5 ◇高貴な来訪者
昨日、オーリクへの恋を自覚したばかりのメイの頭の中に、アンリの言葉はずっと残っていた。
午前中は茶葉園の事務所でライザフの書類整理を手伝い、午後に男爵邸に戻っていたメイは貴族令嬢の嗜みである刺繍の練習をしていた。
刺繍はあまり得意ではない。進みが遅いのはいつもの事だが、今日は普段の比ではないほどに集中力が途切れがちだった。刺し間違いも多く、これではいけない、と、ひとまず休憩を取ることにした。
メイは毎日欠かさず自分でホーリン茶を淹れる。
今日はもう外出の予定が無いため、動きやすく着心地の良い深緑色のワンピースを着ていた。キッチンに立ったメイはお湯を沸かし、慣れた動作でポットやカップ、茶葉を準備し、ホーリン茶を淹れる支度を整えた。
お湯を注ぐと、すっきりとした爽やかな香りが鼻孔をくすぐってくる。
ポットの蓋を閉じ、砂時計をひっくり返したメイは、キッチンの端に置いてある小さな木製の丸椅子に浅く腰掛けた。
さらさらと流れ落ちる砂時計の砂をぼんやりと見つめる。
次に参加する予定の夜会は一週間後だ。
「……!」
壁の端に静かに佇み優しく見守るオーリクの姿を思い出すだけで、顔が熱くなってしまう。メイは思わず自分の両手で顔を覆ってうつむいた。流水を浴びたばかりの両手はひんやりとしていて心地良かった。
これからどうすれば良いのか。
メイは悩んでいた。
分かっている。アンリの言う通りだ。
オーリクはメイに恋などしていない。あるのは職務としての使命感。そして人としての親切心と優しい心づかい。
「どうしたら……」
当主であるライザフに正直に打ち明けて相談する事を真っ先に考えたが、しかしこれが一番躊躇われた。
そんな事をしてしまったら最後、一瞬でケンベル殿下とオーリク本人の耳に届いてしまう。事実を知った上でケンベル殿下がどのように捉えるかメイには想像がつかないが、オーリクは間違いなく驚き、困らせてしまう。
オーリクにとってメイはあくまでも職務として必要に迫られたからこそ向き合った女性でしかないのだ。
「違うわ」
これは言い訳だ、とメイは思った。
この想いを知られた瞬間、職務に真面目なオーリクは確実にメイのエスコート役を辞するに決まっている。職務として参加している自分ではなく、きちんと他の男性と向き合うべきです、と。
もう会えなくなってしまう。会う理由が無くなってしまう。
そうなってしまう事が一番悲しくて辛い。
いつの間にか全ての砂が落ちきっていた事に気づいたメイは立ち上がり、用意していた五つのカップにホーリン茶を注いだ。自分のぶんの他に、屋敷にいる使用人達の分を用意するのも通常通りだ。
ふわりと香り立つホーリン茶に少しだけ心の落ち着きを取り戻した、その時。
「俺にも一杯くれるか?」
キッチンの入り口に音もなく突然現われた一人の男性。
メイは悲鳴すら上げる事も出来ず、しかしポットを落としそうになる程に身体を震わせて驚いた。どこかの良家の貴族の子息のような風貌の華やかな長身の男性をまじまじと見つめ、メイは目眩を覚えそうになってしまった。
「ケンベル殿下……!?」
「よく分かったな。直接会ったのは、メイ嬢が成人した二年前に挨拶したあの一瞬だけなのに」
失礼するよ、と足取り軽くキッチンへと入ってきたケンベルは、淹れたばかりのホーリン茶が入ったカップを持ち上げて香りを楽しんだ後、優雅に口に含ませた。
「最高だ。美味しい」
「あ、ありがとう、ござます」
「サフィアも……ああ、俺の婚約者だ。彼女がホーリン茶をとても気に入っている」
ケンベル殿下は熱さには強いのか、早いペースでホーリン茶を飲んでいる。メイは呆気にとられてポットを両手で持ったまま硬直してしまった。
どうしてケンベル殿下がこんな場所に、きちんとおもてなしを、いいえそれよりもお父様はこの事はご存じなのだろうか? と、動かない身体とは裏腹に頭の中はぐるぐると混乱していた。
ケンベル殿下が「ごちそうさま」とカップを置くと、にっこりと優雅に微笑んだ。
「馬は好きか?」
「え?」
「好き、嫌い、どっち?」
「好きです」
即答すると、満足げに頷いたケンベル殿下はメイの両手からポットを奪って棚の上に置いた。そして自然な動作でメイの手を取って歩き出す。メイも慌てて、抗うことなど出来る訳もなく足を動かしていた。
「馬好きのメイ嬢のために、これからサウエンデ王国自慢の厩舎に招待しよう。ティーノット卿には午前中に、この屋敷の使用人達にはついさっき、行き先も帰宅時間も知らせておいた。安心して馬との触れ合いを楽しむと良い」
「えっ、あの、殿下!」
「着替えたいとか言うなよ? 今のままで十分だ。行き先は厩舎だけなんだ、かしこまった支度はする必要ない」
拒否という選択肢は最初から与えられている訳がなかった。
されるがままに馬車に押し込まれ、しかもそのままケンベル殿下まで同乗したのでメイは仰天した。王太子殿下と馬車に同乗などあり得ない。素早く窓を覗き込んできた用心棒の風貌をした男性に対して、「出せ」とケンベル殿下が鷹揚に言うと、馬車はすぐに出発した。
ケンベル殿下と向かい合う形に座っている事に驚いたメイが、逃げるように身体を横にずらして縮ませると、ケンベル殿下は声を上げて笑った。
「そんなに緊張してくれるな。おかしいな、俺はいつもこんな調子だ。大体どんな相手もわりとすぐに態度は軟化するんだが」
「も、申し訳ありません」
「ああでも、さすがにここまで強引に貴族令嬢を連れ出したのは確かに初めてだな」
まったく悪びれた様子もなく、ケンベル殿下は優雅に足を組み、その膝の上に片肘をつき手の甲に顎をのせた。
「男爵を介さずに二人きりで話しをしたかったんだ。メイ嬢の本音を聞きたくてね。エスコートの件だ」
メイは息を呑んだ。ケンベル殿下が自分に用事があるとしたら、確かにその件以外には考えられない。
「俺なりに考えてオーリクを選んだが、どうだ? もし不満があったら遠慮無く言うと良い」
「不満だなんて」
メイは慌てて姿勢を正した。
「いつもオーリクさんには助けていただいています。とても良くして頂いて、感謝の気持ちしかありません。私は、これからも、オーリクさんにお願いしたいのですが……」
言葉が途切れがちになってしまうのは、近衛騎士としての本来の職務の時間を削ってエスコートしてもらっているという申し訳なさ。そして、会えなくなってしまう事が辛いからという身勝手な感情。
メイが唇をきゅっと閉じて目を伏せると、ケンベル殿下は意外そうに瞳を大きく開き、まじまじとメイを見ていた。
「意外だ。こっちが落ちたか」
「……?」
「へぇ。面白くなりそうだ」
「殿下?」
ケンベル殿下はただただ愉快そうに笑っている。
「メイ嬢、オーリクの事を気に入った?」
笑顔のまま全てを見透かしたような美しい碧眼に尋ねられ、メイは言葉を失った。気に入った? という言葉には、好きなのか、という意味が込められている事は間違いなかった。
「この世の終わりみたいな顔をするな。その感情を咎めるつもりも、エスコートから外すつもりも無い」
「あの……」
「頑張れ。応援する」
思いがけない言葉にメイは驚くとともに、アンリの言葉を思い出していた。アンリの予想通りだったという現実を悟った。ケンベル殿下は万が一の事を考え、メイのエスコート役には身分のつり合いがとれて問題の無い人を選んでいたのだと。
「それとも俺から言っておいてやろうか? メイ嬢はオーリクに恋情を抱いている、男としてその想いに応えてやれ、と」
「それは! それは絶対にやめてください。お願いします」
ケンベル殿下にとってはささやかな後押し、気軽な気持ちだとしても、王太子殿下にそのように言われてしまっては命令に等しい効力を持ってしまう。オーリクはきっと抗わない。その現実が恐ろしかった。
お互いに爵位は継がない身とはいえ貴族の家の生まれ同士だ。
ライザフに頼んでヘウム子爵家に結婚を申し込み、もしもヘウム子爵が承諾してくれたら結婚はすんなりとまとまってしまう。家柄や立場のつり合いはアンリの言うとおり全く問題が無いからだ。しかしヘウム子爵家に断られてしまったら、オーリクと会うことが出来なくなってしまう。
結婚を申し込んで承諾される事も、断られる事も、エスコートを外される事も、全ての事を今のメイは望んではいなかった。
メイは、自分がとても欲深い感情を抱いてしまっている事に気づき、恥ずかしくなってしまい赤面した。恋した相手に同じように自分の事を想ってほしい。そう強く望んでしまっている。
こんなにも身勝手な感情を抱いてしまうなんて。
貴族の結婚は家と家との繋がり、つり合いが全てだ。その結婚観を理解して受け入れていたつもりなのに、全力で抗おうとしている。
「よし。今しか機会はない。惜しみなく助言しておいてやる」
ケンベル殿下は内緒話しをするように声を小さくして、メイにもっと自分に近づくように手招きした。
「恥じらいは捨てて真っ正面から好意を伝え続けろ。貴族令嬢としてうんたらかんたらは考えるな。諦めるな。良いか?」
「え……」
「あいつは仕事に関して忠実で優秀だ。だがな、それ以外は正直残念な男なんだ。女性関係はある意味一番残念な範囲だな。あの顔だろう? 同年代の女性に見向きもされない事に慣れすぎてて好意を持たれる可能性を微塵も考えていない。悪質なのはその事実を悩むことなく受け入れて、仕事を生き甲斐に全振りしているところだ。最悪だろう?」
「あの……」
メイは困りながら眉を下げてしまうが、ケンベル殿下は大きく真剣に頷いている。
「酷な現実を言うが、職務としてエスコートしているメイ嬢にあいつが惚れる可能性は限りなく低い。奇跡的にメイ嬢に惚れたとしても、融通の効かなそうな神経を持っていてな。俺の勝手な予想ではあるが、恐らくメイ嬢に告白もプロポーズもしないぞ。仕事上の関係者だから、それだけの理由で、だ。メイ嬢、本当にこんな男が良いのか? 正気か?」
「……はい」
騎士としては優秀と言いつつ、あまりの言い草にメイはどんな表情をして良いか分からなくなってしまい苦笑した。しかし正直、それほど驚きもしなかった。納得しながら聞いていた。
「私は、そんなオーリクさんだからこそ、好きになってしまったんです」
ケンベル殿下には想いを隠す必要が無くなり、メイが素直に言うと、今度はケンベル殿下が呆けた顔をした。
「……あいつにメイ嬢は勿体ない気がしてきた。もっと良い男にしておくべきだったか」
「? 殿下?」
低い声の早口を聞き取れずにメイが困惑すると、独り言だ、とケンベル殿下は仕切り直すように笑った。
がたがたと馬車が揺れる。
いつの間にか王城の敷地に入っていたらしい。
「メイ嬢の意思を尊重して俺は口を挟まず応援するが、本当にそれで良いんだな?」
「はい。応援していただけるだけで、とても嬉しいです」
「男爵にも言わないでおこう。君を溺愛しすぎている彼は何をしでかすか分からないからな。メイ嬢にとって最高な結果になる事を願ってる」
ケンベル殿下はメイの右手をとると、その甲に唇を寄せた。
あまりも自然で妖艶すぎる不意打ちにメイが言葉を詰まらせて赤面すると、ケンベル殿下はやはり愉快そうに笑うのだった。