはもったいない。でも、なにもしないと時計が気になってしまう。ちょっとでも映画館の雰囲気を出すために部屋を暗くすると、時計は見えない。先輩がこの家に来るようになってから、私はすぐ時計を変えた。
初めて先輩が家に来た時は始発で帰る時で、私は終始時計が気になって仕方なかった。抱きしめられていても、何をしていても秒針がカチコチいうごとに追い立てられているような、責められているような気がして。
だから、秒針が鳴らずになめらかに動くタイプの時計に変えた。壁掛け以外はそのタイプの時計だった。それ以来、時計が気になって仕方がないという事はなくなった。
「時計変えたのか?」
「はい。実家の部屋から持ってきたので古いからか、すぐに進んだり電池が切れるので」
そんな風に言い訳したな。実際、大分古い時計で電池が異様に早く切れた。丁度いいかと思って持ってきただけなので、そこまでの愛着もなかったし。
「花音はいつもアクションかSFかミステリーしか借りてこないな」
「好きなんですよー。特に007シリーズとか最高です」
ああ、あれはいいねと先輩は笑う。嘘は言ってない。本当はベタベタの恋愛ストーリーも嫌いじゃないし、ときどき劇場まで足を運ぶこともある。先輩とは見たくないだけだ。ハッピーエンドでもそうじゃなくても気まずくなりそうだ…。
先輩の体温を隣に感じながら、新作のDVDを見る。別に出来が微妙でもいい、駄作でもいい。時間が忘れられるならなんだって良かった。
「んー」
「眠そう……。疲れた?」
「すこし」
新作のDVDの内容はイマイチで、物足りないので少し古いフランスの映画のDVDを見ていた。吹き替えは置いてなかった。字幕だけ。耳障りのいいフランス語とBGM。字幕ばかり追っていても、まったく内容が頭に入ってこない映画だった。まったりしたフランス語が眠気を誘う。
「ちゃんとベッドで寝ないと疲れが取れない」
甘えるように先輩に抱き付く。先輩のワイシャツからはいつも洗剤のいい匂いがする。
「じゃあ、連れて行ってください。ベッドまで」
こんな甘えた事親にも言ったことがない。私には弟妹もいたし、3歳ぐらいの時には1人で寝れたと聞いた。私が甘えるのは先輩にだけだ。
「仕方ないお姫様だな花音は」
先輩に抱き上げられて寝室のベッドにそっとおろされる。私が安いとは言い難いこのマンションに住んでいる理由はここにある。
絶対にワンルームだけは嫌だった。寝室とリビングは分けたかった。
実際、お給料だけじゃここの家賃と生活費はキツイ。でも、大学で私はバイトをいくつか掛け持ちしてがむしゃらにバイトしていた。別に欲しいものがあったわけじゃないけど、多分自分が働いてお金が入るということに快感があった。若いから無茶も多少出来たし。で、使わないからそれなりの貯金が出来た。その貯金と給料で払える限度内で住めるマンションで、気に入ったのがここだった。
「花音の家はベッド大きくていいよね」
「セミダブルですもん」
実家では布団生活だったから、私はベッドというものに憧れていた。最初こそ布団だったけれど、入社して初の夏のボーナスで念願のセミダブルのベッドを買った。そこそこ気に入っている。
「ねぇ、花音」
「はい、何ですか」
優しく髪を梳いていた先輩が手を止める。部屋が暗くて、先輩の表情は良く見えない。
「このまま寝る?それとも違う事したい?」
その言葉にちょっと考えるそぶりをした。そう聞かれた時点で答え何て決まっていたけれど、即答するのはなんか嫌だった。だから、わざと考えるそぶりをする。眠くないわけじゃないけど、そう聞かれたら答えは決まってる。
「違う事したいです」
先輩のワイシャツの袖を引く。そう答えたとき先輩がどんな顔しているか分からない。先輩はこういう時ほど私にほとんど表情を読み取らせようとしない。だから、私もわざわざ知ろうとしない。ただ、袖を引く。
「いいよ。花音のしたいように」
いつもこう言ってくれる。この家にいる時と腕の中にいる間だけは大体のわがままにいいよと言ってくれる。唯一『帰らないで』以外は。先輩の家にも婚約者さんのところにも帰らないでほしい。世界が私と先輩とこの部屋で完結していればいいのにと何度思っただろうか。思うだけで口にしない。『帰らないで』も、そんなあり得ない考えも。
「所詮はセカンドだもの」
「何か言った?」
「ううん。何も言ってません」
私は甘く微笑んで嘘をつく。先輩には言った言葉じゃないし、独り言。それに先輩は優しくしてくれる。大事にしてくれてると私を誤解させてくれる。私だけだと勘違いさせてくれる。私が勝手にそう思っているだけかもしれないけれど。
その優しさが嘘でも誤解でも罪悪感でもなんでもいい。
大事なのは先輩が私に優しいということだ。その事実があればその理由が何であろうがそんな事はどうでもよくて、些末な事。
私を甘やかすだけ甘やかして、私がいつも出勤のとき乗る電車で帰っていった。玄関まで頑張って見送った私に、キスしててあっさりと帰ってしまった。私は目を擦り、再びベッドに潜り込む。泊まるといっても始発で帰らないだけで、私がいつも乗る電車で帰ってしまう。私が先輩を引き留められる時間は7時55分発に間に合う、7時37分までの間だけだ。シーツを手繰る。もうシーツは冷たくなっていた。先輩がここにいたことをちょっとでも覚えておきたくて、そっとなにか大事な欠片のようにシーツをなでた。
そして退屈な土曜日が来た。日曜日は約束がある。
土曜日は映画を見てダラダラしたら終わってしまった。週末ともなるとさすがに疲れているからか、ついつい自堕落に過ごしてしまいがちだ。
そして日曜日。私は待ち合わせ場所でスマホを眺めてた。渋谷駅のモアイ像前。ハチ公前ほどじゃないかもしれないけど、なかなかメジャーな待ち合わせ場所だと思う。
「ごめーん、待った?」
「全然?」
「よかったー」
会社の同僚のみさきはホッとしたように笑った。金曜日に
「ね、話したいことあるからさ、日曜日時間取れない?ランチ行こうよ」
と声を掛けられて、快諾した。みさきとわたしは比較的仲が良くて、ちょいちょいランチしたり、飲んだりする。話していて楽しいし、仕事の愚痴を言ったり出来るし。
「今日のランチどこで食べる?」
「あーそれなんだけどさ、ちょっといい感じのパスタだすところがあってさ。ジェノベーゼが半端なくおいしいの」
「ホント?じゃ、そこにしようか」
他愛ない事を喋りながら、歩き始める。彼女が案内したのは洒落たイタリアンのお店で、内装もシックで、店内はカップルや私たちの様なお客さんでそこそこ混んでいた。
「待ち合わせ時間早め設定にしてよかった。ここ人気なんだよね」
「そんな人気店なの?全然知らなかった」
「口コミで火が付いたってやつよ」
おすすめのジェノベーゼは値段以上の味で、存分に舌鼓を打った。誘惑に負けてドルチェも頼んでしまった。ドルチェが来るのを待ちつつ、みさきは話しだす。
「で、結局略奪愛だったんだけど。なんか、カワイイ花束買ってて期待したんだけど、贈ってはくれなかったって言うの。やっぱり略奪愛って上手く行かないのかなぁって悩んでて。なんかそれより前はネットで真剣に花言葉とか調べてたって」
略奪愛…。その単語が妙に響いた。私は別にそんな事、望んだことも、願ったこともないのに。夢見たことはないとは言わないけれど、私は先輩に私だけのものになって欲しいとは望まない。
「一概にそうとは言えないけど、その彼氏さんの方?長く付き合った人がいたんでしょ?その人宛てじゃない?別れに花とか、気障を通り越していっそ粋だねー」
「そんなものか?私は現金の方がいいな」
「夢がないなー。現実的すぎー」
冗談を言い合いながらくすくす笑っていると、ドアベルの音が聞こえた。何気なくそちらを見ると、入って来た人と目が合った。もしかして先輩と婚約者さん……?
「あ、今入ってきた人って花音の教育係じゃん。あの人婚約者さんかな?」
「そうじゃないかな」
動揺を隠して、無難な相槌を打った。まさかこんなところで会うとは……。私は先輩の婚約者さんを初めて見た。綺麗なセミロングの髪で色の白い、華やかな顔立ち。綺麗な人だ。立ち振る舞いからもわかる育ちの良さ。何より、どことなく人を惹きつけるオーラの様なものを持っている人だった。
「やっぱり、イケメンって美人選ぶんだね」
みさきの何でもない言葉に胸がずきんと痛む。泣きそう……。でも、泣いたら変だ。誤魔化せないかもしれない。じわりと瞳に涙がにじんだところで店員さんが来た。
「お待たせしました、本日のドルチェです。コーヒーもすぐお持ちしますね」
「あ、ありがとうございます」
助かった。ごく自然に私はドルチェに視線を向けた。小さいティラミスにバニラアイスが添えられていて見た目にも綺麗なドルチェ。
「わーおいしそう。やっぱり頼んで正解!」
「私も同じ事思ったー」
タイミング的にはばっちりだった。あと何秒か遅かったら泣き出していた。なんの心構えもなく会うのは危ないのかもしれない。胸が少し痛むだけで泣きそうになる。
「そういえばさ、花音の彼氏ってどんな人?」
「えー、私いるなんて言ってないじゃん」
「いるでしょ?金曜日割と慌てて帰るし」
公然といるとは言っていないんだけれど、気が付く人は気が付いている。まあ、金曜日に約束しないのは恋人を優先したい人が多いからって理由だしね。私は、先輩を彼氏だと思ったことはあんまりなかった。
「んー、優しい人だよ。でも、ちょっとずるい人かな?」
優しくてずるい大人。それで、絶対に私を1番にはしてくれない人。傍にいてほしい時に限って絶対にいない人。
「えー今度紹介してよ!会ってみたい!」
「それはダメ。誰にも見せたくないもん」
「わー、ノロケじゃん。私も彼氏欲しいなー」
誰にも見せられない、見せたくない私の恋人。堂々と紹介できるはずがない。私がみさきや友達が同じことしてたら、絶対に止める。誰も幸せになれないし、結果的に自分が最も幸せになれないって。因果応報、その内自分自身に返ってきてしまう。きっと私の身にも返ってくるに違いない。
「どした?花音」
「ううん、何でもないよ。ちょっとぼーっとしちゃって」
そういって笑う。視界の端に先輩と婚約者さんがちらついている気がしてしまう。さっきまで楽しかったはずなのに、このお店も雰囲気がいいなと思っていたはずなのに、気が沈む。針の筵にいるように居心地が悪い。私は時間が過ぎるのをただじっと待った。
「この前、イタリアンレストランに木下といたな」
先輩がそう言ったのはみさきとランチに行ってから2週間後の金曜日の事だった。目があったから気が付いているとは思ったけど、話題に出るとは思ってなかった。
「偶にランチ行ったり、飲みに行ったり、仲いいんです。仕事の愚痴も言えるし」
「新人が生意気だぞ」
「きゃー」
私は何気ない感じで婚約者さんについて聞いてみた。
「婚約者さん、私初めて見ました。育ちのよさそうなお嬢さんって感じですよね」
「育ちがいいっていうのは当たり。取引先の専務の娘さんで現社長の姪っ子にあたる。まあ、お嬢様ではあるかもな」
店に入る所作だけで育ちがよさそうだと思わせる当たり、本気で育ちがいいんだろう。そんないい育ちなのにデザイン事務所で働いてるってことは、自立心にあふれた女性なんだろう。しかも美人。非の打ちどころもなさそうだ。それに比べて、まだまだひよっこな私。今でもたまに失敗はするし、取り立てて長所もない。都合のいい女の私。
「そういえば、エントランスであった人は兄妹かな?」
たまたまエントランスまで迎えに行き、エントランスで10代と思しき少女と、その少女に手を引かれている男性とすれ違った。
「え、どうでしょう?あんまり詳しくなくて。年の離れた兄妹っぽい感じでしたけど」
確か最上階の住人じゃなかったかな?あんまりここの人面識ない人の方が多いからよく知らないけど。レンタルバックをあけながら、何を見ようかと中を確認していると、DVDを持っている手に手を重ねられた。
「今日は違うことがしたい」
「今すぐ?」
「今すぐ」
躊躇いがちに先輩の首へ腕を絡めた。相変わらず先輩の表情は読めない。
「いいですよ、勿論。お願い先輩、婚約者さんより優しくして、私に勘違いさせて。そうしたらいい夢が見れる気がするんです」
「夢でいいの?」
「夢がいいんです」
夢の中でだけ人は全部を忘れられる。だって、夢だから。起きたら忘れちゃうような曖昧なものだし、儚いものかもしれない。けれど、その時は空想だって現実のように感じられる。法律も倫理も無視できる。ただひたすら幸せなだけだって可能だ。先輩だってそう思ってる。夢でいいかは聞くのに、勘違いさせては否定も肯定もしない。
「目一杯優しくして、甘やかしたい」
「嬉しい」
時々この人は残酷だなと思う。私の前では時計しないのも、わざわざペアリング外してるのも、全部気が付いてて知らないふりしてるだけ。きっと指摘してもなにも変わらないってわかってる。勿論この関係が私の幸せには繋がっていないことも。将来の保証も何もない。あるのは底なし沼だけ。私は近い将来絶対後悔すると思う。何もかも忘れてしまいたいと思う日が絶対に来る。それでも、先輩を手放せない。先輩を残酷な人だなんていう資格なんて私にはないのかもしれない。
私だって随分自分勝手で残酷だ。
「先輩、違う事したいです」
「望むままに」
甘く笑う。私は甘く笑って先輩に婚約者さんを裏切らせている。自分が所詮2番目なことぐらい知りすぎるほど知っている。先輩に愛されるような器じゃないこともわかってる。なんで、あの婚約者さんより早く先輩に会えなかったんだろう。ううん、例えば会えていたとしても火遊び以上の存在にはなれなかった。先輩にとって私は結婚前の火遊び、もしくはおままごとでしかない。
「先輩……」
「なに、花音」
「大好きです」
ぎゅっと抱き着いてそう囁く。今だから言える最大級の愛情表現。いづれ違うことを言う日が来てしまう。
「かわいい、花音。愛してる」
そういって微笑みながら嘘をつく。やっぱり世界がこの部屋で完結してなくてよかった。ここにはうつろな物しかない。もとからそんな気がしていた。
月見草の花言葉…うつろな愛、打ち明けられない恋