12 ◇踊り続けて
オーリクとの婚約が決まりライザフに祝福され、メイは間違いなく幸せな気持ちと、いつも感じていたような高揚感に満たされていた。
高揚感と言ってもそれはやはり優しい感情に近かった。
「良いですか、オーリク殿! 何度も言いますがメイにはダンスとエスコートの時以外に接触する事を決して許しませんからな!?」
ヘウム子爵家の紋章が掲げられた馬車に乗り込んだメイとオーリクだったが、馬車が発車した途端、大声を張り上げてメイに過度な接触をするなと釘を刺すライザフに、メイは恥ずかしさのあまり思わず窓の外を見て「やめて」と訴えるように首を振った。
ライザフはやはり相変わらずだ。メイが肩を落としながら謝ると、オーリクは言葉少なく苦笑していた。
「お元気そうで安心しました」
オーリクはメイの左手を持ち上げると躊躇う事無く口づけた。途端にメイの頬が熱をおびてふわりと赤く染まっていく。
夢じゃない。これは現実。今メイの目の前にオーリクがいる。婚約者として。
「察してはいましたが、やはりティーノット卿は貴女に一言も婚約の話をされていなかったのですね」
「父はいつもそうです。エスコートの時も突然で……」
「確かに」
「あの時は本当に不安でした。でも今は、オーリクさんに出会うきっかけを作ってくださった父と殿下にとても感謝しています」
オーリクの目尻が優しく下がる。ほんのわずかに上がった口角。二ヶ月ぶりに見たオーリクの笑みに、メイも導かれるように微笑んだ。
「貴女に直接お伝えしたい事があります」
オーリクは両腕を伸ばすと、優しくメイの身体を抱き寄せた。オーリクの両腕の中に抱きしめられてメイは息を呑み、そして自然とオーリクの胸元に頬を寄せていた。
「メイ嬢。私と結婚してください」
「はい」
メイは頷きながら笑顔で返事をした。
腕の中で顔を動かしてオーリクを見ると、やはり彼はいつもと変わらずの落ち着いた微笑みを浮かべてメイを見下ろしていた。今までとそれほど変わらないような穏やかな空気感でのプロポーズが、メイにとってはかけがえのない確かな幸せで、心が温かくなる瞬間だった。
「……あの。いつから私との結婚を意識してくださっていたか、お聞きしても?」
メイは不思議だった。メフィト公爵家の舞踏会でジャックと踊った直後に突然好意のある言動を見せてきたオーリクに対して、唐突な印象が確かにあったからだ。
「厩舎でお会いした時です」
「えぇっ?」
「……なぜ疑ったようなお顔をされるのですか」
「あの時の私はオーリクさんにご迷惑しかおかけしていません。はしゃいでしまったり、その、逃げるように帰ろうとしてしまったり」
あの時は確かにメイ自身は楽しく嬉しかった記憶しかない。
しかし冷静になって考えてしまうと、オーリクから見たら自分の慎みのない無い部分や浅慮な振る舞いばかりを見られてしまっただけのように思える。一体あの時のどこに結婚を意識する要素があるというのか。思い出しただけ恥ずかしい気持ちにも襲われてしまう。
「休日に私と会えた事がとても嬉しいと言ってくださった事を覚えていますか?」
「? はい」
「その言葉を聞いた時です」
「え?」
「貴女も私と同じように思ってくれていると知って驚きましたし、嬉しかったです」
「……そうだったのですね」
あの時、メイにとっての精一杯の力をふりしぼって好意を伝えるために発した本心からの言葉がしっかりとオーリクに響いていたなんて。あの時オーリクがメイに見せた神妙そうな顔が、初めて結婚を意識してくれた瞬間だったのだ。
「しかし、あくまでもきっかけの話です。厩舎でお会いするより以前から貴女の事を好ましく思っておりましたが、職務として側におりましたので、結婚に結びつくものとしては考えていませんでした。厩舎で共に過ごして、やっと私も色々と気付き、覚悟も決まりました」
「全然気が付きませんでした。私は、オーリクさんに出会って三回目の舞踏会の時にはもう好きになってしまっていたみたいなんです」
「……申し訳ない、全く気付かずに」
「良いんです。私自身も、この想いを自覚したのは厩舎でオーリクさんと過ごす事になる日の前日だったんですから」
二人は顔を見合わせると、互いに微笑んだ。
やがてオーリクがメイの身体から両腕を離すと、彼は窓の外を眺めだしていた。何かあるのだろうかと思ってメイも同じように外を見たが、夕日に照らされた見慣れた王都の街並みが流れ見えている。
「……全く警戒なさらないのですね」
窓の外を眺めながら突然オーリクに言われて、メイは目を瞬かせて視線を窓の外からオーリクへと向けた。オーリクは小窓のカーテンを閉めてしまう。夕日に照らされていたはずの馬車の中は急激に薄暗くなった。
「ティーノット卿の心配を貴女はもう少し真面目に受け取るべきだ」
え? と言葉を発しかけた瞬間。急激に近づいた距離感にメイがびくりと肩を震わせかけた時、オーリクの大きな左手がメイの頬を優しく包み込む。
唇を重ねられていた。
やっとメイがその事に気づいた時には唇はそっと離されていく。
オーリクの灰色の瞳が薄暗い馬車の中で鈍く妖艶な色を持ってメイを見つめている。いつもの穏やかな雰囲気は一切無くなっていた。
獲物を狙う肉食獣の如く、余裕の無さそうな激しい熱がこもった無表情を初めて目の当たりにしたメイは、呼吸すら忘れてしまいそうな程に動揺して完全に動けなくなっていた。
「あ、あの、オーリ……、っ!?」
どうして良いのか分からなかった。
メイはついに頬を真っ赤に染めて、恥ずかしさに馬車の壁に身体を寄せて思わずオーリクから離れようとしてしまったが出来なかった。オーリクの右腕が腰にまわされていたのだ。
額、目尻、頬――
丁寧に慈しむように口づけされ、そのたびに伝わるオーリクの唇の感触に、メイはついに身体を硬直させてしまった。頭がくらくらしていて何も考える事が出来ない。
再度、唇に口づけされ、オーリクの顔が離れていく。
鼻が触れあうほどに近い距離。
メイは頬を真っ赤にさせて瞳を潤ませたまま呆然とオーリクを見上げる事しか出来なかった。
「……全力で抵抗してください」
「えっ? あ、あの」
細く長い息を吐きながら呆れたようにオーリクが呟く。そのままメイの肩にオーリクの額が乗せられて重みを感じ、メイはやっと慌てて声を出した。
「あの、私は、何か間違っていましたか?」
「間違っています。先程の反応もその言葉自体も。私は、まだ結婚式も挙げていないにも関わらず無抵抗な貴女に邪な想いを抱きながら触れていたのです。触れたくて仕方なかった」
「…………!」
やっと顔を上げたオーリクは赤面するメイを恨めしげに怖い表情で見つめていた。
抵抗して下さい、と言うが、右腕は抵抗を許さないと主張するようにメイの腰から離れない。メイは呆気にとられて、見たことの無かったオーリクの一面に終始驚いていた。驚きすぎるあまり混乱したのは事実、だが。
「オーリクさんは信頼出来る優しい人だと、今改めて思いました」
「なぜそうなるのです」
「私が嫌がる事も傷つけられる事も何もされていません。少し、驚いてしまって。恥ずかしかっただけです」
情熱的にオーリクに触れられて、驚きと戸惑いで混乱したものの、嫌だとは思う訳がなかった。幸せなのだ。正式に婚約者となり、結婚を約束した関係になった事。触れ合うことが許される関係になれた事が。
頬を赤くしたままメイが微笑みながら言うと、オーリクはみるみるうちに眉間に深い皺を寄せた。苦々しそうな表情は相変わらず年齢不相応に渋く、メイはどうしたのかと心配しつつも、誰もが老けていると評するオーリクのそんな顔も愛おしく思って仕方なかった。
「ルセフに言っておきます。貴女は可愛らしい天使ではなく、美しい悪魔だったと」
「ええ?」
可愛い天使と美しい悪魔とは一体何の事なのか、なぜ厩舎で一度だけ挨拶をした可愛らしい少年馬丁のルセフの事が話題に上がったかが分からずメイは首を傾げかけたが、渋い顔をしていたはずのオーリクは口元を右手で覆って、冗談です、とおかしそうに小さく笑っていた。
*
ハネス伯爵家の邸宅に現われたメイとオーリクの姿を見た多くの貴族達が、彼等の変化に驚きを露わに二人に注目していた。
ここ一ヶ月以上、突然ぱたりと社交界に参加をしていなかったメイが姿を見せた事以上に、メイをエスコートするオーリクが近衛騎士の姿ではなくヘウム子爵家の者として参加している事実が皆を驚かせていたのだ。
二人がいつの間にか親しい間柄に。婚約していたとは、と。
メイの立場はとても低い。そんな立場の貴族令嬢に殿下の近衛騎士がついている、という事実が今期の社交界ではそこそこに話題になっていた。そして多くの人々がオーリクの年齢を見たままに決めつけて誤解している。
女性達が扇の下で小声で交わす会話や、紳士達がひそひそと声を抑えて嘲笑するように繰り広げられる会話の内容が、聞きたいわけでもないのにメイの耳にも聞こえてきてしまう。小声で抑えているように見せかけて、よく聞け、己の立場を理解しろ、と圧力をかけられるように。
メイは微笑みを絶やさなかったが、悲しい気持ちになっていた。
そしてついに追い打ちをかけるような衝撃的な言葉が聞こえてきた。
――生家は爵位持ちか。だがあの家も寂れた田舎の農民貴族だった筈だな? しかも自身は爵位を持たず、結婚も出来ずに年齢だけを重ねたらしい騎士が、職務を怠って貴族の皮を被った年齢の離れた平民のような娘を誑かしていたのか。ケンベル殿下の近衛騎士という誇り高き立場に、自分自身で泥を塗って汚していたとは。
「気分転換に中庭に行きましょうか」
一曲目のダンスを踊った直後にオーリクに言われ、メイは強張った微笑みを浮かべたまま反射的に静かに頷いていた。
まさか自分との婚約が決まった事でこんなにもオーリクが酷く言われるなどと、メイは思ってもみなかったのだ。
自分の事はなんと言われようと構わない。元平民であることは事実で、貴族らしからぬ部分が多く至らない点が多い事は自覚している。これからも努力し続けるしか無い、と、それは昔から分かりきっていたことなのだ。
けれど。
ハネス伯爵家の中庭は広くは無いものの、美しく整えられていた。
今は夜、はっきりとその庭園の詳細を把握する事は難しかったが、会場から漏れる灯りにうっすらと照らされる花々は瑞々しく艶やかに咲き、甘い香りを漂わせていた。メイは歩みを進めながらもしばしその花々に見とれて、そしてうつむいた。
暗闇の中で咲く花々が今のメイにはとても眩しかった。
オーリクは会場にいる人からかろうじて自分たちの姿が把握でき、尚且つ会場からの灯りが行き届き、音楽も聞こえる場所を選んでメイを連れ出していた。ほどほどに人の気配はあり、しかし不思議と二人きりでいるような錯覚を覚える場所だった。
「メイ嬢、大丈夫ですか」
オーリクはメイの両肩に手を置くと心配そうに顔を覗き込んでくる。
メイはますます辛くなって表情を強張らせた。
「ティーノット家の事についてでしたら全く気にしていません。今に始まった事ではありませんし、私も十分に自覚しています。その部分ではなくて。私と婚約したばかりにオーリクさんがあんな風に――」
「私の事は構わない。なんと言われようと全く気にしていません」
きっぱりと強い口調でオーリクが言い放つ。真剣な面差しにメイは思わず言葉を飲み込んでオーリクを見つめた。少しの間だけ沈黙が流れ、しかしやがてオーリクはほんの少し表情を強張らせた。
「メイ嬢、申し訳ない。過去の自分の行動を悔いています」
「どうしてオーリクさんが謝るのですか?」
「実年齢よりもはるかに上に見られる事に慣れすぎてしまい、訂正する事も面倒になってしまい誤解を正さずにいました。職務にも家にも影響が無かったので、それで良い、と。貴女と出会う前は結婚する未来も真面目に考えた事すらなかった。あのように言われてしまうのは、私の過去の行いの積み重ねが招いたものです」
この人は。
苦しそうに話すオーリクを見て、メイはやっと気がついた。
「私自身の過去の行いが、メイ嬢を傷つける結果を招いてしまった」
「……本当に傷ついていませんか?」
「はい。まったく」
同じだわ、とメイは思った。
オーリクが最初に聞いた大丈夫ですか、は、恐らくティーノット家の事を悪く言われて傷ついているのでは、と心配してくれたからだ。しかしメイは否定した。オーリクの事を言うと、彼はほんの一瞬驚いていた。
彼自身の事を言われてメイが傷ついていた、と、その時初めてオーリクは気付いたのだろう。
その事実にオーリクは驚き、後悔し、メイの事を心配したのだ。大きな罪悪感までつのらせてしまって。
「オーリクさんが全然傷ついていなくて気にしてもいないと聞いて安心しました。その言葉を信じます。オーリクさんも、安心してください。私はもうすっかり元気になりましたから」
笑顔を見せてメイが言うと、オーリクはまたも驚いたように灰色の瞳を瞬かせた。オーリクが悲しんでいないのならば、メイが過剰に心配したり落ち込む必要もないのだ。メイは言葉のとおりすっかり安心していた。
会場から離れた場所であるこの場所にも音楽が風に乗って聞こえてくる。メイは自分の肩に乗せられているオーリクの手に自分の手を重ねた。
せっかくの今期最後の舞踏会。婚約者となった好きな人と、楽しく幸せな気持ちでもう一度踊りたい。
「オーリクさん、あの――」
メイの言葉が最後まで言うことが出来なかったのは、オーリクにまたも唇を塞がれてしまっていたからだ。ほんの一瞬触れてすぐに離れただけなのに、メイの頬は真っ赤になった。
オーリクが真剣な真顔なので、余計に。
「……あのっ、ここは、人目が」
「……申し訳ない。つい」
「つい?」
「あまりにも貴女が可愛らしく」
無表情に淡々と、オーリクは普段の調子でそんな事を言い放つ。
メイはまたもダンスを踊るどころではない程に動揺してしまっていたが、口づけもその言葉も、どちらも嬉しくて仕方なかった。
「もし、父の耳に入ってしまったら」
「確実に入ってしまいそうだ。破談にはさせません」
そう言うと、オーリクはメイの左手をとって愛おしげに口づけた。
メイは涙が出そうなほどの幸せを噛みしめながら頬を染めて、顔を上げたオーリクに向かってもう一度尋ねた。
「もう一度私と踊ってくださいませんか?」
オーリクは片手でメイの手をとり、もう片方の手でメイの腰を支えながら、穏やかに微笑んでメイを見つめた。
「光栄です。喜んで」
* 手のひらで踊る恋 fin *