4 ◇自覚
オーリクのエスコートで社交界に参加するようになり、三ヶ月程の月日が経過していた。
昼下がりの落ち着いた時間にティーノット男爵邸にやって来たのは、メイが心待ちにしていた人物だった。
「メイ! 会いたかったのよ。久しぶりね!」
扉を開けてメイの姿を見た瞬間。パッと瞳を輝かせて小走りにメイに駆け寄って彼女の両手を握りしめてはしゃぐ女性は、アンリ・モルコーク伯爵夫人だ。
幼馴染みの関係であるメイとアンリが二人で会うのは一年ぶりだった。
「モルコーク伯爵夫人。お会い出来て嬉しいです」
「やめてよ、そんな堅苦しい! 今日は二人きりでしょう? お互い楽に話しましょうよ。ね?」
片目を瞑って小首を傾げるアンリは相変わらずとても可愛らしい。
メイもつられるように微笑んで「そうね」と明るく頷いた。
アンリとメイは同い年で幼馴染みだ。
アンリは二年前に、成人してすぐに婚約者だった若き当主モルコーク伯爵に嫁いだが、婚前はスバイド伯爵家の令嬢だった。
スバイド伯爵家とティーノット男爵家は昔から親交がある。
ティーノット家がまだ平民だった時。ホーリン茶葉の美味しさを多くの人々に伝えるべきだと熱心に助言や手助けを行ってくれたのがスバイド家だ。やがてホーリン茶葉と茶葉園が認められ、ティーノット家が男爵位を得て名乗ることを許された時に大喜びしたのもスバイド家だった。
お互いの家族同士も仲が良く、メイとアンリは物心ついた時にはお互いが側にいるのが当たり前で、アンリが結婚する前は頻繁に顔を合わせていた。
穏やかな雰囲気のメイと華やかで明るいアンリは、容姿も雰囲気もまるで違っている。それでも二人は姉妹のように仲が良い。その良好な関係はアンリが結婚した今も全く変わってはいなかった。
メイの私室に場所を移し、メイとアンリがお互いにソファへ腰を落ち着けると、ポーラも嬉しそうにお茶菓子の準備を始めた。
「ポーラも久しぶりね! 元気にしていた?」
「はい。この通りとても元気ですよ。アンリ様もお元気そうで。それどころかますますお美しくなられましたね」
「ええ? そうかしら?」
「そうですとも。モルコーク伯爵がアンリ様を大切にされていることが分かりまして、大変嬉しく思います」
「夫は関係ないわ!」
明らかに照れて唇を尖らせるアンリは、ポーラの言う通りとても美しく幸せそうだった。
結婚して遠くの地へ離れてしまったアンリとは手紙のやり取りを頻繁にしているとはいえ、幸せそうな姿を直接見ることが出来るとやはり違う。メイも心から嬉しい気持ちで満たされた。
何かご用がありましたら遠慮なくお声がけして下さいね、と言ってポーラが退出する。部屋にはメイとアンリの二人きりになり、早速口を開いたのはアンリだった。
「で、どうなの? 良い男は捕まえられそう?」
ウキウキとした好奇心を隠す事なく直接的に尋ねられ、メイはティーカップに口をつける直前に慌てて離した。
「まだ社交界のシーズンが始まって三ヶ月よ? 捕まえるだなんて。良いご関係を築けそうな方が出来たらちゃんとアンリに報告するから」
「ふぅん? まだ誰も目ぼしい人はいないわけね。まだ三ヶ月って言うけどもう三ヶ月よ。のんびりしてられないんだから」
残念だわ、とため息をつきながら、アンリはクッキーをつまんでサクリと頬張った。メイとアンリは少々の時差はあれど、お互いの状況などはほとんど把握済みだ。
「メイの手紙を読んでいたら、最近は楽しそうに参加してるのは分かってたから。前までは辛そうだったのに。そんなに生真面目にならなくても、って何度書いたことか……」
「心配かけてごめんね。でも今は本当に楽しいの」
「ティーノットおじ様の愛は凄いわねぇ。殿下に直接お願いしてエスコート役を引っ張ってきたなんて! でも、その近衛騎士は凄ーく良い人なんでしょう?」
「ええ。とっても素敵な方よ」
メイは微笑みながらうなずいた。
頭の中に浮かぶのは年齢不相応な渋い顔を持つ一人の騎士、オーリクだ。夜会に関しての悩みがなくなったのも、楽しく参加出来ているのも、全て彼のお陰なのだと断言できる。
参加したら一回は必ず踊るダンスは誰と踊るよりも楽しい。雑談はあまりしないけれど、彼の落ち着いた声を聞いているだけでホッするのに、少しだけ胸が高揚するような不思議な感じもする。精一杯着飾った自分を、まっすぐな言葉で褒めてくれる度に嬉しく思ってしまう。社交辞令と分かっていても嬉しいのだ。いろんな事を頑張ろうと前向きになれる。
紅茶を啜りながらアンリはしばらく観察するようにメイを眺めていたが、やがてニヤリと人の悪い笑みを見せた。
「あら。ふぅん? 捕まえてはいないけど、捕まえられちゃっていたというワケ?」
アンリの言葉の意味が分からずメイは首をかしげてしまう。
アンリはティーカップをソーサに置くと、ぱらりと優雅に扇を開いて口元にあてた。何か心惹かれる楽しい玩具を見つけたように、魅力的な瞳がうっすらと細くなった。
「好きな男性がいるのね?」
思いがけない言葉に、メイは瞳を見開いた。
「いないわ。まだ誰とも深く進展はしていないもの」
「進展の有無じゃなくて。重要なのはメイの気持ちよ」
呆れた様子のアンリはぱちりと扇を閉じると、扇の先端をメイの胸のあたりに向けた。
「さっき私が近衛騎士の事を聞いた時、自分がどんな顔をしていたか分かる?」
「え?」
「私が今まで見たことないくらい、とーっても可愛い顔をしていたわ。メイ、あなた、エスコート役をしてくれてるというその騎士に恋しちゃってたのね?」
恋?
メイはぽかんとアンリを見つめた。
恋は知っている。恋愛を主軸にした舞台などを観劇したこともあるし、物語の中でもよく目にする。当然理解している。
心浮き立つきらきらとしたもの、渦のような激しい感情であったり、張り裂けそうな強い想いであったり。恋はとても複雑で、でも一つ一つがとても強く輝いているように見えていた。
ただ、自分には無縁なものだとも思っていた。
結婚生活と恋は別だ。家と家の関係性を重視した上で父が認めてくれた男性と結婚して、穏やかながらも信頼関係を築き、安心して過ごせるような。メイはそんな結婚を望み、そして憧れていた。
その憧れは恋のような、シャンデリアの輝きのごとくきらきらとしたものではなく、淡く静かに光る月や星の輝きのような静かな感情だった。
「オーリクさんに……恋」
考えてもみなかった可能性を呟いた瞬間、メイの胸の奥が信じられない程に大きく跳ねた。
動揺して思わずカップを落としそうになり、慌ててソーサーの上に置いた。右手を自分の胸にあててみる。右手に伝わるはっきりとしたどきどきと鳴る鼓動に、自分の事なのに他人事のように驚いた。
ずっと不思議な気持ちだった。会う回数を重ねる度に高揚する気持ちと、終わってしまった時の寂しい気持ち。父や兄と一緒にいる時のような安心感もあるのに、それなのにそわそわと落ち着かないような燻りも毎回感じてはいたが。
経験した事の無かった感情の動き。まさかこれが、自分には無縁だと思っていた恋というものなのだろうか。
「恋……なのかな?」
頬を真っ赤に染めてしまう。
メイがアンリを見ると、アンリの表情は喜色に溢れていた。
「なるほど、無自覚だったのね。やーっと今自覚したなんて。どんなに色々手紙に書いていたとしても、やっぱり会わなきゃ分からない事があるわねぇ」
ますます上機嫌になったらしいアンリは、すぐそばに置いてあった鞄から何やら小さく折り畳まれた紙を取り出した。紙を広げると、意外とそれは大きく、うっすらと透けて見える文字はびっしりと紙一面に書き込まれているらしい事はメイにも分かった。
「アンリ、それは?」
「メイの手紙に登場していた男達の調査結果よ」
「調査結果?」
「と、言っても三ヶ月で三人しか書かれていなかったし、そのうち一人がその近衛騎士の人だったしね。しかも一番名前が多かったのもその近衛騎士だったから、私なりに調べていたのよ。夫の人脈も駆使してね。オーリク・ヘウムさんの事。メイは優しくて可愛い最高の女性なのに、元平民だからって侮る馬鹿男と結婚させる訳にはいかないでしょう?」
きっぱりと言い放つアンリにメイは唖然としてしまった。
なんという行動力。
全てはメイの事を親友として思いやってくれている上での行動だ。感謝の想いと共に、そこまで心配されていたなんて、という驚きでいっぱいになってしまう。父と兄と同じくくらいに自分の結婚を心配していた人は、そういえばアンリもだったわ、と改めて思った。
「結論から言うと、オーリクさんはメイの結婚相手としては最高よ」
真剣な表情で紙を睨むように読み返しながらアンリは言う。
アンリの気迫に押され、メイが口をはさむ事が出来ずにいた。
「一番重要な家柄もつり合いが取れているし、近衛騎士というお立場も年齢も文句無しだわ。後継問題も抱えていないしね。それと人柄、これは夫が調査してくれたの。女性関係に不誠実な行いをしたという噂も皆無、交際相手も婚約者もいない。社交場に出たとしてもご親族のエスコートが主だったみたいね。強面の老け顔で若々しさが皆無って書いてるけど本当? それと、良くも悪くも仕事人間で淡々としている、でも愛想は悪いわけじゃない……みたいだけど。そうなの?」
「アンリ……よく調べたのね。オーリクさんは穏やかで親切な方よ。お顔は、お会いしたら分かるわ」
「そんなに老けてらっしゃるの?」
「渋いお方だなって、最初は思ったけど」
アンリが今話した情報は、初めてオーリクと夜会に参加した時に本人から聞いた話と、伝え方が違うだけで中身はほとんど一緒だ。
実は未だにその通りで、オーリクに話しかけてくる数少ない女性は三十代後半以上の既婚女性で簡単な挨拶に限られている。しかもその女性達も誰かと人違いしていたり、誰かは思い出せないけどひとまず挨拶を、という様子ばかりだ。
同年代の女性と話している姿を、この三ヶ月間一度も見たことが無かった。
「そもそもオーリクさんをエスコートにって選んだのが殿下なのよね?」
「ええ、そうよ」
「ならもう大丈夫ね!」
えっ。……え?
アンリが満足げに紙を畳み直して鞄に仕舞い、優雅に紅茶をまたすすりだす。しかし今の会話の流れでなぜそのような返事になるのか。
「何が大丈夫なの?」
困惑をおさえ真剣に尋ねると、アンリはきょとんとメイを見た。しばし長く沈黙したが、アンリは「いや、だって」と真剣な表情になる。
「殿下の人選よ? あくまでもエスコート役だけど、交流を重ねていくうちに万が一そうなっても良い人を選ぶに決まっているじゃない。殿下の近衛騎士とお立場を明かした上でのエスコートなら尚更だわ、厄介事が起きたら殿下の評判にも関わるもの」
「……それって、その」
「恋仲になってもなんら問題が無い人」
恋という言葉すら言われるまで考えてもいなかったメイには衝撃は大きすぎた。アンリの言う事は確かにその通りかもしれない、とも思えるし、そんなまさか、とも思える。
貴族は数多に存在する。ケンベル殿下と密接な関係を築いている貴族も、おそらくは沢山いる筈だ。
確かにホーリン茶葉は話題で注目されてはいるが、しかし管理運営しているのは平民感覚の色濃いティーノット男爵家だ。そんな家柄の娘のエスコート役選びに、ケンベル殿下がそこまで配慮するのだろうか?
「オーリクさんはいつも冷静で、落ちついていて……。オーリクさんなら女性と問題を起こす事はあり得ないというご判断で決められたんじゃないかしら」
言葉にするとやはりその可能性の方が大いに高いのでは、と思えてならない。
しかしアンリはまったくの別視点で話を聞いていた。
「んん? なんか話を聞いていると脈無しっぽいわね」
「脈無し?」
「良い人は良い人なんだろうけれど、三ヶ月間もメイと交流を持ってもそんな冷静な態度って。オーリクさんは一貫して職務姿勢なのね? 噂以上の仕事人間なのかもしれないわね、職務中に恋愛とか言語道断とか思ってそう」
「それは良い事ではないの?」
「メイ……考えて! もしオーリクさんが、次回から婚約者と参加するのでもうエスコート出来ません、とか、好きな人が出来たんですよ、とか惚気られたら素直に祝福できる?」
できる、とは言えなかった。
嫌、と内心で小さく即答している自分がいて、メイは呆然とアンリを眺める事しかできない。
やっと事を理解したらしいメイに、アンリは「手間がかかる子ねぇ」と言いつつも、はっきりと口端をつり上げて笑みを浮かべ、閉じられた扇の先端をピシリとメイの正面に突きつけた。
「手強そうだけど落とし甲斐があって良いじゃない。社交界シーズンはあと二ヶ月よ。それを過ぎたら交流機会なんて月一か二回有るか無いかのお茶会だけになっちゃうんだから、この二ヶ月が勝負だわ。絶っ対にオーリクさんを落としてプロポーズさせるのよ!」