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マンションカトレア  作者: 十月夏葵
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304号室 一ノ瀬菫の場合

6階建ての賃貸マンション

ワンフロアに4部屋。24戸の世帯が暮らせるこのマンションは現在22戸の世帯が暮らしている。

2DK、トイレ・バス別。最寄りは池袋駅、徒歩15分。家賃は9万円。


304号室 一ノ瀬菫の場合


郵便受けに入っていたものをぞんざいに鞄に入れ、エレベーターのボタンを押した。気の重たい接待だった。そもそも、私お酒飲めないし。接待する側だからか、常に気を張っていないといけない気がして、食べたものは何でも砂を噛んでいる様だった。

「はあ」

口から出るのはため息ばかり。ため息をつくと幸せが逃げると昔親から言われた。なら私は今日だけでいくつ幸せを逃したというのか。

エレベーターに乗り、時計を見ると短針はすでに2を指していた。明日は休みだ。IT会社は聞こえこそいいけれど、修羅場はそれこそ『デスマーチ』と呼ばれる激務。気力も体力も限界だ。

倒れこむ様にドアを開ける。ヒールを脱ぎ捨て、重たい鞄を適当に放る。ジャケットをハンガーにかけて、ソファーに倒れこんだ。疲れた……。気が付けば28歳。昔ほど無理はきかなくなってきたことを感じる。こぎれいな流行のファッションやメイク、ネイルに至るまで男受けのよさそうな受付嬢のゆかちゃん曰く

「えー、彼氏いないなんて意外です。美人なんですから、合コンでたら彼氏なんてすぐ見つかりますって」

とのこと。なんとなく鼻にかかったような甘い声だ。正直、寂しいと思わない日がないわけではないが、合コンや新しい出会いに時間が割けないのも現状だ。就職して6年。上京して6年。会社や生活に慣れても忙しいものは忙しい。

「彼氏ねぇ……」

今までいなかったとは言わない。でも、彼氏の腕の中で目を覚ましたことなんて、今となっては何年も前の話。今はそんな甘い時間さえ惜しい。

「はあ」

また幸せを逃しながら、重たい体を起こす。無性にコーヒーが飲みたい。やかんを火にかけ、テーブルに置いたままだったマルボロに火をつけた。吸いながら手探りで換気扇のスイッチを入れる。深く煙草を吸う。煙草を覚えたのはいつだったっけ。くゆる紫煙を見ながら、ふと彼のことを思い出した。


彼と出会ったのは上京して間もなくのころだった。

「私の友達なの。正確にはアニキの友達だったんだけど。兄妹ぐるみで仲いいんだ。割と最近上京したって聞いて、久しぶりに会うことになってさ。菫のことも紹介したかったし」

職場で出来た初めての友達の友達。彼女から紹介された彼の印象はべつに良くなければ悪くもなかった。

「はじめまして。えっと、一ノ瀬さん?仕事は何されてるんですか?」

「IT関係の会社でSEをしています。また新人なので覚える事ばかりです。あなたは何の仕事を?」

「あ、俺はカメラマンのアシスタントをしてます。今回、その師匠が拠点を東京に移すっていうんで、俺も一緒に上京したんです。アシスタントなんて体のいい雑用ですけど、技術も表現も覚える事ばかりですよ」

柔らかい話し方をする人だなと思った。2歳下の私にわざわざですます調の話し方。そこには誠実な人柄を感じた。友達の友達。その日は他愛ない話とラインと電話番号の交換をしただけで知り合いが増えたくらいの感覚だった。


次に会ったのは知り合ってから2週間後の事だった。『デスマーチ』終了後の爆睡中に届いたラインは、好きなカメラマンの写真展があるのでいっしょに行かないかという誘いだった。それに了解の返事を送るとすぐにありがとうと返って来た。マメな人だ。


「待ちましたか?」

「少し」

待ち合わせ場所は渋谷のハチ公前。当時は割と渋谷に近い所にある築十数年のワンルームのアパートに住んでいたから。なら、ハチ公に11時と約束したのに、彼が来たのは11時を5分ほど過ぎていた。別に怒ってはいなかったけれど

『今来たところ』

というのもどうかと思ったので、あえて少しと答えた。

「ごめん、お昼ごちそうするからさ、それで許して」

「別に怒ってませんよ。でも、お腹は減ってます。何食べましょうか?あ、何かおススメとかあります?」

怒ってると思ったのか慌てる様子が面白かった。本当に怒ってなんかいなかったのに。笑うとホッとしたような顔で歩き出した。その日初めて入ったカフェで食べたベーグルサンドとコーヒーは絶品だった。

食べながら気になっていたことを聞いてみた。

「なんで、カメラマンになろうと思ったんですか?」

「……、高校の頃は普通にサラリーマンか公務員を目指してました。安定した仕事って感じがするから。でも、大学に入って偶々行った写真展がすごく良くて、カメラっていう物の表現力に圧倒されたんです。もともとカメラは好きでしたし。それで、たまたま来ていたそのカメラマンに、『弟子にしてください』って土下座して頼んだのが始まり」

驚いたのはその行動力だ。思っても行動に移せる人なんて一握りだ。子供とは違う。それなりにプライドもあっただろう。けど、それすらを屈服させる魅力を感じたのかもしれない。

「それで、そのカメラマンさんの弟子に?」

「ううん。まずは、大学は卒業しろって言われました。親に学費払ってもらってるなら資格とるなりして、入れてよかったと思わせる位の事はしろ。話はそれからだって。体のいい門前払い食らいました」

すんなり弟子に取ってもらったと思っていた。現実はそんなにさくさく行くもんじゃないと分かっていたのに。すんなりいったと思っていたのが恥ずかしい。

「その後大学で教免と司書とったんです。あと、車の免許も。卒業して改めて伺って、アシスタントで下積みから。俺は教える気はない、必要なもんは盗め。その覚悟があるなら明日から来いって。それで今日に至ります」

「器の大きい方なのね、その師匠って。それで豪胆だわ」

聞く人にとってはとんでもなく雑に聞こえるかもしれない。でも、よく聞けば必要な事はちゃんと言っている。ほぼ初対面の人を受け入れる器の大きさも感じる。良い師匠だ。

「師匠が褒められるとなんだか誇らしい。ありがとう、一ノ瀬さん」

「菫でいいですよ」

「ありがとう、菫ちゃん」


それからちょくちょく会うようになり、気が付けば付き合っていた。お互い忙しい合間を縫って会って、二人で会える時間を大切にしていた。別に喧嘩しなかったというわけでもないけれど、喧嘩した数仲直りもした。順調な付き合いと言えた。

「俺今度、写真撮らせてもらうことになった。ようやく、カメラマンとしての第一歩だ」

「本当?じゃあ、お祝いをしよう。ケーキ買いに行こうよ」

「菫ちゃんはお祝いと聞くとケーキだな」

苦笑する彼に不満げな顔してみせたけれど、本当に嬉しかった。彼の夢が現実に近づいてるのが本当に嬉しかった、その時は。


それから一

1ヶ月後のことだ。彼が撮った写真が有名なコンクールで入賞したのは。

「おめでとう!」

入賞のお祝いで久しぶりにディナーを食べに行った。割と近いところにあるそこそこリーズナブルでそこそこ洒落てるイタリアンだけど。

「入賞しただけだよ」

「え、でも有名なコンクールなんでしょ?プロの登竜門って呼ばれてるって。それっとすごくいいことじゃない」

「入賞で満足したらダメだと思う。どうせなら、大賞じゃないと」

「あくまで上か。じゃあ、頑張っても兼ねて。乾杯」

「乾杯」

グラスが軽く合わせた。上昇志向。あの時点ではそこも良かった。私だってその頃には大きな仕事したいと思っていたし。誰しもがある程度は持つものだと思った。けど、その2ヶ月後彼の持つ上昇志向と私の持つ上昇志向の格の差を思い知った。


「え?フランス?」

「そ。2ヶ月位。師匠がついて来いって。フランスの現場で学ぶことも一杯あるっていうから。武者修行の一環かな」

「2ヶ月も!」

「2ヶ月なんてすぐだよ。お土産いっぱい買ってくるから」

2ヶ月。私にはすぐとは思えなかった。日々の密度の差を感じた。誰よりも私が近くにいると思っていた彼を遠く感じた。

この時点ですこしだけ心が離れてしまったんだと思う。


彼のいない2ヶ月の間に私は念願だった大きなプロジェクトのメンバーに選ばれた。毎日が一気に充実し始めた。彼にも連絡しようと思ったけれど、時差を考えて連絡はしなかった。

「一ノ瀬、今日残業行けるな?」

「勿論です」

もともと忙しい仕事だ。残業も当たり前。大きなプロジェクトなら尚更だ。落ち着くまで忙殺されて、日付の感覚も完全に飛び、くたくたになって玄関を開けたら見慣れた靴が置いてあった。

「いつ帰って来たの?」

「昨日。帰国する日は行く前に言ったと思うんだけど」

「ごめん、ちょっと今忙しくて。やっと大きなプロジェクトメンバーに選ばれたんだ。毎日充実してる」

「そっか」

多分、この時に彼の心もすこしだけ離れてしまったのかもしれない。


それから一ヶ月もしないうちに彼の写真が国内のコンクールで大賞を取った。最年少受賞者と騒がれ、一躍時の人となった。私はそれをテレビのニュースで知った。

「大賞おめでとう」

「ありがとう。ごめん、時間だ。俺からまた電話するから」

忙しい合間を縫って会えていた時は、限界程忙しくなかったということかもしれない。忙しさも限界まで来ると合間を縫う時間さえない。

いつしか大事にしていた二人で過ごせる時間も取れなくなった。

私も忙しかった。彼は私より忙しかった。いつの間にかラインのやり取りも数日空くようになり、すれ違い始めた。好きなのは変わりないのに、優先できない。

「ごめん、今日残業で帰れない」

「気にしないで、またね」

「ごめん、しばらく海外行くから会えない」

「分かった」

どちらも忙しさは理解していたと思うし、ドタキャンも海外に行くことに何も不満は言わなかった。不満がなかったわけではない。それでも、喧嘩する程会える時間も気力もなかった。今思えば、喧嘩しとけばよかった。不満言って、喧嘩して。喧嘩だってコミュニケーションと聞いたことがある。あの時必要だったのはコミュニケーションだった。たとえ喧嘩でもしておけばよかったんだ。今更どうにもならない小さな後悔。


ピーッとやかんが鳴って、意識を現実に戻す。煙草は大分短くなっていた。煙草を灰皿でもみ消す。マグカップにインスタントコーヒーを入れる。割とそんなこんなで、どちらからともなく連絡しなくなって、自然消滅…。すれ違いカップルの末路なんて大体そんなものよね。自嘲気味に笑う。


温かいコーヒーを飲みながら。郵便物を整理する。大体はDMだ。最近はスマホがあるから手紙なんて書かないしな。新聞以外は入りようがないというか、入ってたところでヘアサロンからのはがき位で…

「ん?」

DMに紛れて、宅急便の不在票が入っていた。すでに時間は2時半を少し過ぎている。しかし、宅急便。割と最近実家に電話したけれど、そんなことは言ってなかったしなぁ。最近といっても2週間以上は前だけれど。最近実家に電話すると母が

「あんたもいい歳なんだし、そろそろ結婚とか…」

「親戚の人がお見合いはどうかって。最近また流行ってきてるし、会ってみたら気が変わるかも…」

等とうるさくなってきた。女ってこういう時面倒だなと思う。もともと大して付き合いのなかった、仲人好きのおばさんがススメてきてるだけだ。会って気が変わるというなら、とっくに社内恋愛の1個や2個している。

そもそも、会社に近いから借りた1人には広いこの部屋は私だけのお城だ。私はそれが気に入っている。今更故郷に帰って結婚とか考えられないし。

学生だった頃夢見ていた憧れの東京。

別に雑誌に載っていたオシャレな生活が出来ているわけじゃないし、どこか空っぽで寂しい街だ。けれど、私は東京が好きだし、結婚するにしてもここから離れることはない気がする。

「お見合い写真が入った宅急便とかだったら送り返しちゃおうかなぁ」

そんなことを呟きながら、メイク落としを手に取る。どんなに疲れていてもシャワー位浴びないと。メイクも落とさないと、肌がくすむらしい。若いころはちょっとぐらい平気だったことが、最近はヤバい。そんなことに年齢を感じてしまう……。寄る年波をなんていったら、20代の分際で何を一丁前にと笑われてしまうんだろう。

軽くシャワーを浴びて、ベッドに潜り込むと同時にやって来た睡魔にあっさりと降伏。夢も見ないで、泥のように深く眠り、心行くまで久しぶりの睡眠を味わった。


眩しさに何度か瞬きをする。良く寝て、昨晩よりグッと頭がすっきりした。もうお昼近い。目をこすり、顔を洗う。2徹のぼろぼろコンディションだったお肌はすこし回復していた。夜更かしと寝不足はお肌の大敵は本当らしい。

食パンをトースターに放り込み、お湯を沸かす。その間に着替えて、スマホを手に取る。電話しないと。

「あ、もしもし?不在票が入ってて。ええ、ハイ。住所は…」

「そうです。『マンション・カトレア』の304号室です。よろしくお願いします」

トーストにマーガリンを塗りながら、あの時食べたベーグルサンドを思い出した。そういえばあのカフェも随分と行っていない。仕事も一区切りついたし、しばらくは時間にもゆとりが持てそうだ。次の週末位行くのもいいかもしれない。

朝食を食べ終わり、朝刊を取りに一階に降りた。

郵便受けに手を伸ばしたところで、耳をつんざくような大声が聞こえた。

「出て行って!その顔暫く見たくないっ!出ていけっ!」

「ちょ、待てよっ」

103号室から男の子が転がり出てきた。それと一緒にボストンバッグが投げ出され、バタンッと大きな音と共にドアが閉まる。彼女と喧嘩だろうか?この子達が喧嘩するにも相手がいる事に気が付くのはいつだろうかと思ってみる。あんまりじっと見るのも可哀想なので、足早に朝刊を取って立ち去った。

少し冷めたコーヒーを飲みながら新聞をめくる。ネットニュースで事足りる時代ではあるけれど、ビジネスパーソンたるもの新聞は読んでおきたい。

「へえ、あの写真家さん個展やるんだ……」

いつか聞いた彼の師匠が個展を開くらしい。行ってみようかな。真ん中くらいなら空いているかもしれない。あー、でもそうなると仕事が忙しい時期と被るかも。

興味はあるものの、なんとなく億劫というか気乗りしない。会ったらどうしようと思ってしまう。

別れる少し前にアパートを引き払い、ここに引っ越した。一応住所は連絡したけれど、彼が訪れることはとうとうなかった。そういえばその連絡に返事はなかったんだっけ。また少し前に戻った意識をインターフォンが現実に戻す。

「はーい」

「宅急便です」

伝票にシャチハタを押して受け取る。小ぶりなのに妙に重い。なぜか送り主のところには私が前住んでいた住所で、友達の名前が書いてあった。彼を紹介した友達は、去年結婚して仕事を辞めた。確か今は郊外に住んでると聞いたんだけど……。中身がお見合い写真の可能性が増えた。疑っても仕方ないので開けてみた。中は

「写真集?」

持ち上げるとはらりと封筒が落ちた。洒落っ気も何もない良くある普通の封筒だ。開けてみるとこれまたシンプルな手紙。見覚えのあるやや右肩上がりの文字。


『一ノ瀬菫様へ

遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございます。

今何が好きか分からないので、写真集を贈らせていただきました。

もう写真なんて見たくはないかもしれませんが、いつか約束したことなのでお誕生日のお祝いも含め贈ります。俺が初めて出版する写真集です。

絶対に初版をあげると約束したのを覚えてくれているといいのですが。

気に入らなかったら適当に処分してください。

体に気を付けて。


追伸 師匠の個展で受付を任されたので、日程中は東京に戻ることになりました』


手紙からは彼が吸っていたセブンスターの匂いがかすかにした。

覚えてくれているといいのですがって、そっちこそなんであんな約束覚えてるのよ。あんな他愛ない口約束。

「いつか写真集とか出したら、絶対に買うよ」

「別に買わなくても、菫ちゃんには初版贈るよ」

「サインも絶対入れてよね。約束できる?」

「ははっ、入れとくよ。約束する」

そっと写真集を開くと最後のページに私の名前とえらく前衛的なサインがしてあった。変わったところにこだわるのはあの頃のままだ。

「本当に覚えてるなんて……」

ぽたぽた涙がこぼれる。スマホを開く。ずっと消せないでいたラインと番号。お礼ぐらいなら許されるだろうか?もうこの際、お礼ついでに文句も言ってやりたい。好きな花くらい覚えているだろうと。それを歳の数贈るぐらいはして欲しかったと。ああもう何でもいいか。震える指で通話ボタンをタップする。呼び出し音が鳴る。

「もしもし?28歳の誕生日おめでとう…菫」

聞きなれた柔らかい声。

「もう、8日も遅くなってる!」

「ごめん、ごめん。今度ランチごちそうするからさ。それで許してよ」

「もう、あのおいしいベーグルサンドじゃないと許さないんだからっ」

「分かった。また行こうな」

泣いてることなんてきっと彼だって分かってるはずだ。それでも何も言わずに会う約束をしてくれる。その優しさがただただ嬉しかった。


菫の花言葉…誠実、小さな幸せ


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