6話:ヒーロー(前編)
オフィーリアに迎えに来てと言われた。それも、タカシと一緒に来いという指示で。だが、タクマは自分一人でも問題ないだろうと思って、その言葉を無視することにした。いや、無視することはできないのではあるのだが、いかんせん、タカシがかなり酒臭いのである。自身はほんのりとにおう程度かもしれない。それでも、あの男だけはオフィーリアとモニカのもとへ連れていけまい。というか、絶対にモニカの母親に不審がられるのが現実的だと思うし。
そのように考えていたタクマはモニカの家へとやって来た。昼頃に通ったときと変わらない景色。のんびり、ぼんやりと道なりに歩いて彼女の家の呼び鈴を鳴らした。すぐにモニカの母親が出てきてくれた。
「どうも」
「あら、ミカミ君。オフィーリア、お迎え来たわよ」
モニカの母親に呼ばれて、オフィーリアは玄関へとダッシュでやって来るのだが、こちらを見て目を丸くする。そうしたかと思えば、睨みつけられた。もしかして、結構においする? だが、モニカの母親は怪訝そうな顔は一切していない。じゃあ、あれか? タカシを連れてこなかったこと?
目付きが悪いオフィーリアはタクマの手を引いて、家の中へと入れた。
「ど、どうした? 帰るぞ?」
そう促してみるが――。
「酒くさっ」
そう思うなら、他人の家に入れなきゃいいのに。タクマは「親父の家に行ってきたんだよ」と反論した。あの家にいたから、酒のにおいが染みついたんだ、と言う。しかし、そのようなことで彼女はしかめっ面をしているわけではなかった。
「おじさんを連れてこいって言ったのに」
「俺より酒のにおいがひどいおっさんをここに連れてこられるわけないだろ。だからだよ」
「メールの内容を察してよ」
「はあ?」
意味がわからずに彼は自身のスマートフォンを見た。オフィーリアが夕方前に送ってきたメール。そこには『迎えに来て。おじさんと必ず一緒にね。』という文章があるだけ。特別変わった気はしないが――。
「わたしがこんな文章を送るなんて、おかしいと思わなかった?」
このメールはオフィーリアにとって、ただのお遊びでも冗談でもない。真面目にそれを送ったということ。考えてみろ、彼女はタクマにあまりジョークは言わない。もちろん、メールだって。
「ジョークメールなんて、一切送らないのに」
「オフィーリア、まさか……」
「ヘコがここを監視している」
直後、モニカの母親が小さな悲鳴を上げた。何事かと思えば、そこにはヘコとゼロがいるではないか! それどころか、屋外から複数のカルテルの一員が。この家の敷地内に侵入してまで停められた黒のワンボックスカー。嫌な予感しかしない。
「オフィーリア!」
オフィーリアはモニカを、とタクマが彼女の母親を守らんと彼らの前に躍り出る。こいつらを捕まえる云々に関してはあまり期待しない方がいいだろう。ここは民家。それも、住人が二人もいる。抗争よりも、彼女たちを守ることを徹底するべきだ。
そうタクマの声にオフィーリアが二階へと駆け上がろうとするが――。
「待って!?」
階段のところで彼女が叫ぶ。何事かと一瞬の隙が彼の頭に強い衝撃が襲う。きっと、頭を叩かれたのだ。遠くからモニカの母親の声が聞こえてくる。なんだろう、どこかで、どこかで――。
【お母さんっ! お母さんっ!】
女の人、悲しそうな顔をしている。その人から遠ざかっている理由は? あれは?
【僕ね、大きくなったらヒーローになるんだっ!】
◆
重々しい空気。誰もがモニカの家の前で険しい表情をしていた。家の外でカルテル捜査官に泣きつくモニカの母親。そんな彼女をオフィーリアはただただ、じっと眉をひそめているだけ。
きつく口を結び、その奥では歯を噛み締める。拳を強く握りしめる。これは自分の怠慢だと言い聞かせていると、自身の肩にタカシの手が置かれた。彼は「油断していた俺たちが悪い」としかめっ面を見せていた。
「俺は昔っから学習しないクソガキだったんだ」
そう言うタカシはどこかへと行こうとした。その背中に「どこへ行くの?」と問い質す。オフィーリアのその質問に彼はこちらの方を振り向いた。
「モニカちゃんとタクマを探してくる」
彼のその発言は闇雲に探すと言っているようなものである。残念なことに、自分たちはゼロ・カルテルの一つの拠点は突き止めているとしても、肝心の本拠地を知らないのだ。そして、モニカとタクマを連れ去ったゼロたちの行方すらも。今は、捜索班が黒のワンボックスカーが向かったとされる方角へと車を走らせているのだ。彼らが見つかることを願って。
「あいつの狙いは俺だ」
また自分の大切な者を奪う気なのか。昔を再現するつもりか。それも今度は一般人を巻き込んで。そう考えるだけでも腹が立って仕方がない。ゼロに、自分に。なぜに、今日に限って酒を浴びるようにして飲んでいたか。なぜに、常に緊張感を持っていなかったのか。
それはきっと浮かれていたからだ。タクマと久しぶりに親子らしい会話ができると思っていたから。とても楽しかったから。これはその代償なのだろうか。
タカシが車を出すように、と部下に指示を出していると――。
「わたしも行く」
オフィーリアが服の裾を握ってきた。彼女の目には強い意思が見えている。
「きっと、あいつは私も狙っている。でなければ、ヘコがわたしたちの前に現れたり、モニカが誘拐される理由がない」
目の前で友達を誘拐した連中だ。それを黙って指をくわえて見ているわけにはいかなかったのに。
「支部長にも、みんなにも約束した。わたしはゼロ・カルテルの連中を一か月以内に捕まえてみせるって」
彼女がそう口にすると、こちらへと一台の車がやって来て停車した。そこにはジュディたちも乗車しているではないか。
「私たちも一緒に。タクマは私たちのチームメイトですから」
そうスマートフォンの画面を見せた。
《タクマの位置特定ならば、わかりました。道案内を致します》
タクマがスマートフォンに搭載していたアプリ、マリアで位置特定したらしい。これで向かうべき場所がわかった。見つけた。道は拓けた。
「タクマはいい仲間を持ったな……」
あまりにも家にいないことが多かったから、自分の息子の対人関係がよくわからなかった。それでも、今こうして知ることができたからこそ、嬉しく思う。
タカシとオフィーリアは乗車し、黒のワンボックスカーが向かった先へと急ぐのであった。
◇
優しそうな女の人。自身の目線が低い。とても豪華な内装のある場所。近くには老夫婦がこちらを微笑ましそうに見えていた。女の人は自分の手をしっかりと握ってくれていた。それがとても安心できるように思える。
女の人は言った。
「もしも、危ない人たちがいなくなったら、どうなっていたんだろう?」
答えがよくわからない。だからこそ、女の人をじっと見つめた。
「お父さんと会えなかったかもしれない」
「そうなの?」
やっと声が出た。その声は明らかに幼い。
「うん、昔ね。お父さんがお母さんのピンチを助けてくれたの。お父さん、ヒーローだもん」
それなら、と口が勝手に動く。
「僕も守る! 僕ね、大きくなったらお父さんみたいなヒーローになるんだっ!」
「頼もしいね」
柔らかい微笑み。優しい香り。女の人は「だったら」と頭を撫でてくれた。
「お母さんは信じているわ。タクマがヒーローみたいにして助けに来てくれることを」
「うん!」
◇
夢を見た。あの人は――。
――母さん?
目を開けた。辺りを見渡す。何が当なっているかはすぐにわかった。思い出す。モニカの家で誰かに頭を殴られたから。そいつは、そう。ゼロだ。ということは、自分もモニカも場所がわからない知らないどこかに監禁されているということ。
手元には金属独特の感触が。手首には金属の輪っかがつけられ――鎖か? つながっている。後ろのこれは――ああ、柱。ということは、これは手錠か。
逃げるという選択肢がない。いや、できない。条件が厳し過ぎるからだ。まだ頭が痛い。動こうとする度に痛みが駆け巡る。
「最悪」
皮肉だと言わんばかりのセリフを吐く。そうして、自分が助かる見込みはほぼないのに。モニカが捕まっているというのに。あーあ、笑えない話。
「何がヒーローだよ」
思わず毒づいた。夢のせいで幼い頃の将来の夢を思い出した。それはヒーローになること。無茶な話だ。憧れていたテレビの中のヒーローたち。あれは物語の中の存在なのに。この目に見えているものはただの現実だってのに。子どもって、現実が見えない生き物だったんだな。そうタクマがため息をついたときだった。この場にヘコが現れた。彼に「こんにちは、モンタニェスさん」とわざとらしいあいさつをした。
「あなたは確か……今日、お店の前を通りましたけど、姿が見えなかったし、もしかして非番でしょうか」
「そうですね。それが一番正しいと思いますよ」
ヘコがここに来てからは、とても嫌な予感しかしなかった。なぜって、そいつの右手には長い棒みたいなものを手にしているから。それをどうしようかなんて、わかりきった話だ。
「お客さんに訊きますけど、『銀色の猟犬』はどこにいますか?」
殴られたら痛そうな棒を肩に担ぐ。
――『銀色の猟犬』?
初めて聞いた名前ではある。いや、これは二つ名だと言うべきだろうか。なんか、やたらとかっこよ過ぎて笑いが込み上がってきた。それで、結局笑ってしまった。失笑してしまったから、ヘコに殴られた。ものすごく痛い。手で押さえたい気持ちがあるけれども、生憎、手は後ろだ。動かせない。
「笑う理由が見当たりませんが」
「俺もそう思います」
もう一度殴られた。口の中で鉄の味がする。気分が悪い。
「もう一度、訊きます。『銀色の猟犬』はどこですか?」
「先にこちらの質問に答えてもらってもいいですか?」
「ダメです」
こちらは『銀色の猟犬』を誰と差すのか知らないのに。その質問すらも却下と?
銀色という文字には一人の人物が引っかかった。オフィーリアだ。彼女の髪の毛は銀色であるということ。いや、正確には金色に近い銀色と言うべきだろうか。とにかく、彼女の髪の毛は色が薄いということは確かである。
タクマの質問を却下したヘコは逆に「それは引っかけでしょう?」と機嫌が悪そう。頼むから、その棒で殴らないでくれ。本気で痛いから。
「引っかけも何も、素直に知りたいだけですよ。もしかして、オフィーリアのことですか?」
本当に彼女のことぐらいしか思い浮かばなかった。自分が知っているカルテルの捜査官で銀色的な特徴性のある人物はオフィーリアぐらいしか思い浮かばない。
どうやらヘコはこちらが本当にわからないと気付いたらしい。彼は「お客さんのお父様のことですよ」と教えてくれるけど――驚愕の塊でしかなかった。
タカシがカルテルの連中に『銀色の猟犬』と呼ばれているだって? なんというかっこいい二つ名を敵からもらっているんだ、あの飲んだくれは。猟犬だなんて、似合わないのに。あのアウトロー過ぎる酒飲み中年親父にはもったいなさ過ぎる名前だ。まさに豚に真珠。猫に小判――あの男、犬よりも猫でたとえる方が正しいのでは? そこまであいつは従順な人間じゃない。かなりの気まぐれ屋だぞ。
なんて言ってみたいとは思うものの、ヘコは「余計なことをしゃべるな」と言ってくる。だからこそ、言えやしない。参ったな。
「『銀色の猟犬』の居場所だけを吐けばいいのですから」
居場所となると、自宅だろうか。だが、モニカの家に急行していることだってある。というよりも、今はいつだ? 時計がないからわからない。ここに窓はない。だからこそ、特定しづらい。小さな明かりはあるようだから、周囲が暗いことだけはわかる。であるならば、事件が発生してかなりの時間が経過しているか。それなら、モニカの家にいる可能性が高い。
これは言うべきか? 相手だって、事件を起こした家のところへと行けば、自分たちが捕まるということがわかるはず。だから、モニカの家にいるかもしれないとは言えない。であるならば、自宅でタカシの帰りを待ってもらう? これは言ってもいいだろうが――近隣住民の方には失礼だよな。絶対に。だったら、呼び出した方が確実では?
「いつもぶらぶらしているから、居場所の特定ができない。呼び出す方が確実だと思う」
なるほどと言うヘコはタクマのスマートフォンを奪取済みだったようだ。それを見せびらかしてくる。
「何度も着信があっていたようですが、この着信履歴にある『親父』とは本物の『銀色の猟犬』ですか?」
「モンタニェスさんにとってはそうでしょうね」
「それならば、あなたがおびき寄せてください。必ず、彼一人で来るように指示を出して」
「……それは難しい案件ですね。だって――」
「余計な口を開かないでください」
また殴られた。親切心あってそう言っているだけなのに。ひどい話である。
ヘコはスピーカー状態でタカシに着信をかけた。彼はすぐに出る。
《タクマっ!?》
「親父、あのな……」
《今、お前がいるところに向かっているからな!》
なんだか、電話の向こう側が騒がしい。ごうごうと音が聞こえる。これは風ではなさそうだ。車か? こっちに来ているって言っていたから。
《おいっ、誘拐犯! どうせいるんだろ!? モニカちゃんとタクマを返せ!》
「親父、聞いてくれ。あの……」
《安心しろ! 俺がお前たちを助けるからなっ!》
こいつ、まだ酔いが醒めていないのか。それとも、焦りか。いや、あの男に限って焦りというものはないから、酔い醒めがまだだということだろう。なかなかこちらが伝えたいことが言えない。向こうがうるさいし、何度も「助ける」だの「向かっている」だの言うし。ちっとはこっちの発言に耳を傾けろや。
あまりにも騒がしい通話だからなのか、ヘコが怪訝そうにしていた。
「……これ、本当に『銀色の猟犬』ですか?」
口に出したい。タカシは『銀色の猟犬』だと揶揄されるような大層な人間ではない。どこにでもいるような、飲んだくれ中年ダメダメ親父であると。だが、それを言ったとしても殴られることが目に見えているから、別の言い方をしなければならないだろう。
「モンタニェスさんが会いたがっている親父ですよ」
「知りたくなかった」
――なんか、ごめんなさい。
思わず、心の中で謝罪をする。というか、タカシがこれでもかと言うほど「向かっている」と発言しているということは、居場所特定されたということか。まあ、ある意味で呼び出しに成功をしてはいる。大人数と言う予定外はあるが。これはヘコも気付いている様子。
その問題に頭を悩ませる。位置特定ができるということはあらかじめカルテル側も想定内ではあるだろう。だからこそ、ヘコは口を開いた。
「二人の命が欲しくば、我々がいる場所の半径五百メートル圏内は、『銀色の猟犬』以外は立ち入らないでくださいね。いいですか? あなた以外の誰かが入ってしまえば、人質はあの世行きですよ」
そう言うのだが、電話の向こう側で《えっ?》と声を上げた。この時点で大体予想はつく。向こうは小声で会話をしているつもりだが、全部聞こえるよ。
《ごめん、みんな。ちょっと、車の中に戻ってくれない? なんか、向こうが俺一人じゃなきゃタクマたちを殺すとか言ってくるから》
「…………」
ヘコがこちらを見てきてはいるが、その視線は殺意ではないことは明白だ。困惑しているのである。すでに、自分たちの居場所を特定し、なおかつ、侵入しようとしているところを。
《建物の中に入れたのに?》
ヴァンダの声が聞こえてきた。なんだ、この茶番は。こっちは人質だってのに。みんなの緊張感がなさ過ぎてこっちが困る。ああ、思い出した。みんな、お酒を飲んでいたんだ。多少の酔いは醒めているとは言え、まだまだアルコールは抜け切れていないのだろう。
《ていうか、今さっき、『銀色の猟犬』とか聞こえたけど、誰のこと?》
《知らない。初めて聞いたわ。今どき、そんな二つ名とか古臭いし》
《わかる。なんか、聞いているこっちが恥ずかしくなる》
ヘコの顔は真っ赤だ。まだ相手に誰なのかが気付かれていない分マシ? いや、人質であるこちらに見られている時点で羞恥心は半端ないのだろう。スピーカーから聞こえてくる失笑に紛れて《どうせ》とオフィーリアの声が聞こえてきた。
《こっちがそれを指摘したら、顔を真っ赤にしそうね》
図星がタクマの心を絞めつけてくるから見ていられない。聞いていられない。聞かなかったことにしましょうか、と訊いたとしたところでどうにかなる話ではないだろう。むしろ、状況が悪化する。であるならば、何も言わずに黙っているだけが吉だ。視線を逸らして。
ヘコの怒りを抑えるためにした行動なのに。残念なことに、彼の羞恥心はここで限界を迎えた。鈍くて痛い音。それは彼が棒でタクマを殴ってきたからである。
「いいかっ! 建物の中にはタカシ・ミカミだけ来いっ! それ以外の連中は出ていけっ! もし、来るなら絶対にお前の息子ともどもぶっ殺してやるからなっ!」
《やっ――》
すぐに通話を切ってしまったから、全容はわからないが、おそらくはオフィーリア辺りが「やっぱり恥ずかしかったんだ」とバカにしているかもしれない。であるが、それらを口にする余裕がそろそろなくなってきたぞ。血が視界を邪魔し始めてきたから。これはいよいよと危ないということはわかる。どうにかしなければとも思うが、どう考えても、今のヘコには何も話さない方がいいだろう。質問されたら、答える。それだけにしないと、明らかにこちらの分が悪いから。
ヘコがタクマのスマートフォンを床に叩きつけた。そして、壁にも棒で八つ当たり。相当気が立っているなとわかる。
しかしながら、すでにタカシがこちらに侵入してきているということは、居場所が近いだろう。であっても、ここが地上からどこの階層になるかはわからないが。というか、ここは地下? どの道、周りに窓がないからわからないな。
モニカの家へと押し寄せてきた麻薬カルテルの一員は複数いた。ということは、数名は建物内にいる可能性がある。そして、すでに侵入しているタカシが楽観的に電話をしていたが、彼らとはかなりの至近距離と言ってもおかしくはない。
なんて、ちょっとは頭が冴えているのに。未だに脱出方法が考えられないタクマ。どうにか自分で脱出だけでもしないと。どう考えても、複数相手に酔っ払い一人が立ち向かうのは結末が目に見えている。だからこそ、と動こうとするが――。
「何をそんなに気を立てている?」
ゼロがやって来きた。ヘコは目を血走らせながら、すでにやつらが侵入してきたと言った。こればかりは想定外すぎる、と。だから――。
「俺に非はない! 全部、悪ふざけでこっちにいる銀色……タカシ・ミカミが悪い!」
「なるほど」
そうゼロが呟いたときだった。ヘコが悲痛の叫び声を上げた。彼は「うるさい」と拳銃の銃口を口の中へと入れてくる。何が起きたのだろうか。ヘコは左手を抑えていた。指の隙間からは血が流れている。滴る血は床――否、一本の指の上に落ちる。
まさか、とタクマの顔が一気に青ざめる。
「言っておくが、俺は他人に責任を押し付けるやつが大っ嫌いだからな」
にやにやとゼロは嗤う。ヘコを見て、タクマを見て「そして」と髪の毛を掴んできた。彼の手には血まみれの大きなナイフがある。人の指を切断できたほどだ。かなりの鋭さはあるはず。
「物事を覚えていないやつも大っ嫌いだ」
切れ味抜群のナイフは壁すらも貫こうとする。刃渡りの半分以上が壁に埋まってしまった。その刃に掠り、頬から血が出た。
「久シブリ、僕。元気ダタ?」
急にスペイン語から片言の日本語にタクマは絶句する。
「オ母サン、泣イテタ赤チャン、大キクナタ」
急に思い出す記憶の欠片。瓦礫の下敷きとなった女性。煙と炎が渦巻いている建物の中。若いタカシのやるせない表情。この記憶は――あれは――。
「お前が、母さんを……!?」
「上出来」
ゼロは痛がるヘコに「あの子どもを連れてこい」とスペイン語で指示を出す。彼はまた何かされるのが恐ろしいと感じているのか、慌てるようにしてこの部屋を出ていった。この空間はタクマとゼロの二人っきり。その異様な空気を楽しむようにしてゼロは「昔話デモシヨウ」とまた片言の日本語で言ってきた。だが、自分の母親が目の前の男に殺されたということを思い出したからなのか、タクマは話を聞く気になれなかった。
「誰がお前なんかと」
「遠慮スルナ」
断ったはずなのに。ゼロは含み笑いをしながら、是非ともこの昔話を聞かせようとした。
「昔、アルトコロニ、オ母サンと僕ガイタネ。二人ハ、ホテルデ楽シソウ。オ父サンガ来ルノ、待テタ」
その話は知っている。聞きたくないからこそ、黙れと言うが、ゼロは無視を決行し、言葉を続けた。
「デモ、僕ハ飽キタ。待ツノ。ダカラ、歩イタ」
「何も言うなっ!」
「シバラクシテ、僕、外国人ニ近付イタ。外国人、アイサツシテキタ。僕モアイサツシタ。トテモ、気持チイイアイサツダタ」
目の前にいるゼロがとある人物と重なって見えてくる。
「外国人、僕ニ面白イモノ見セル言タ。僕、ウン言タ」
「黙れ!!」
嫌な記憶が。
【コンニチハ】
片言での日本語を話す外国人。
【面白イモノ、見セテアゲル】
【ソウダヨ、トテモ面白イヨ】
厳かな雰囲気の場所。そこに設置されたベンチに座る外国人。手には何かしらのスイッチ。離れたところには母親と老夫婦を見ている厚着をした外国人。
【押シテミテ】
渡されたスイッチ。わくわくとそれを押す小さな手。直後、離れた場所から轟音が鳴り響くのであった。
◆
【二人の命が欲しくば、我々がいる場所の半径五百メートル圏内は、『銀色の猟犬』以外は立ち入らないでくださいね】
下手な動きはできないとして、タカシは階段の物陰から上層にいるカルテルの連中の様子を窺っていた。彼らはかなりの警戒態勢で、こちらが不利になるような武器を手にしているではないか。あれって、絶対に密輸した銃だよな、と眉間にしわを寄せながら、行き先を確認する。彼が今いるこのフロアにカルテルの者たちはいなかった。となると、警備に当たらなければならない上のフロアにいることとなる。
ここは廃ビル。民間人は誰一人として――人質以外はいない。おまけに一人。適うはずがない。仮に敵ったとしても、ヘコとゼロがまだいる。あいつは、特にゼロは味方すらの命を軽んじる最低野郎だ。正面突破はもちろんのこと、雑魚相手をしてはならない。何のきっかけになるかわからない。そうとなれば、タクマとモニカの命が危険だ。
とにかく、慎重に行くべき。それを踏まえてタカシが行動を移そうとしたときだった。ふと、周囲を確認するために後ろの方を見れば――銃身を高々と掲げる一人の男。瞬時で理解。こいつは自分を殺す気だと。
理解はしていても、体は動かない。間に合わないからだ。彼は防御態勢も取ることがままならず――。
「一人だけだと思ったら、大間違い」
上からオフィーリアが降ってくるようにして、銃身を掲げたやつの首に足を回した。振り下ろそうとする銃を両手で掴み取る。その様子に、我に戻ったタカシは目の前の相手のあごに向かって蹴りを入れた。それが決まったようにして、男は膝から崩れるようにして、床に倒れるのだった。
「オフィーリア……」
背後からの奇襲もそうだが、オフィーリアがここにいることにびっくりするタカシ。彼女は自身の銀髪を弄りながら「ここにいるんでしょ」と見上げた。
「なら、早く助けに行かないと」
「だが、相手の指示は俺一人で来いって言っていたぞ」
「それが何? どうせ、あっちも約束というものを守らない人たちに決まっている。なぜならば、彼らはすでに社会のルールを破っているもの」
「そうだが……」
「はあ、日本人ってホントにそこだけはきっちりとしているのね。やっぱり、親子って感じ」
大体、と気絶していた男が起き上がろうとする前にオフィーリアは腕を捻り、その隙に両手を後ろに縛る。タカシに手伝って、と言う。彼女はタカシのポケットからしわしわのハンカチを取ると、それを男の口の中に突っ込み、粘着テープで口を塞いだ。
「バレなきゃ平気ってわけでしょ」
「それ、こいつらがやっていることに近いけどな」
「善と悪は常に曖昧なものに決まっているからじゃない。ほら、正面突破は無理だし、今回はダクトから行けるでしょ?」
そう言うオフィーリアが指さす方向には通気口が。ここから埃塗れの場所を通って、タクマとモニカを救出するというのだ。
「どの道、バレないようにするにしても、流石のエリートなわたしでも無理。だったら、雑魚相手は無視して、さっさとボス戦に挑む方がいい」
「確かにそうではあるわな」
もっともな話。一人一人に相手をしている暇や時間があるとは思えない。あの極悪非道のゼロだ。きっと、あの二人に何かしらのトラウマを植え付けられている可能性だってある。これは即刻行動をして、助けなければ。
オフィーリアの言葉にタカシは頷くと、彼らは通気口から潜入を試みるのであった。
◆
手探り状態で人質の二人を探すタカシたち。周囲に明かりは存在しない。当然だ。スマートフォンのライトでもつけてみろ。一発でバレかねない。だが、そのおかげで雑魚の相手はせずとも、一人は見つけることができた。姿は見えないが、下の方から怒声が聞こえているから。この声は聞き覚えがある。ヘコだ。
ヘコは悪態をついているようだ。何があったのかはタカシたちにはわからない。であっても、その汚い言葉の数々の中から「こっち来い」という声が聞こえてきた。
「立て、クソガキっ」
これは誰に対して言っているのか。カルテル一味に対する言葉とは断言しがたいであるが――ありえないこともあるまい。一番下っ端の少年などがいることだってあるのだから。それはまさに、ゼロと同じような道を歩んでいるということ。できることならば、その子どもたちがそうならないように、早いところ決着もつけなければ。タカシが、オフィーリアがいるであろう場所に視線を向けていると――。
「おじちゃん、苦しそうだよ?」
幼い女の子の声が聞こえてきた。オフィーリアの方からは少しだけ雰囲気が変わった気がする。ヘコはその可愛らしい声に「黙れ」と凄みを利かせていた。まさかとは思う。そのまさかに彼女は「モニカ?」と小声で呟いた。どうやら、この下にはモニカがいるらしい。であるならば、助けなければ。そう決意を固めるオフィーリアは「おじさん」とタカシに声をかけた。
「モニカはわたしが助けるから……」
「わかった。油断はするなよ」
タカシはオフィーリアをその場に置いて、先を急ぐのだった。その場に留まった彼女は下の様子を見るべく、穴が空いている場所を見つけて、覗く。
下ではモニカとヘコがいた。彼女は身動きが取れないようにして、両手両足を拘束しているようであるが、泣き喚いてはいない。だが、今にも泣きそうな表情ではある。泣くことを我慢しているのだろうか。そんな彼女を急かすようにして、立ち上がらせようとするヘコの左手からは痛々しそうに赤い血が滴っていた。一応は止血をしているように見えるが、血は全く止まりそうには見えない。止血している布はもう血を吸いきれないらしい。
「早くっ」
ヘコはモニカを強引に立ち上がらせようとする。そのときに、彼の血が彼女の服に付着した。ヘコは片手で物事をするにしても、かなりの労力がいるようだ。これがチャンスだと言わんばかりにオフィーリアは通気口を探した。ここから脱出して、モニカを救出するつもりで。
「でも、血が出ているよ?」
「うるさいっ。黙って、歩け」
両足すらも縛られているモニカなのに。なんという無茶を言うことか。通気口を見つけたオフィーリアは指で探りながら、携帯用のドライバーを取り出す。
「どの道、お前も血を流すんだ。人の血を気にするな」
急げ。
「わたし、死ぬの?」
「タクマ・ミカミと一緒になっ」
半分のねじは取った。
「どうせ、死ぬから――助けなんてもう遅い」
残り一個。嫌な予感しかしない。嫌な音が聞こえた。
「手始めに、その減らず口をどうにかしないとな」
ねじはすべて取れた! 早く、開けてモニカを――。
「でもね、オフィーリアが捕まえるって言ってた」
通気口を開ける手を止めてしまった。ヘコがうるさいと声を荒げている。
「わたし、悲しい。知らないところに来て、お散歩で何度か会っているおじちゃんが怪我しているもん」
「だから、なんだ! あのちびっ子はここに来るわけがないっ!」
「来てくれるもん。信じるよ、わたしは」
約束したもん。
突如として、真上から音が聞こえた。何事かと上を見るヘコ。目に映るのは――銀色のツインテールをした少女が、鋭い目つきでこちらを見ているではないか。『銀色の猟犬』。今の彼女はそう見えた。タカシ・ミカミよりもそう見えた。
だとしても、それはただの揶揄。つい、彼女が噛み付いてくるという勘違いをしてしまうからこそ、顔を庇おうとするが――。
「お腹が空いている」
みぞおちに一発。強烈な蹴りが入る。そのせいで、呼吸が困難。この場に膝をつき、過呼吸を繰り返す。こうして、ヘコが苦しんでいる隙にオフィーリアはモニカを連れて逃げようとするも――。
「うっ!?」
いきなり、後ろから体が飛ばされるような衝撃を受ける。実際に飛ばされた。何かに殴打された痛み。背中が痛くて、思うように立てない。
「騒がしいな」
現れた長身の男。ヘコが呼吸を苦しそうにしながら「トーポ」と呟くように言う。トーポと呼ばれたその男は「サタナスが早くしろって」と怪訝そうにヘコに向かって拳銃を構えた。その意味は――。
「トロいやつは大っ嫌いだって言っていたぞ」
「……ひどいな。まさかトーポに処理されるとか」
「悪いな、ヘコ。俺はまだ死にたいとは思わない」
「それは僕もだ」
不慣れな手つきでヘコが拳銃を手にしようとするが、トーポが一足先に引き金を引くのが早かった。銃口から放たれた弾は真っ直ぐにヘコの体に着弾する。手の怪我に加えて、彼のスーツは真っ赤に染まり上がってしまった。
ヘコを撃ったトーポの表情はどこか悲しげ。であるが、すぐに無表情に戻してやっと立ち上がることができたオフィーリアに顔を向ける。
「さて、ヘコが言っていたのは『銀色の猟犬』以外のやつが入ってきたら、人質は殺すだっけか?」
現在、モニカがいる場所はトーポがいるところの方が近い。どんなに足が速いオフィーリアであっても、追いつけそうにはない。この事態に彼女が歯噛みをしていると――。
「正直な話、タカシ・ミカミよりもそっちのお嬢ちゃんの方が『銀色の猟犬』って感じがするな」
「だから何? そのくそださい二つ名はこの時代に合わないわ」
「ひどい言われようだ。せっかく、誤魔化してあげようと思ったんだがな」
トーポが言いたいこと。そういうことか、とオフィーリアは納得した。彼女は先ほどの発言を取り消すことにして「もう一人の人質はどこにいるの?」と訊ねる。
「それと、あなたたちのリーダーもね」
「サタナスと一緒さ。どうせ、あいつは『銀色の猟犬』に会いたがっているからな」
そう言うトーポは周囲を見渡すと、オフィーリアに近付いて銃口を向けて口だけを動かした。声は一切出さない。これに彼女はにやりと口元を歪ませると――その場に発砲音が鳴り響くのであった。
◆
嫌な記憶がよみがえってきた。幼い頃の記憶だからこそ、はっきりとまではいかない。であっても、人生であった大きな出来事だとあの頃の自分は思っていたらしい。記憶の奥底から顔を見せるもの。小さな手に握る妙なスイッチ。押してみてと片言日本語でしゃべる外国人。見覚えはある。目の前にその人物はいるのだから。
「アノトキ、押サナケレバ」
確かにそうだ。あの起爆スイッチを押さなければ、自分の母親は死ぬことはなかった。タクマは眼前で嗤うゼロを睨みつける。スイッチを押したのは自分には変わりない。であっても、すべてはゼロが悪い。だからこそ、彼は「お前のせいだ」と憤る。
「何も知らない子どもを利用するなんて」
その憤りすらもゼロは「ソウカナ?」とお道化てみせていた。
「デモ、今度ハ、確実ニキミノセイニナルヨネ」
この言葉と共にここへと連れてこられたのは拘束されたオフィーリアとモニカ。オフィーリアは気絶をしているのか、ぐったりとしている。それを強引に男が引っ張るようにしていた。モニカは涙と鼻水でぐしゃぐしゃ顔を「お兄ちゃん」とタクマに向けていた。彼女たちは妙に血濡れているが――まさかとは思う。
「二人とも……?」
耳元でゼロが嗤う。どちらを殺すか選べ、と。