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狐火狩り

作者: セルロイド

 最近、分かったことが一つ。

 猫のホルスが部屋に入ってきて、適度な距離を保ちながら僕のことをジッと見ている時は、志木さんが部屋に乱入してくる合図だ。

 さながら中世の航海者とメロウ。彼女が部屋の片隅に現れ、黄色の美しい瞳を見せるとき、僕は来るべき嵐に備えなくてはならない。


 時刻を確認。夜の8時。現在気温。摂氏19度。

 頭を回して理論武装を点検。ミルの教育論が詰まって少々凝り気味。

 和製ヴァイキングの襲撃を何度も受けたため、冷蔵庫の中身はからっぽ。志木さんは(当の襲撃者なので)それを知っているはずだから、今回の訪問は食料調達以外が目的だろう。


 僕をからかいに来るのか。はたまた、考えるだにおぞましい謎体験をする羽目になるのか。

 いずれにしろ、安穏なままではいられまい。


 ◇


 玄関が開いた。

 唐突に。さも当然という風に。


「やあ。君に鍋を食わせてやる。来たまえ」


 志木さんは現れる。

 深緑色の薄い和服を羽織り、からりとした笑顔で僕を食事に誘う志木さんの背中には、ステンレスの大きな虫取り網。

 どうやら、今回は謎体験の方らしい。


「絶対に嫌です。たとえ自分の腕と二者択一でも、昆虫鍋なんてごめんです」

「君はたまにおぞましいことを言うな。虫は味ではなくて音を愛でるものだろう。馬鹿なことを言っていないで用意したまえよ。今宵の狩りには君が必要なんだ」

「じゃあ、どうして虫取り網なんか……。ああ。理由はもういいです。分かりました。さっさと用意いたしますよ」


 彼に問いを投げる、というのは、蜂の巣に石を投げるのと同義。不用意に突けば未知の大群にやられてしまう。

 だいいち、僕と志木さんとではベースにしている常識が違うのだ。教育学科の人が哲学科の人に生きる意味を尋ねたとして、期待する返答は望めまい。

 現代という名のぬくぬくした農場で暮らしてきた僕は、だから、この二階の蛮族の襲撃に遭っては一切を掠奪されるより他なかった。


 ◇


 志木さんが案内する林道には電灯なんて気の利いたものは無い。虫取り網を構え、スイスイと先を行く彼の後を、僕はスマホのライトを頼りに付いていく。

 アパートの窓から眺めている時は額縁に収まる品の良い絵画だった。でも、実際に森の中を歩き始めると、なまなましい恐怖に圧倒されてしまう。


 夜の森。その底には闇がある。

 文明に駆逐されるより昔、かつて人が自然と共に暮らしていた頃、人々の恐怖を呼び覚ました、あのまっくらやみ。

 夜の森にはその名残りが残っている。


「後ろを振り返ってはいけない」 


 頭の中から声がする。

 震えるように響く、しわがれた声。

 志木さんの声ではない。


「上を向いてもいけない。道を失ってしまうから。闇に触れてはいけない。夜に囚われてしまうから。光に照らされた道を歩いて行け。明日を拝みたいと望むなら、決して闇の中に入ってはいけない」


 これは民話。

 民話の声だ。

 記憶の澱に溜まっていた民話の欠片たちが、形を取り、森の中を歩く僕をいさめているんだ。


「そして、これをダイモンという」


 と、今度は知識の帽子を被った僕。


「ソクラテスはこの声を聞いたのだ。既知の集積が、すなわち未知を斥ける防塁となる。学生よ。若くてみずみずしい、未来に属する知識を得るには、まず先にこの整備された防塁を壊してやらなければいけない。さあ壊せ」


 いきなり壊せだなんて、困る。

 僕は顔を上げた。

 僕の数メートル先にはこういう時に役立つ人間が居るはずなのだ。


 だけど、志木さんは居なくなっていた。

 代わりに居るのは3匹の蛍。

 青白く明滅しながら、5、6歩離れたところでじゃれ合っている。

 とても幻想的な光景。


 手を伸ばしてみる。

 すると、蛍はふわりと遠のき、かと思えば、パッと散ってしまった。

 写真を先に撮るべきだった。覆い被さる闇の中、僕は後悔した。

 せっかく、シャッターチャンスだったのに。


 どこか他にも居ないだろうか。

 声の警告をあっさりと無視し、僕は辺りを見渡した。


「――え?」


 居た。

 何気なしに振り返った僕の背後には、夜の闇を塗り潰すように、青白い光の群れが蠢いていた。


 僕は数百もの蛍に囲まれていた。


 ◇


「う、うわあぁっ!」


 これまで生きていた中で最もみじめな悲鳴を上げながら、僕は尻もちを付いてしまった。

 ありえない。

 まず、こんな森の中に蛍が生息していることがありえない。生息していたとしても、僕の後ろにだけこんなに大量に発生しているというのがありえない。

 だって、蛍たちが今居るところは、僕がさっきまで居たところなんだ。それが、こんな、ゲームのフラグを踏んだみたいにガラリと入れ替わるなんて。

 絶対にありえない。


 蛍の群れは、まるで僕を狙っているかのように、じりじりと距離を詰めてくる。

 なんなんだ。虫のくせに。どうして逃げないんだ。あっちへ行ってくれ。

 僕は無我夢中でスマホを振り回した。武器になりそうなものはスマホくらいしかない。

 だけど、蛍の群れは光を恐れない。僕との距離はますます縮んでゆき、遂に鼻先にまで接近し、先頭の一匹が肌に触れ――


「キャン!」


 虫取り網が横薙ぎに払われた。


「へ?」

「よくやった。お陰で良いのが網に掛かった」


 振り返ると、今度は志木さんが居た。

 彼は両膝を付き、もぞもぞ動く虫取り網と格闘している。


「あ、あの、志木さん? なんですか、それ?」

「狐だよ。狐火を使う獣は狐しかいまい」


 志木さんは大真面目にそう返す。


「以前、騙されたふりをして狐を獲って以来、俺は完全に警戒されてしまってな。俺の前にはもはや痕跡すら残さない。ならば君ならどうだろう。そういうわけで、君を誘ってみたのさ」

「また、デタラメを……」


 言いかけて、僕は口をつぐんだ。

 バタバタと暴れる虫取り網の隙間から、ベージュ色の毛皮が見えている。こんな証拠・・を前にしたら、どんな反論の言葉も意味をなさない。


「というか、本当に狐を捕まえたとして、それ、どうするんですか? まさか食べるとか無いですよね?」

「無論、食うつもりだ」

「野蛮人ですかあなたは……」


 僅かでも志木さんにモラルを期待した僕が馬鹿だった。 


「可哀想です。放してあげてくださいよ」

「捕まえた獲物を放せだなんて、君は酷な事をいう。いいかい。虫は葉を食う。鳥は虫を食う。そして狐は鳥を食う。その食物連鎖の先端に今度は俺が参加するだけだ。これは天地万象に通ずる当たり前の運動さ。それに君だってさっきひどい目に遭ったじゃないか」

「確かにひどい目には遭いましたけれど、あれくらい一日経てば笑い話に変わります。そんなことより、目の前で狐が殺されるほうが僕にはずっとショックです。止めてください」

「ふむ。参ったな」


 ぜんぜん参ってなさそうな表情を作り、志木さんは視線を僕から虫取り網に移した。


「いいだろう。今宵の狩りは君が主役だ。この狐は君の望み通りにしよう。君が居なければ、俺は狐の姿を拝むことすら叶わないのだからな」


 言いながら、志木さんは網の拘束を緩める。

 疲れ果てていた狐はそれを察し、網の中で少しもがいた後、広げられた出口を見つけ、虫取り網から勢い良く飛び出した。


「達者でな。地獄に堕ちたときはよろしく頼むよ」


 こういうのもマッチポンプと言うのだろうか。

 逃げていく狐に向かい、志木さんが恩を着せている。


 ◇


 人生初の狩りはこれにて終了。

 騒動が終わった後、再び辺りを見渡してみると、蛍は一匹も居なくなっていた。あれらは全て狐の仕業だったのだろうか。

 帰りの夜の森はどこか闇が薄いように感じた。これも狐の仕業……というより、帰りは二人並んで歩いているから、行きの時ほど闇が気にならないのだろう。人間は一人ぼっちでは弱いけれど、群れたら強いのだ。


 まあ、一人でも強いやつが隣に居るが。


 ◇


 そして、帰宅。

 ずいぶん歩いたつもりで時計を見ると、時刻は夜の9時半。部屋を出てからほんの1時間半しか経過いない。


 部屋は出てきた時のまま。珍しいことに、ホルスまでもが僕の部屋にいた。


「ご主人さまはもう戻ったよ。迎えに行かなくても良いの?」


 上着を壁にかけながら尋ねてみる。

 すると、ホルスは「にゃあ」と鳴き、畳のうえにぐでっと横たわった。

 深夜は彼女の勤務時間外なのだろうか? 狐の件に加えて、分からないことが一つ増えてしまった。


 まあ、理由はともかく。今晩はホルスと遊べそうだ。

 僕は長袖の端を持ち、ホルスの横に座った。

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