11 ◇父の愛
メフィト公爵の舞踏会に参加したのを最後に、メイはまったく社交界に顔を出さなくなっていた。
しかしそれはメイの意思で決めたことではない。
全ての原因はライザフにある。
メイに対して今シーズンの残りの社交界への参加を禁じたのだ。代わりのエスコート役の人選を済ませてくれた殿下に対しても不要だと断ってしまい、そうするとライザフしかエスコートをしてくれる人がいなくなるのだが、ライザフは一人で社交場に参加してメイを連れて行かなかった。
メイがオーリクの名前を言わなければ、ライザフはいつもの明るく優しいライザフなのだ。
しかしメイがオーリクの名前を発するだけで、途端に視線を外して口を閉じて不機嫌そうに、あるいは怒った様子で黙り込む。終いにはメイから逃げるように違う部屋に行ってしまったり、外出してしまう始末だ。
この事態にメイは困り果て、メイドのポーラは怒り心頭になっていた。
そんな日々がもう一ヶ月以上続いている。
その間にあった社交界は全て家で過ごして終わってしまった。社交界シーズンはもう終盤。メイの参加予定だった社交場も、残りは一週間後にあるハネス伯爵家の舞踏会のみ。
しかしこのままだと参加は絶望的だった。
「ポーラ、私は大丈夫だから」
昼下がりの休憩時。
メイがいつもの日課であるホーリン茶を淹れて、手作りしたバタークッキーを小皿に載せてポーラに出すと、怒りで愚痴が止まらなかったポーラも少しだけ落ち着きを取り戻す。
メイはポーラにも全ての事情を打ち明けていた。
最初こそオーリクのことを三十代後半の既婚者と勘違いしていたが、その誤解はすぐに解いた。ポーラとオーリクが直接会話をした事はない。しかしエスコートをしてくれていた期間のメイの様子を常に間近に見ていた事もあり、メイの気持ちを知ったポーラは完全に今ではメイの味方になっていた。
「どこが大丈夫なのですか。あの日を境にお嬢様は一度もオーリク様にお会い出来てはいないのですよ?」
「お父様は私の気持ちを全てご存じよ。だから大丈夫」
「お嬢様を社交場に連れて行かず家に閉じ込めているこの現状は、まったく、大丈夫とは言いません!」
ぴしゃりと言い放つポーラはまたもや怒りの感情に支配されてしまっている。メイは苦笑し、椅子に座ると少しだけホーリン茶を口に含ませた。
メフィト公爵で開かれた舞踏会の翌日。
メイはすぐにライザフに頼んでいた。ヘウム子爵に自分とオーリクとの結婚を申し込んで欲しい、と。ライザフはとても嫌そうな顔をしただけで返事をしてくれず、申し込んでくれたかと確認しようにも、そもそも話題にする事を拒絶されてしまっている。
ヘウム子爵にライザフが結婚の申し込みをしたのか、していないのか。
メイはその現状すらも分からないでいる。ただただ辛抱強く耐えて、ライザフの言葉を待つしかない日々を送っていた。
このままではもう会えない。
そんな現状になった途端、自分から結婚を申し込むことに消極的だった気持ちは無くなっていた。エスコート役を解任されたオーリクに確実に会う方法は、ヘウム子爵に結婚の申し込みをして承諾してもらう。この一つしか残されていなかったのだ。
断られてしまったら今度こそ二度と会えなくなる。
最初はそれを恐れていたが、今のメイは覚悟を決めていた。
貴族生まれの者の結婚の最終決定権は当主にある。たとえ、もしもオーリクがメイとの結婚を望んでくれているような奇跡があったとしても、ヘウム子爵が拒絶したらそこで終わりなのだ。
オーリクは今どうしているのだろうか。
思考が底無しの深い沼に沈み込みそうになり、メイは慌てて首を強く横に振った。落ち込んでいる場合ではない。今すべき事にきちんと取り組み、ライザフの決断を待つ。自分のすべき事は分かっていた。
「休憩が終わったら茶葉園の事務所に行きたいんだけど、ポーラの都合は平気? 新しい茶葉缶のデザインの見本がいくつか出来上がったみたいで、私とポーラの意見も欲しいと言われているの。急ぎではないから明日でもかまわないんだけど」
「大丈夫ですよ。すぐに支度します」
「ありがとう」
メイとポーラが休憩を終えて、茶器や小皿を片付けていると、先に茶葉園で仕事をしていた筈のライザフが急遽帰宅したとの報告を執事のカールスから受けて、二人は驚いた。
「お父様がもうご帰宅を?」
「はい。お嬢様をお呼びです。すぐに旦那様の書斎へ向かってください。片付けは私とポーラでしておきますので」
「ごめんなさい、カールス。お願いね」
メイは急いで書斎へ向かった。
書斎に入室すると、メイは驚いて動揺してしまった。書斎の椅子に腰掛けていたライザフは両手で頭を抱えて机に肘をつき、深く項垂れていたのだ。メイが今まで見たことのない程の暗く落ち込んだ雰囲気だった。
「お父様! 何があったのですか?」
メイは慌ててライザフのそばに駆け寄ると、片手でライザフの背中をさすりながら顔を覗きこむ。ライザフは呆然としていた。
「具合が悪いのですか? どこか痛みが?」
「……いいや」
「茶葉園で何かあったのですか?」
「……違う」
「……お父様?」
一体なぜ、こんなにも具合悪そうに落ち込んだ雰囲気で項垂れているのか、メイにはますます理由の見当がつかず困惑してしまう。やっとライザフが顔を上げたかと思うと、今度はおもむろに両手を伸ばしてくる。
メイはライザフに抱きしめられていた。
「お父様?」
「ハネス伯爵家の舞踏会に参加させてやる。その日までにポーラと共に準備しておきなさい」
「え?」
「ドレスはあるか?」
「は、はい」
「そうか。不備のないように支度をしておきなさい。話はそれだけだ」
「お父様、あの……」
「今は一人にしてくれ」
腕の中からメイを解放したライザフは、どこか絶望的な表情のまま、白い顔色で力なくメイに命じたのだった。
突然社交場に出ることを許された驚きよりも、今にも倒れてしまいそうな程に力を無くしていたライザフの事がただただ心配でたまらなかった。
ライザフの様子がおかしい。
オーリクの名前を出さないように、メイはさらに細心の注意を払いながら日々を過ごしていた。ただでさえ落ち込んでいる様子のライザフに、オーリクという名はますます彼に打撃を与えてしまう。
あの後、ライザフはすぐに普段通りに戻ったように見えた。
しかしそれは空元気で、書類作業の時間になるとすぐにぼんやりしてしまうライザフの姿を度々目撃している茶葉園の職員達、使用人達、そしてメイは心配をつのらせる一方だった。何があったのかと聞いても、何でも無い、としかライザフは言わない。
どうすることも出来ないまま日々は過ぎていった。
*
「――お嬢様!」
ポーラに耳元で大きな声で名前を呼ばれて、メイはハッと目を瞬かせた。
鏡越しに映るポーラは心配そうな表情で小さく息を吐き出すと、手に持っていたブラシを鏡台の卓上に置いた。
「準備が出来ましたよ。いかがでしょうか?」
「あ……ありがとう。素敵だわ」
今日はハネス伯爵家の舞踏会の日。
ポーラの手を借りて、メイは約二ヶ月ぶりにドレスを着てしっかりと化粧を施していた。ポーラが念入りに、丁寧に髪にブラシを通してくれたおかげで、薄金色の髪は美しい輝きを放っていた。
以前までは準備の時間も楽しかった。これからオーリクに会えると考えただけでメイの気持ちは高揚していたからだ。
しかし今は違う。オーリクに会えるという確証があるわけではなく、さらにライザフがずっと元気が無い。本当にこれから舞踏会に参加してしまっても大丈夫なのだろうか。倒れてしまうのではないのだろうか。
メイの心配は限界に達していた。
「……ポーラ。せっかく支度をしてくれたのに、ごめんなさい」
「お嬢様?」
「お父様の書斎に行ってきます。今日の参加は私もお父様も取りやめてもらうように、お願いしてくるわ」
ポーラは表情を曇らせたが反対せず、静かに頷いた。
今日は無理をせず家でゆっくり過ごして貰いたい。
その一心でメイはライザフの書斎へ向かった。
階段を下って書斎の前に到着したメイは扉をノックしようとしたが、中からライザフの話し声が聞こえて思わず右手を胸元へと引き寄せた。
まさか来訪者がいるとは思ってもいなかった。
「良いですか、くれぐれもメイの事を頼みます。メイに怪我や悲しい思いをさせたりしたらたとえ貴方でも私は決して許しません」
「はい」
「泣かせるなんぞ、言語道断です」
「はい」
「……ダンスとエスコート以外の理由で! 不埒な理由でメイに接触する事も断じて許しませんからな!? 発覚した時はたとえ婚約者とはいえ私は容赦しない!!」
「……はい」
扉の奥から聞こえてきた声と会話にメイは息を呑んだ。
小刻みに震える両手でゆっくりと口元を覆いながら思わず後ずさってしまう。背中が壁にぶつかった。
ライザフの話相手はメイの婚約者となった男性。
声を聞いてメイはすぐに分かってしまった。
やがて中での会話も終わり二人の靴音が扉に近づいてくる。開かれた扉の向こうから最初に現われたのはライザフで、続いて姿を見せた男性を目にして、メイは今度こそ言葉を失った。
灰色の瞳を見開いている男性はオーリクだった。
思わぬ形で二ヶ月ぶりに再会を果たした二人は、互いの存在を確かめるようにただただ見つめ合っていた。
オーリクは近衛騎士の姿では無かった。仕立ての良さそうなフロックコートを着ている。生家の証明となるヘウム子爵家の家紋の小さなバッジ、近衛騎士団の所属である証のピンバッジが襟部分に付けられていた。
その装いを見ただけで、オーリクは近衛騎士の職務としてここにいるのではない事を十分に理解した。
見つめ合う二人の間に割り込むように、メイの視界の中心に険しい表情のライザフが立ち塞がった。
「メイ、どうしてここにいたんだ?」
「あ、の……今日の舞踏会の参加を取りやめてもらおう、と……お父様が倒れてしまわれるのではないかと、心配で」
「……それはすまない。ずいぶんと心配をかけた」
ライザフは気まずそうに眉を寄せ、重い口を開いた。
「舞踏会へ参加すると伝えたあの日に、正式にオーリク殿とメイの婚約がまとまったんだ」
メフィト公爵の舞踏会からそれほど日を明かずして、ヘウム子爵から結婚の申し込みがあったのだ。オーリクがメイとの結婚を強く望んでいる事と、子爵本人としても、仕事に人生を捧げてしまっていると思い込んでいたオーリクに結婚したい女性がいたとは想いもしていなかったため、メイとライザフが良ければ是非この縁談をまとめたい、という前向きな言葉が書き連ねられていたという。
メイを社交界に参加させなかったのも、仮婚約期間とし、正式に婚約を結ぶためにヘウム子爵との調整を書状で交わしながら調節していた関係があったからだ。
メイのオーリクに対する真剣な想いを聞いたライザフはすぐにヘウム子爵に結婚の申し込みをしようとしたが、あえてしなかった。自分から申し込みをせずとも、オーリクならば職務を外れた途端にすぐに行動するのでは、と思ったのだ。
オーリクの方がメイよりも強くこの結婚を望んでいる。
ライザフはどうしてもその確証が欲しかった。
そしてライザフの望み通り、すぐにヘウム子爵家から書状が届いた。結婚申し込みの書状が届いた時、ライザフは思わず安心してしまった。
オーリクはメイに対して本気だった。
ヘウム子爵家もメイを歓迎してくれている。
何よりもメイ自身がオーリクとの将来を望んでいる。
これは間違いなく良縁だ。
しかし喜ばしい気持ち以上に寂しさが勝ってしまい、気力も無くしてしまっていた。ついに愛娘が嫁いでしまう。
「婚約がまとまって、しかも相手はオーリク殿だ。本気だったと分かって安心した。もう何も文句は無い。だが、寂しくてな。メイにも皆にも迷惑をかけてしまった」
すまなそうに顔を伏せて事情を語るライザフを、メイは強く抱きしめていた。メイを受け止めたライザフの両腕も優しくメイの背中にまわされていく。
「……今ならまだ破談に出来るぞ」
「それは、やめてください」
「そうか? 残念だ」
笑っているようなライザフの声がわずかに震えている。
泣いているのだと悟った瞬間、メイの瞳からも涙がこぼれ落ちていた。
「今日のエスコートは婚約者としてオーリク殿に頼んでいる。私はここに残って帰りを待っているさ。今期最後の舞踏会だ、楽しんでおいで」
「はい。ありがとうございます、お父様」
メイがライザフの頬に口づけると、ライザフも嬉しそうに笑ってメイの額に口づけた。
ライザフの背後で静かに立ち控えているオーリクにメイが視線を向けると、オーリクは無表情に口を閉じたまま、それでも優しい眼差しで見守ってくれていた。