2 ◆オーリク・ヘウム
◆
「結婚する気はあるのか?」
オーリクは思わず目を瞬かせた。
今この執務室には王太子ケンベルと近衛騎士オーリクの二人しかいない。尋ねてきたケンベルは片手は頬杖をつきながらも、片手は休める事なく書類に文字を走らせていた。
「はい」
咄嗟に返事をしたが、正直オーリクは結婚に関して何も考えていなかった。
「いつだ?」
「……ご縁があれば」
「はぁ? 婚約者はいなかったはずだよな。交際相手は? または、惹かれている女性は?」
「おりません」
「即答か。つまらない男だ」
ケンベルは心底つまらなそうな顔をする。結婚について聞かれたのは初めてで、オーリクはなぜ突然そのような質問されるかが分からず不思議に思った。つまらない男、は確かにその通りだと自分で納得しているため反論する気も無い。
田舎領主をしているヘウム子爵家の次男としてオーリクは生まれた。
貴族の家に生まれたものの、実家は華やかさとは遠い場所に位置する農民気質貴族と言われている。
継ぐものが何もない彼は、田舎で育ったせいか身体を動かす事が好きだった。単純な理由ではあるものの幼い時に自然と騎士としての道を選び、叩き上げで騎士としての経験を積み重ねていた。王都から離れた遠い地の国家騎士団に所属して人生を過ごし続ける事を、当たり前のように受け入れていた。
転機が訪れたのは一年前。
オーリクの所属していた騎士団の視察に現れたケンベル直々に「近衛騎士団に入れ。そして私の側付きの近衛になるんだ」と指名されたのだ。
選ばれた理由が「その老け顔と年齢の釣り合いが取れていないのが気に入った」とハッキリと笑顔で言われた時、能力や技量を無視した近衛騎士の選び方の現実にとても驚いた。
しかし、近衛騎士として求められる技量や能力は上回っている事を確認し承知の上での指名だったと、後日に近衛騎士団長からこっそりと教えられた時は苦笑するしかなかった。現実、近衛騎士達は日々ケンベルに大いに振り回されている。
側付きの近衛騎士となり一年が経った今、オーリクがケンベルに対して抱く感情は忠誠心と敬意。共通点は同い年ということだが、あくまでもそれだけだ。
「結婚を急かされている立場ではありませんので。今は特に、私は職務に集中すべきと考えています」
結婚を間近に控えているケンベルの周辺は今は何かと慌ただしく、公式行事に伴う外交も格段に増えている。気を張らねばならない機会は多い。私生活よりも、今はケンベルの護衛としての職務に時間を割くことに何よりも重きを置いていたのは事実だ。
オーリクの言葉にケンベルは口の片端を上げて笑った。
しまった、とオーリクが気がついた時はすでに遅い。
今のような不敵な笑みの後に命令される事はロクなものではない事を既に知っている。何かの言葉尻を取られて都合の良いように解釈されてしまったことを悟り、そして瞬時に諦めた。
「職務に集中すべき、か。ならば存分に集中してもらおう」
渡された二枚の紙。そこには国内の貴族令息達の名前だけが書かれていた。一枚目の紙には紙一面にびっしりと、二枚目の紙には十人の貴族令息の名前が書かれている。
この紙に書かれている令息達の共通点は、爵位持ち、あるいはいずれ爵位を継ぐ事を約束された独身者達であるという事もすぐに理解出来た。
「ティーノット男爵に娘がいるのはお前も分かっているな? 俺と共に散々娘自慢を聞かされているだろう、知らないとは言わせない。メイ・ティーノット嬢だ。彼女の社交場でのエスコートをお前に任せる事にした。次回参加からの一年間、ずっとその役目はお前だ」
オーリクが呆気にとられてケンベルに視線を戻すと、彼はやはり不敵に笑っていた。
「そのリストの令息達を頭に叩き込め。一枚目の紙に書かれている令息達はメイ嬢に近づけさせるな。男爵家と繋がられたら不都合だ。だが、二枚目の紙に書かれている十人の令息達はその反対だ。メイ嬢と親しくなるように仕向けさせろ」
「……しかし」
「褒美の件を知っているだろう? 茶葉園の事業拡大とエスコート役の件だ」
「もちろん存じております」
「ああそれと、社交場に参加する時は近衛騎士の正装で参加しろ。俺の近衛としての役目だと傍目から見ても分かるように振る舞え。そうしたら男達もメイ嬢や男爵家を侮る行動は控える筈だ」
「かしこまりました。しかし殿下、」
「命令だ。余計な事は考えなくて良い。エスコートの役目と、追加の特別な職務だ」
ちなみに、と言うと、ケンベルはペンを机に置いて尊大に腕を組んで背もたれに深く身体を沈めた。
「そのリストに関してのみ男爵もメイ嬢も、当然他の者も何も知らない。知らせる必要もない。ここだけの秘密だ」
楽しそうに笑みを深めるケンベルは、物語にでも出てきそうな質の悪い悪魔のようだった。
*
「オーリクさん。メイ・ティーノットと申します。どうかご滞在の間、ごゆっくりとお過ごしください」
美しい所作で膝を折って挨拶するメイに、オーリクは顔にも態度にも全く出さないものの驚いていた。
本当にこの人が縁談に苦労している女性なのか?
とても不思議に思うほどに、メイは優しげな雰囲気をまとった美しい女性だった。
数多の人目を惹き付ける美貌の女性かと言われたらそれは違う、と、ひとまずオーリクは自身が持つ気難しい老け顔を棚にあげて冷静に考える。
近寄りがたい気高い美しさではない。心を穏やかな気持ちにさせてくれるような柔らかな空気感。すらりと細身の身体付きで背は他の女性よりも高めではあるが、それでもオーリクよりも頭ひとつぶん小さい。微笑むと薄茶色の瞳が細められて目尻が優しく下がる彼女は愛らしさもあった。
メイはとてもあがり症で、しかも男爵家は元平民という末端の末端に位置してしまっているため縁談も無く困っている、と男爵が常々悩んでいる事はオーリクも知っていた。会うたびに必ず娘自慢を始め、そして社交界での苦い出来事をつらつらと話すのを、ケンベルの隣で静かに控えていたオーリクの耳にも入ってしまっていたからだ。
確かにメイは人よりも緊張しやすいのは事実らしい。唇をきゅっと閉じて強張った面持ちで控えているメイの表情で伝わってくる。
しかしそれが「この女性にはまともな社交が無理そうだ」とか「おかしな女性だ」などと思うに至るほどの酷いものだとは誰が見ても思わないだろう。事実、時間が経過していくとメイはこの状況に慣れてきたらしく、すっかり表情も穏やかになっている。
しかしエスコート役の件をまったく知らされていなかったらしいメイはとても焦り、青ざめた。
男爵に振り回されているメイを見ていてなんとも可哀想に思えてきてしまう。今日が初対面の男に一年間エスコートされるという現実はとてつもない苦行でしかなないだろう。
だが、男爵とメイには知らされていないリストの件がある。
ケンベルの本当の思惑を知ることは出来ないが、メイには既に、ケンベルがこの相手ならばメイの結婚相手に好ましいと認めた男が存在するのだ。メイをエスコートしつつ、リストの男達との縁が上手く結ばれるように立ち回らなければいけない。
ケンベルからの命令なのだ。完全遂行しなければいけない。
直近でメイが参加する予定の夜会は四日後にあるという。
早速その夜会からエスコートをする事を告げると、メイは青かった顔をみるみる白くさせた。
「ご迷惑をおかけしてしまい本当に申し訳ありません。よろしくお願いします」
一生懸命に無理をした様子で微笑まれてしまった。
必死に取り繕うその姿があまりに痛々しい。オーリクもなんとか微笑を浮かべて「こちらこそ、よろしくお願いします」と返事をする事しか出来ない。
もともと表情が豊かではない自覚がある。怒っている、不機嫌なのでは? などと勘違いされてしまう恐れがあると早々と気付いた。
オーリクはまったく人見知りをしない。そして女性相手に甘い言葉をかける類いの人種でも無かったため、メイの不安を解すような上手い言葉を言おうとしたのだが、結局見つけられなかった。メイには早くオーリクに打ち解けてもらわなければならない。
全ては円滑に、メイがあのリストの誰かと良縁を結ぶために。
*
「我々の任務はケンベル殿下の護衛だ。しかしなぜ男爵令嬢のエスコートのために一年間もオーリクを貸さなければいけない? 令嬢と殿下の参加される会が被った場合、オーリクを人員として配置出来なくなったぞ」
「殿下にも何かお考えがあったのかと」
「どうだかな」
苛立ちを隠さずに不機嫌そうに言い切った後に深いため息を吐いたのは、十人存在するケンベルの側付きの近衛騎士の主衛を任されているセファロだ。ケンベルの側付きとなって十年目、三十になったばかりの近衛騎士セファロは誰よりもケンベルという人柄を熟知している。
現在は深夜だ。
近衛騎士団の詰所に、行動報告をするためにセファロのもとをオーリクが訪ねた。顔を見せた途端にセファロが苦々しい顔をしたので、エスコートの件は既に把握されている事を知った。しかしリストの件は案の定知らされていない様子であり、二人だけの秘密という言葉は本当だったらしい。
なぜエスコート役に自分が任されたのか。
その理由も考えたが、早い段階でオーリクは納得していた。単純に適任者が自分しかいなかったからだ。
ケンベルが男爵と顔を合わせる時、護衛でそばにいたのは常にオーリクだった。何度も顔を合わせて言葉も交わしている。男爵が知らない人物よりも知っている人物の方が良いだろうという配慮もあったのかもしれない。
婚約者も想い人もおらず、結婚願望も明確にあるわけではなく、私生活を捨てて職務に没頭していた。しかし最低限のエスコート術は身に付けていて女性関係で問題を起こした事もない。見ず知らずの令嬢のエスコート役をするにはもってこいの人材だったのは間違いない。
自分の抱える問題点は年齢にしてはあまりにも老け顔で、気難しい印象を与えてしまう事のみだろう。
女性のエスコートが上手い、とは口が裂けても言えないが、数年前までは妹のエスコートを頻繁に頼まれていたのもあり場数だけは踏んでいる。その事も何かしらの情報網を駆使してケンベルも把握したのだろう。
今日初めてメイと対面した上で、オーリクは彼女ならば良縁を結ぶ事は可能だと考えていた。
今後を真剣に考えていた時、ケンベルに対してつらつらと文句を述べていたセファロが急に沈黙した。いつの間にかセファロの表情は険しいものではなく、気遣わしげなものに変わってオーリクに向けられている。
「オーリク、自分の結婚はどうするつもりなんだ? あっという間に三十になるぞ」
「結婚願望というものが無かったので。独身のままでも、それはそれでかまいません」
苦笑しながらオーリクは答えた。それは間違いなく本心からの言葉だった。