3 ◇奇跡
メイは凄まじく緊張していた。
こんなにも緊張するのは初めての社交界の時以来だ。高揚感のある緊張ではない。頭が真っ白になってしまいそうな緊張だった。
「体調が優れませんか?」
「だ、大丈夫です」
心配そうに顔を覗き込んできたオーリクと視線が絡まる。メイはなんとか冷静に返事をした。
手袋をはめたメイの右手はオーリクの左腕にゆったりとかけられている。その姿は他の誰が見ても、エスコートする紳士とエスコートされているご令嬢の姿そのものだ。
光輝くシャンデリアの下で、多くの貴族達が華やかな装いでダンスや歓談を楽しんでいる。
メイは初めて父と兄以外の男性からのエスコートでベルナット侯爵主催の夜会に参加していた。今は侯爵へ挨拶をするべく同じ目的の人々の行列に並んでいる最中だ。
ちらりと視線だけを斜め上に向けてみる。高い位置にあるオーリクの整った渋い横顔を視界に捉えた。
ケンベル殿下に仕える身分を現す近衛騎士姿のオーリクは会場でとても目立っていた。
王家主催の夜会やパーティーならば近衛騎士は当然のように多数の人員が配置されているが今回は違う。近衛騎士という身分を隠すことなく堂々とエスコート役として参加している者はオーリクしかいない。
なぜ彼女のエスコートに殿下の近衛騎士が?
と、ひそひそ話す声はメイの耳にも届いていた。
微笑みを心がけ、ベルナット侯爵への挨拶を滞りなく済ませた後、メイ達はメイン会場へと足を進めた。父も遅れて会場に来るとは言っていたが、どうやらまだ到着してはいないらしい。
躓いて転ばぬようにと足元に意識を集中させていたが、オーリクが立ち止まったのでメイも足を止めた。どうしたのかと見上げると、彼から差し出されたのは小さなグラス。中には美味しそうなオレンジ色の果実水が注がれていた。足元にばかり注意していたメイは、オーリクが使用人からグラスを受け取っていた事も、会場の中心ではなく壁際に向かって歩いていた事にすらも今まで気がつかなかった。
「少し休憩しましょう」
「よろしいのでしょうか? まだ一曲もダンスを踊っていませんが」
主催者への挨拶を終えた後、ダンスを最低でも一曲踊ってから、軽食をとって歓談に入る事がサウエンデ王国ではマナーとされている。メイはダンスもせずに早速飲み物に口をつける事を躊躇っていたが、オーリクは首を振った。
「無理をしてはいけません」
緊張で顔色が悪かったのかもしれない。
落ち込みかけた時、「メイ嬢」と力強く名前を呼ばれた。オーリクは大きな背を屈ませてメイと真っ直ぐに視線を合わせてくる。
「今日は私との親交を深める日としませんか?」
「オーリクさんとの、親交を?」
「はい」
頷いたオーリクは微笑を浮かべた。無表情だと年齢不相応の渋い中年騎士なのに、笑顔になると雰囲気が少しだけ変わる。目尻にある多めのシワから愛嬌が感じられ、思わずオーリクにメイの視線が釘付けになった。
「これから一年間、お供をさせていただくのです。私はメイ嬢の事をよく知りたい」
真っ直ぐなその言葉はメイにとってはあまりに破壊力がありすぎた。
自分の事をよく知りたいなどと言われた経験が無かったメイは、青白かった肌色をみるみるうちに赤くさせてしまう。オーリクの言葉が、エスコート役という職務を滞りなく務めるための必要に言葉なのだと理解していても気恥ずかしくて仕方ない。そして、自分に対して真摯に向き合ってくれる事がとても嬉しかった。
「ありがとうございます。私にもオーリクさんの事を教えてください」
「私ですか? つまらない男らしいですが」
眉を寄せて難しい顔をしてしまうオーリクの様子から、過去に散々つまらない男と言われてきたのだろうという事が容易に想像がついてしまった。メイは思わず可笑しくなり、くすくすと微笑んでいた。
オーリクからグラスを受け取り、二人は控えめにグラスを合わせて乾杯した。
社交界では重度のあがり症という自覚があるメイは、父や兄ではなく、オーリクのエスコートで本来の目的のために動く事が出来るかの不安は大きかった。だからこそ、オーリクから親交を深めたいと言われたのは有難かった。直接会話した上でオーリクの人柄を知れば、今後は少しでも心を落ち着かせて夜会に参加できるかもしれない。
メイはオーリクからの質問に一生懸命答えた。
家業の手伝いも勉学の時間も好きなこと。男爵家の使用人は他の貴族より数がとても少ないが、幼い頃から共に過ごしている大切な存在である事。わずかな自由時間は読書や苦手な刺繍の練習をしたり、ホーリン茶葉を美味しく淹れる研究をしたり。機会は少ないが、乗馬も好きな事を話した。
「乗馬がお好きなのですか?」
オーリクが驚いた様子で細い灰色の瞳を見開く。乗馬に反応が大きいのは騎士の方だからかしら? とメイは微笑んで頷いた。
「はい。ティーノット家に馬はいないのですが、親しくさせて頂いている兄の友人がたまに誘ってくださっていたんです。今はそのご友人の方も留学中で、もう一年以上乗馬はしていないんですけれど。乗馬が出来る日はいつもワクワクしていました」
「そうでしたか。まさかメイ嬢から乗馬という言葉を聞くとは思いませんでした」
会場に流れていた楽しげで明るい音楽が終わり、落ち着いた曲が奏でられ始める。オーリクは自然な動作でメイの手から空のグラスを抜き取って使用人にグラスを返すと、大きな手を差し出した。
「お話を続けたいところですが、まずは一曲だけ私と踊っていただけませんか?」
会話する時間を持つことが出来て本当に良かった。会場に来たばかりの時にあった苦しい緊張感は無くなり、今ではすっかりと落ち着く事が出来ている。メイは笑顔で頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
オーリクの手に自分の手をそっと重ねる。互いの手袋越しに伝わる体温が心地良く、不思議とメイの気持ちは前向きな明るいものになっていた。
メイはダンスが好きだ。
父や兄と踊る時は純粋に楽しく、ダンス講師の老紳士と踊る時は少しばかり緊張するもののやはり最終的には楽しいと思う。だが、この三人以外の男性が相手となると、どうしても楽しくなくなってしまうのが常だった。
足を踏まないように、粗相のないように、嫌われないように、次につなげるために。家族を安心させて喜んでもらえるようなご縁を結ぶために。いつも必死で、ダンスを心から楽しむ事など無かったのだ。
だが、今日は違った。父や兄と踊っている時と同じような安心感と、言葉では上手く表すことが出来ない感情が胸の中で温かく広がっていく。
「オーリクさん」
メイは顔を上げてオーリクの横顔に向かって小声で名前を呼んだ。
無表情にどこかを見ていたオーリクだが、メイに呼ばれて視線を合わせてくれる。その時は既に、無表情のままでも雰囲気は一気にやわらかくなっていた。
「とても楽しいです」
メイが言うと、オーリクは面食らったように何度か瞬きを繰り返したが、優しく目元を緩ませた。
「私もです。メイ嬢はダンスがとてもお上手だ」
「初めて言われました。ありがとうございます」
「本当ですよ」
お世辞と思われたのが不服そうに真剣にオーリクが言うので、またメイはおかしくなって笑ってしまう。
楽しい一時を過ごすことが出来たメイは幸せに浸っていた。
ダンスを終えた途端に、メイにとっては奇跡としか言いようがない出来事が次々と起こった。
移動していた時に声をかけられたのだ。相手は子爵家の令息で、メイに紳士的に挨拶をしてくれた。
最近の夜会は参加する度に壁の花になりかけていたのに。少々はしたない行動だと承知の上で、自分から話しかけることもしばしばだった位だ。
驚くあまり返事に詰まっていたメイだが、オーリクに背中を支えられてやっと我にかえり、緊張しながらも丁寧に挨拶を交わした。
次は私と踊っていただけませんか? と尋ねられ、またもや驚いてしまう。
「申し訳ありません。メイ嬢は少々お疲れのようでして。また次回にお誘いいただいても?」
戸惑って言葉を詰まらせていたメイを助けるように、オーリクが返事をしてくれる。すると相手も納得し、ぜひまたの機会に、と言葉をかけてくれたのだ。
一人去ると次々と男性が声をかけてくる。さらにはダンスにまで誘ってくれる。奇跡としか言いようがない出来事だった。
微笑みを浮かべて振る舞いに気を付けつつもメイは込み上げる混乱を押し隠す。それを分かっているかのように、オーリクは的確な言葉で助け船を出してくれるだけではなく、ダンスに関しても相手を不快にさせないように気を付けつつ断りを入れてくれる。そんな事を繰り返していたら軽食に手をつける事も出来ず、いつの間にか夜会も終盤へと突入していた。
伯爵を名乗った男性と挨拶を交わし、去っていくのを確認した後、メイは思わず細く長い息を吐き出した。楽しかったダンスの浮き足たつような気持ちはとっくに消えて、歓談の人波を乗りきった達成感と疲労感が全身を支配している。
「やっと落ち着きましたね。少し涼みに行きましょう」
「はい」
オーリクに導かれ、メイはバルコニーへと向かった。
外に出た途端に涼しい夜風が肌を撫でる。すっかり熱がこもっていた身体に夜風はとても気持ち良かった。
「あの、オーリクさん。普段でしたらこんなにも多くの方々にお声がけを頂く事はありません。落ち着いて皆さんとお話が出来たのはオーリクさんのおかげです。ありがとうございます」
メイは膝を折って丁寧に感謝の言葉を告げると、「とんでもない」とオーリクはきっぱりと返事をした。そして彼は少しの間だけ会場を険しい表情で眺めた後、メイへと向き直って告げた。
「メイ嬢が縁談に苦戦を強いられていた原因の一つがはっきりと分かりました。原因は貴女の振る舞いや態度ではありません。ティーノット卿です。おそらくアンドリュー殿も」
「お父様と、お兄様?」
思いがけない原因を突きつけられ、メイは訳が分からず首を傾げた。
オーリクは腕を組むと、表情をますます険しくさせてしまう。難しい表情のオーリクは渋みも凄みも増してしまい年齢離れした中年感も増大していた。
「ティーノット卿はメイ嬢には決して気付かれないように、貴女に近付く男達に対して殺気を放っています。脅しとは言い難い程です。関わりを持つ事を避けるべき、と判断されてもおかしくは無い振る舞いでした」
「そんな。父は早く私に結婚して欲しいと、常々」
「間違いなく結婚は望んでおられます。しかし、メイ嬢の事をとても心配しておられるのも事実です。今日はティーノット卿は離れた場所からずっとメイ嬢を見守っておられましたが、近付く男達に向かってグラスでも投げつけかねない殺気がありました。あの視線と殺気を間近で受けていたら、メイ嬢への声がけを躊躇うのも理解できます」
真剣に話すオーリクが嘘をついているなどとは思っていないが、メイにとってはあまりにも衝撃的で悲しい事実だった。まさか父と兄がそんな感情と態度でエスコートをしていたなんて。
「私が近衛騎士で職務としてエスコートしている事と、ティーノット卿がメイ嬢の側にいない事で、やっと令息達は安心して声がけが出来たのでしょう。今日私が心掛けた事といえば、ティーノット卿の視線が令息達に向けられないように壁になる事です」
「か、壁ですか?」
「はい。メイ嬢は完璧でした。今後も自信を持ち堂々と参加してください」
オーリクに励まされ、メイは気まずい思いでぎこちなく頷いた。
「自分のことで精一杯で、父と兄のそんな様子に気が付く事が出来ませんでした。父を説得します。怖い態度を出さないで、と。私がずっと独身でいられたら困るのは父と兄なのですから、きっと分かってくださいます」
「説得なさらなくとも、もう十分ティーノット卿ご自身は分かっておられるのかもしれません。だからこそ、殿下にエスコート役を見繕ってほしいと願ったのでしょう」
オーリクは胸ポケットの中にチェーンで繋がれた懐中時計の蓋を開いて時間を確認したと同時に鐘の音が響きだす。夜会の終わりを告げる鐘だ。
懐中時計をしまったオーリクはメイに片手を差し出した。
「次回からは本来の目的を果たすために、精一杯エスコートさせていただきます」
本来の目的。良縁を結ぶために。
胸の中に小さな痛みを感じる。理由が分からず、メイは一度胸の前で片手を握りしめてしまったが、慌ててその手をほどいてオーリクの手に自分の手を添えた。
オーリクの優しい眼差しに、メイも精一杯の笑みを浮かべながら感謝の言葉を伝えた。