10 遊びの終わり
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はぁぁ、と、ケンベルは長く深いため息を吐き出していた。
王太子殿下の執務室。
ケンベルは姿勢悪く椅子に座り、面倒くさいという表情を隠さずに書類を睨んでいる。完全に集中力も気力も失せていた。
そんなケンベルに対し、主衛のセファロは臆することなく告げた。
「残り二部です。今日中にお目通しの上、指示書を仕上げて下さい。終わるまでは私室にも寝所にも行くことは許しません」
「……」
「今日中に終わらせる約束で予定外の騎馬訓練の時間を設けたのです」
「はいはい」
「私は詰所に戻りますが二時間後にこちらに参ります。その時には確実に回収させて頂きます」
「分かった。やるから。もう一人にしてくれ」
「よろしくお願い致します」
ケンベルの愚痴、我が儘、突拍子もない行動。
近衛騎士達は全員振り回され、そして慣れている。そもそも慣れなければ適正が無いという事になる。対処の仕方も騎士各々に違うが、セファロの場合は王太子殿下が相手であろうと、容赦ない言動で現実を突きつけて確実に公務をさせる方針をとる男だった。場合によっては実力行使も厭わない唯一の近衛騎士でもある。
ケンベルが一番うんざりさせられる事の多い近衛騎士がセファロなのだ。
セファロが退室して一人になったケンベルは早速書類を放り出したい衝動に駆られたが、結局は諦め、残っている書類に目を通すことにした。
やっと一部の終わりが見えてきた。そんな時に執務室にやって来た一人の近衛騎士にケンベルは珍しく驚いた。
「メフィト公爵家の舞踏会はまだ終わっていないだろう?」
「メイ嬢もティーノット卿もご帰宅されましたので、帰城しました」
「もう? ずいぶん早い帰宅だな」
メイのエスコートの役目を命じていた近衛騎士オーリクが、まだ舞踏会も始まってそれほど経っていない時間にも関わらず執務室を訪れたのだ。オーリクはいつもと変わらない様子で、何か緊急事態があった様子も感じられない。
「エスコートの件についてと、例のリストの令息達についての報告があります。今日は先にリストの件についてからでもよろしいでしょうか?」
「話せ」
メイは当然知らない事だが、オーリクには毎回エスコート役として社交界に参加する度に状況を報告させている。ケンベルの命令で動いているのだから当然の事だ。
気分が悪かったケンベルは途端に面白い気持ちになった。
さて、状況はどうなっているか。
メイはオーリクに振り向いてもらう努力をするつもりでいたが、なんせ仕事馬鹿のオーリクだ。今日のこの短時間では特に進展もしていないのだろう。リストの男達の件についての報告から、という事は、メイの想いとは裏腹に別の男と進展してしまったか。
そこまで予想したケンベルは笑いがこみ上げそうになった。
「本日、リスト最後の未接触者だったジャック・スバイド殿との接触を果たしました。ジャック殿とメイ嬢は昔馴染みという事もあり既にとても良好な関係の様子でした。これでメイ嬢はリスト者全員と接触、面識を持った事になります。以上で、この件についての任務を終了とさせて頂きます」
「…………深く進展しそうな者はいたか?」
任務終了だと? 確かに間違ってはいないが。
おかしい、とケンベルは内心驚愕していた。
確かに命じた。リストの者と親しくなるように仕向けさせろ、と。
しかしその命令をオーリクは誤解して捉えていた。むしろこの男なら絶対に誤解するだろうな、と思った上で命じたので、あえて訂正せずにそのまま任務を遂行させていた。前回の報告までは確かにオーリクは誤解した状態で報告をしていた。
オーリクは、親しくさせる、を、婚約させる、と誤解していたのだ。
親しくなるようにという言葉を婚約にまで飛躍して捉え、まだまだ婚約には至りそうにない、と大真面目に報告するオーリクの姿を、呆れ半分と面白半分で聞いていたのが前回までだ。
この男はいつ誤解に気付くのだろうかと思ってはいたが。
「三人程の令息はメイ嬢を有力視している状況は変わりませんが現状維持です。動くとしたらシーズンの最後かもしれませんが、可能性は低いかと。メイ嬢の態度や様子も全く変わりなく、ティーノット卿も動きは見られません」
「…………へぇ」
「私は前回まで、命令の解釈を間違って報告しておりました。無理にでも婚約まで持って行くのではなく、あくまでも親しくさせる、その点だけでよろしいのですよね?」
「やっと気付いたのか」
「申し訳ありませんでした」
「ん? 面白かったから良いぞ」
「……」
「意外と早く気付いたな、感心した」
ケンベルが満面の笑みで言うとオーリクは瞳を細めた。どうやら呆れているらしいが、いやそれは俺の方だ、とケンベルは声には出さないものの内心反論してしまう。
しかしオーリクもオーリクで誤解していた事を反省、というよりも自己嫌悪しているらしく、もうこのリストについて口を開く様子はなかった。
「エスコートの件は? ま、これは特に何も無いだろう」
エスコートの件の報告は毎回一瞬で終わる。
義務で最初に一度踊り、後はメイに何か危険な事が起きないように立ち回れば完了なのだ。その点に関しては特に何も変わらないだろう。
だが。
「ティーノット卿より、エスコートの役目を降りるようにと言われました。原因は、私がメイ嬢に対して職務を逸脱した言動で接したからです。最後まで務め上げる事が出来ず申し訳ありませんでした」
「そ、……はぁ!?」
反射的にいつものように「そうか」と返事をしかけて、ケンベルは声を荒げた。こいつは淡々とサラッといつも通りに、老けた顔のまま、何を放り投げてくる!?
「何をしたんだ」
「メイ嬢に好意を示す言葉を伝え、左手の甲に挨拶し、ダンスを二度踊りました」
「…………よく生きて帰って来れたな」
しばしの間、ケンベルは傷一つ無く帰城を果たしたオーリクの姿を上から下まで眺めた。直立不動で姿勢正しく控えているオーリクの顔色も雰囲気も、ケンベルには普段となんら変わりない様子に見える。
二十代という若さが持つはずの外見と内面をどこかに消失させてしまったという面白さだけを残して、職務に忠実で仕事人間のつまらない男。
今告げられた報告を聞くまでは確かに、ケンベルから見たオーリクという男はそういう男だった。
「オーリクらしくないな。職務中に私情を挟むとは。しかもその話だと、かなりメイ嬢に惚れ込んでいるように聞こえるが?」
「はい」
即答だった。
これにも思わずケンベルは目を見開いてしまう。そして考えた。
「惚れたのは、アレか。少し前に厩舎でメイ嬢を案内させたが、あの時か?」
「自覚したのは確かにその時ですが」
一度オーリクは言葉を止めて少しだけ考えるように目を伏せたが、やがて口を開いた。
「本当はもうだいぶ前からなのかもしれないと思っています。社交場で、メイ嬢と談笑しながらも煮え切らない態度をとる男達を見ながら内心苛立っていましたが、安堵もしていました」
「安堵?」
「はい。まだメイ嬢は誰とも婚姻を結ぶ事になりそうにない現実に安堵もしていたのです。自覚してから気付きました。私はとっくに、職務としてエスコートするにふさわしくない男になっていたのだと」
淡々と無表情に語るオーリクが、ケンベルには別人に見えて仕方なかった。こいつは本当にあのオーリクなのか?
「あの時俺がお前に聞いた事を覚えているか?」
「あの時、とは」
「お前にエスコート役を命じる直前に聞いただろう。結婚する気はあるか? と。はいと言いつつご縁があればと言って濁していただろう。今は?」
「強く望んでおります」
「へぇ。誰と?」
「叶うのであれば、メイ・ティーノット嬢と」
オーリクの即答に、ケンベルは目を見開いた。男爵に直接エスコート役を解かれ、そして恐らく強制的にメイから引き離されたのであろうくせに一切傷ついた様子が無い。
……コイツまさか。
「お前、意識的にわざとやったな」
「いいえ。衝動的に」
「絶対に嘘だろう。そういう事か。お前、結構良い根性してるな?」
「誤解です」
メイに惹かれているオーリクは衝動的に、職務中にも関わらずメイに好意を囁き、左手に口づけ、二度もダンスを踊ってしまったと言う。
しかしそれは絶対に違う。
仕事馬鹿な一面と、メイを想ってこその行動なのだという事が、ケンベルにはハッキリと分かってしまった。
オーリクは職務を必ず完全遂行する。どんな職務でも自分から辞退したり背く事はあり得ない。完全遂行が出来ない時は、命じられた任務の中止を言い渡された時か、関わりのある人間から直接任務を解かれた時のみ。
オーリクは意識して職務を逸脱した行為を男爵に見せ、エスコート役を解任させるように仕向けたのだ。
仕向けたと同時に、オーリクはメイに惹かれ彼女との未来を真剣に望んでいるからこそ、男爵に対していかに自分が本気なのかも伝えようとしたのだ。
周囲が引くほどメイを溺愛している男爵には、どれほど自分も同じくらい、またはそれ以上にメイを想っているかという事を伝えなければならない。あの男爵相手では言葉や態度だけでは駄目なのだ。そもそも男爵自身の娘への愛情表現が激しく、貴族社会の常識を逸脱した行動が多いのだから。
オーリクは、自分が思わず職務を逸脱してしまうほどに、メイの事を本気で想っている――というのを伝えようとしたのだ。
あの男爵相手にオーリクが無傷で帰城出来たのは、そのオーリクの行動が多少なりとも男爵の心に響き、動揺を与えているからだ。
「エスコート役を解かれてメイ嬢と顔を合わせる機会が無くなったのに、やけに冷静だな? 夜会に参加すれば会える可能性は当然あるが、そもそもどこかで夜会が開かれる日は、爵位も継承権もないお前は高確率で勤務日か控え番になるだろう? お前は夜会に参加出来る優先順位の立場が低いと分かっているのか?」
「はい」
「メイ嬢がお前に惚れている確証はあるのか?」
「ありません。ただ、信頼してくれている事は確信しています」
「確証も無いのに大胆に出たな。これからどうするつもりなんだ」
「考えはあります。すぐに動きますので」
「……ふぅん」
教えるつもりはない、か。
それも当然か、とケンベルは肩をすくめた。オーリクはケンベルの想像以上に全てを悟ってしまっているらしい。だからこそ、この先の領域には踏み込まないでくれ、と遠回しに主張されたような気がした。迂闊に話して、またケンベルに遊ばれる事を警戒されてしまっている。
ここで終わりか。
残念だなぁ、とケンベルは微笑した。
ケンベルがメイのエスコートにオーリクを選んだ理由は単純だ。
面白そうだから。
男爵もなぜかオーリクを気に入っている。問題も無い。
本当にそれだけだった。
オーリクがメイに惚れるか惚れないか。
もし惚れたら面白い。惚れないならばタイプじゃなかったか、あるいは本当に今は女性に対して興味が無いのだろうなと思うだけだった。
リストを用意したのも、半分は縁談に苦戦しているというメイに対してのお節介の親切心、半分は多少のスパイスでもあった方がオーリクにも何らかの影響があるかもしれないという遊び心だった。
ケンベルは何も事情を知らないオーリクとメイの様子を、自分の手のひらで踊らせて傍観して遊んでいた。
忙しい日々の中で、たまにあるオーリクのエスコート報告を聞くのが愉快で仕方なかったのだ。思いがけずメイが先にオーリクに惚れた事も面白かった。一年間いっぱい続く可能性があった遊びがわずか三ヶ月と少しで終わった事に驚き、残念に思い、しかし想像以上に面白いものが見れた事にケンベルは満足していた。
それに、どうやらオーリクに失望しないですむらしい。