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ゼロ・カルテル  作者: 池田 ヒロ
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5話:笑顔で!

 ただ単に呼び鈴を鳴らすだけなのに。あまりの緊張のせいか、足が震えている。手に持っているクッキー入りの箱も震えていた。それはどうしてこの場に立っているのだろうかと考えてしまうほどである。オフィーリアはこのときをひどく恐れていた。彼女の隣にはなぜかタクマが困惑した表情で――。


「なんで?」


 普通に疑問に思うこと。それを「行くわよ」とスルーするのはオフィーリア。そんな彼女に「行けよ」と促す。これ、自分は関係ないしね。だが、彼女は行こうとせず。


「一緒に」


 タクマの右手を掴む。


「いや、意味わからないんだけど。何してんの」


「早く、呼び鈴を鳴らしなさいよ!」


 そう言うオフィーリアはタクマに呼び鈴を鳴らさせようとした。彼の右手をしっかりと掴み取り、指を強引にボタンの方へと持っていこうとする。これに彼は鼻白む。


「だから、なんで俺? オフィーリアが押せよ。招待されたのはオフィーリアだろ?」


「呼び鈴のボタンに手が一番近いのはあなたじゃない」


「正論風な屁理屈は止めてくれ」


 たじろぐタクマ。是が非でも呼び鈴を押させようとするオフィーリア。そんな二人が人様の玄関先でわちゃわちゃとしているものだから、当然家の中にいる者は現れるだろう。彼らの前に出てきたのはモニカの母親だった。彼女は「いらっしゃい」と苦笑いをしている。これにタクマは「ほら」と逃げるようにして後ろに隠れたオフィーリアを促した。なぜに隠れるのか。全く以て不思議である。


「モニカと遊ぶ約束をしたんだろ?」


「わたしはどうしたらいいのっ!?」


「いや、だからモニカの家に遊びに来たんだろ。何をそんなにビビっているんだ」


「ビビってなんかないもん!」


 その割には人の後ろに隠れて様子を窺っているのはどう説明するのですかね。その点についてツッコミをするべきだろうか。というよりも、どの道最初からビビっているんだよな。だって、さっきから震えが止まっていなかったんだし。


「じゃあ、俺の後ろに隠れるなよ」


「うるさいわね。こういうのが初めてなんだから、仕方ないでしょ!」


 その事実に逆切れするとは。タクマもモニカの母親も絶賛困惑中。この場で誰もが怪訝そうにしていると、家の奥からはモニカがひょっこりと出てきた。


「こんにちは」


 元気のいいあいさつをしてくれて、とても気持ちの良いことだ。これにタクマは「こんにちは」と返した。だが、どうしてなのだろうか。オフィーリアは硬直をしている。更にこちらの後ろに隠れるようにして、小さく頷いた。あいさつをしろよと小声で指摘しても、首を横に振るばかり。なぜにこういうときだけはシャイな女の子になるのだろうか。いつものあの高慢さはどこへ行ったのやら。


 モニカは恥ずかしそうにしているオフィーリアをほんの少しだけ心配そうに見つめながら「遊びに来てくれてありがとう」と言った。不意に、家の方から美味しそうなにおいが漂ってくるではないか。


「ねえ、オフィーリア。さっき、ママとチョコレートケーキを作ったんだよ。一緒に食べようよ」


 彼女に手を差し伸べてきてくれた。その小さな手を見て、オフィーリアはタクマの方を見てくる。彼は「行ってこいよ」とあごで家の方を差した。


「行かないなら、俺が全部いただく」


「それはダメ」


 ここでようやくオフィーリアに解放されて、ほっとする。彼女はモニカの手を取り、一緒に家の中へと入っていった。その様子を見届けたタクマは「それじゃあ」と頭を下げる。


「四時ごろ迎えに来ますので」


「あら、ミカミ君は? お茶とケーキぐらい……」


「俺がいない方が、二人はたくさん遊べるはずですよ」


 それでは、とタクマはその場を後にした。さて、自分が立ち去ったのは別にいいことなのだが、この四時間をどうしようか悩んだ。今日は非番だからこそ、いつもは昼過ぎまで寝ているのだが――朝方までゼロ・カルテルとの死闘があったのにも関わらず「送迎しろ」とわがままなお嬢様に付き合わされたのだ。そういうことだった。


 彼は自身のプライベートのスマートフォンを取り出した。


 ここはメガロポリスから少し離れた住宅街。ここら辺で何か面白いイベントか何かをやっていないだろうか。そう考えて、早速マリアに訊ねようとするのだが、一件のメールが入ってきた。送信相手はタカシである。内容は『今日暇?』。


『いい酒があるんだ。どうせ、今日は元々休みだろ? 今から飲もうぜ』


「昼間っから酒かよ」


 文章を見て、苦笑いをする。あれだけタカシのことを嫌っていたのに。今ならば、ほんの少しだけ許せるようになってきた。それでも、まだ小さい頃の誕生日を思い出す。タカシから受け取った腕時計を見る度に。


 少しずつではあるのだろう。以前ほどの憤りはない。これから、約十五年分の空白が生められるかは不安ではあるが、タカシが自分の父親であるならば、誇りに思えるような人物として接していきたい。そうタクマは考えていた。というよりも――。


【二度と、そうなるものかっ!】


――昨日の親父たちがかっこよかったとか、口には絶対出せねぇ。


「……そういや、俺の席にテキーラがあったな」


 あったというか、もらったに近い。どうせ、タカシと酒を飲むのであれば。以前に持って帰ってきたテキーラを思い出した。確か、あれは自席に置きっぱなしにしていたはずだ。


 タクマはタカシにい『行く』と伝えて、オフィスへと向かうのだった。


     ◆


 美味しいよと言われて、モニカは嬉しそうだった。いや、オフィーリアも嬉しそうである。二人ともキャッキャッと笑顔でチョコレートケーキとクッキーを食べていた。その傍らで紅茶を淹れてくれるモニカの母親も表情が穏やかである。


 出来立てのチョコレートケーキ。温かくて、甘い。この前、タクマやタカシにもらったQのチョコレートよりも美味しい。ああ、そういえば、タカシがQのチョコレート三箱あげるって言っていたな。あれを買ってきてもらって、モニカと一緒に食べたいな。きっと、彼女も美味しいと言ってくれるはず。


「オフィーリアが持ってきてくれたクッキーも美味しいよ」


 サクサクと香ばしさと甘さが絶妙にマッチするクッキー。これは朝、タクマを強引に起こさせて、お菓子屋に行ったとき、自分で選んだものなのである。これを選んでよかったと素直に思っていた。


 もちろん、モニカの母親も「美味しいわよ」と絶賛してくれているのだから、オフィーリアの頬も上がるのは当然だった。


「これ、どこのクッキー? 今度買おうかしら」


「えっと、R菓子店、で、す。メガロポリスの西側にある大通りにあります」


「ああ、そこなのね。モニカ、今度買いに行きましょう」


「うん。買ったら、一緒にまた食べようね、オフィーリア」


 モニカのその言葉はまた遊ぼうという意味なのだろう。ああ、今日はついている。なんていい日なのか。毎日殺伐としたオフィスで椅子に座っているよりも、凶悪犯と追いかけごっこをするよりも、こういう風にして同年代のお友達と楽しくティーパーティーだなんて。


 これまでは一切考えられなかった。いつの間にか、飛び級で大学までも卒業してしまうし。友だちという友達はこれと言っていなかった。オフィスや支部の中でも自分の次にタクマが若い。それでも、十歳以上も違う。周りにいる者たち全員が年上だからこそ、こんな楽しさはないのだろう。


 自分がどれだけ普通の子どもでいるべきだったか。オフィーリアは実感した。麻薬カルテルの撲滅も大事ではあるが、こんな穏やかな子どもの時間の特権も長く味わいたい、と。


――ケーキがなくならなければいいのに。


 気がつくと、二人のお皿にあったチョコレートケーキとクッキーはなくなっていた。モニカの母親に淹れてもらった紅茶もなくなりつつある。


 とても美味しくて、楽しい時間がなくなっちゃうだなんて。


 しょんぼりとさせた顔を見せるオフィーリア。それを見かねてか、モニカが「ねえ」と席を立つと、彼女の手を取った。


「食べたし、わたしの部屋に行こ」


「モニカの部屋?」


 彼女の部屋に行って、何をするのだろうか。お菓子はもう食べ尽くした。モニカの部屋で紅茶でも飲みまくるとでも? ここにテーブルと椅子があるのにもかかわらず。


 よく意味がわからずに、オフィーリアはモニカに連れられて部屋へとやって来た。その部屋は自分の部屋と大違い。まず、部屋全体がカラフルなのである。カートゥーンキャラクターが描かれた布団。壁に貼られた家族と友達の写真。傍らにあるおもちゃ箱は今にもあふれかえりそう。なんて楽しそうな部屋なのか。


――いいなぁ。


 自分もなんだか、こんな部屋へと模様替えをしたくなってきた。ベッドがある部屋なんて、ただの寝室だけだと思っていたからオフィーリアの部屋はほとんど殺風景である。ベッドとサイドテーブル、間接照明があれば十分だと思っていたが――。


「可愛い」


 出窓に飾られたぬいぐるみ。子どもっぽいからだとかばかり思っていて、買ってあげようかという親切心すらも無視していた自分がバカみたいだ。


 自分がエリートであると思っていたのはただのうぬぼれなのか。


「これね、わたしが記憶があるときのたくさんの写真」


 モニカの言葉で我に戻るオフィーリア。壁に飾られた写真の方へと近付いて、眺めた。家族との写真、友達との写真。どれも彼女は笑顔で映っていた。正直、羨ましい。そう思っていると、モニカが引き出しからトイカメラを引っ張り出してきた。


「オフィーリア、一緒に写真撮ろう」


「えっ、いいの?」


「うん。わたしね、写真に写っている人たちに会ってきたの。でも、何も思い出せない。それでも、写真を撮っていたから何も思い出せなくても、わたしの思い出はここにあるってわかったからみんなに会えたんだと思うの。それに、また失くしてしまったときに、記憶の証拠を残したくて」


「……そっか」


「じゃあ、いくよ」


 モニカはオフィーリアに引っ付いて、「笑顔で!」と彼女に指示を出した。いきなり、笑顔でと言われても、戸惑いを隠せないオフィーリアは「こう?」と少しばかり硬い表情で挑む。


「そうだよ。楽しいと思えるから、笑顔は作れる」


 それでも、ぎこちなさはあったが、先ほどよりかはマシになったはずである。モニカはシャッターを切った。そうして、ひとりでに部屋を出ながら「ママー」と自分の母親を呼ぶ。


「写真をプリントアウトして」


 呼ばれたモニカの母親は「はいはい」とトイカメラを受け取ると、その取った写真をプリントアウトしてくれた。印刷機から出てきた写真に彼女は微笑みを浮かべていた。


「いい笑顔ね」


 それはモニカだけに渡すのではなく、オフィーリアの分もあった。


「えっ、いいの?」


「だって、一緒に撮ったじゃない。オフィーリアがもらっても、何もおかしくないよ」


「……あり、がとう」


「よしっ、壁に写真貼らなきゃ!」


 プリントアウトしてできた写真に満足するモニカは自分の部屋へと直行した。その後をオフィーリアが追いかける。受け取った写真を壁に貼り付けて、にっこにこと笑顔を見せるモニカ。対して、彼女は部屋の入口でそっと覗いた。


「大丈夫、もう忘れない」


 その呟きにより、オフィーリアは写真に目を落とした。自然な笑顔のモニカ。その隣にはぎこちない笑顔の自分。


――どうして、わたしはあんなことを思ったんだろう?


 もしも、自分が普通の子どもだったらという考え。なぜに自分はモニカとこうして遊ぶことができるのか。それはゼロ・カルテルを追いかけていたからこそ、できた友達だから。皮肉ではある。彼女が事件に巻き込まれていなければ? 彼女が記憶を失わなければ?


 友達になれたというのはまさに今、ここでしかない。本来ならば、モニカが被害にあってはならないこと。だが、なってしまったという過去がある。親しい人との記憶を失くしてしまったという悲しみがある。過去は戻れない。だからこそ、二人の写真からモニカの方を見て――オフィーリアは決意する。


――二度とあってはならないこと。


「絶対に、あいつらを捕まえる」


「えっ?」


 モニカはオフィーリアの声に気付いたのか、目を丸くしてこちらを見てきた。それにあやかるようにして、彼女はモニカに近付いて手を握る。


「わたしがモニカを悲しませたやつらを捕まえるから!」


「……それって、警察の人たちでもどうすることもできないって聞いたけど」


「それはその警察官が無能だっただけ。わたしはそうならない。絶対に。どんな些細なことでも見逃さないし、約束する」


 ずっと目を丸くしていたモニカはふっと口元を緩めた。


「オフィーリアって、頼もしいんだね」


「へっ?」


 今度はオフィーリアが驚く番のよう。あっけないその表情にモニカはこっそりとトイカメラで撮影を。これに慌てたようにして「待って!?」と恥ずかしそうにしていた。


「今のはなし!」


 しかし、どこか嬉しそうな顔であったというのは言うまでもない。


「ありがとう、オフィーリア」


「どういたしまして」


     ◆


 お酒が手元にないため、タクマは一度、オフィスへと向かった。この時間帯にその場所へと向かうこと自体ほとんどないようなものだから景色が新鮮に感じた。昨日、ヘコに捕まりかけたときは、ここを全力疾走していたっけ。彼の行方は知らない。ただ、オフィーリアがサタナスを追いかけていたとき、一緒にいた男との特徴は一致している。亜麻色の髪のオールバックにエメラルドグリーンの目。白いスーツを着た男。見間違うこともない。なぜならば、一緒に夕食を共にしたから。至近距離で話をしたから。


 タクマ自身が捕まり、どうすることもままならないと思ってはいたが――必死に逃げていれば、なんとかなるものだな。そう思った。きっと、オフィスにいるジュディたちもこの危機に対して、真剣に調査をしている頃だろう。そうともならば、休日出勤でもした方がよかったのかもしれない。


 なんて考え事をしながらオフィスへとやって来ると――。


「あれだよな、軍もこっちに回してくれりゃいいのにさ」


「無理じゃない? 今は国内で移民問題のデモとか紛争が起きているんだから。それも世界中で起きている。そっち優先になるのも当然でしょう?」


「いや、でもなぁ。あっ、そのボトル取って」


「はい、どうぞ。これ、美味しいよね。やっぱり、昼間からのワインは最高ね」


「ワインもいいけれど、この国と言ったらやっぱりテキーラでしょ。ほら、タクマの机の上に置いてあったの。あれ、美味しかったよね」


「そうだよ。あいつ、どこで買ったんだろう? 飲まない割には机の上に置いているしさ」


「オフィーリアがいないときに誘ってくれるかなって思っていたけどね。違ったね」


「じゃあ、どういう過程でここに持ってきたんだろうな?」


「んっ、それよりも、このチーズ美味しいよ。こっちのクッキーとの組み合わせ最高」


「おっ、ホントだ。ワインによく合う」


「ワインだけじゃないわ。この前、ミスターミカミからもらったニホンシュにも合うんじゃない? ああ、またお願いしなきゃね」


「だなぁ」


「昼間から何をしているんですか」


 さて、そろそろ軌道修正をしてあげるべきだろう。そう感じたタクマはジュディたちにツッコミをしてみた。三人はこちらの声に気付くと、目を大きく見開いていた。慌てて、ローテーブルに広げていたお酒とおつまみセットを隠そうとする。そんな、今更な。一部始終はしっかりと見ていましたからね。


 何事もなかったかのようにして、ローベルトは「やあ」と爽やかに笑顔を向けているが、目が泳いでいるのは気のせいではない。


「今日は休みだろ?」


「ええ。でも、先ほどの話にあったテキーラを取りに来ただけですよ」


 だが、取りに来たとて、彼らの会話から察するに中身はないことは知っている。それもあってなのか、ヴァンダが「一緒に飲む?」と訊いてみた。


「ごめん、飲んじゃった……」


「いや、いいですよ。それに、親父に呼ばれているから」


 タカシに手土産を。そう聞いた三人はもっと申し訳なさそうにしていた。


「タクマは飲まないし、いいかなって思ったんだ」


「飲んでしまったものは仕方ありませんよ。どうせ、俺が持っていったところで向こうにはいっぱいありそうですし」


 それでも、と思ったのだろう。ローベルトが隠した一本のボトルを差し出した。


「でも、持っていこうって思ったんだろ?」


 持っていけよ、と受け取る。タクマがお礼を言うと、彼は「いいってことよ」と得意げになった。


「二人は仲直りをしたみたいだしな」


「そうそう。これ、私たちからの親子仲の回復祝いよ」


「ははっ、ありがとうございます」


 そのようなことを言われると、こそばゆい気がした。嬉しい反面、タクマはオフィス内を見渡して「でも」とドアに手をかけた。


「明日までにこのアルコール臭をどうにかしておいた方がいいですよ。明日はオフィーリアが出勤しますし」


 なんて、忠告をしてみる。だが、三人は楽観的な考えをお持ちのようで――。


「大丈夫だって。ワインだから、ブドウのにおいがきついだけ」


 そんな発言にタクマは苦笑を浮かべる。そういう問題だろうか。


「いや、アルコールのにおいも十分していますから。今日は支部長がこちらに来なければ、幸いでは?」


 いくら、ある程度の自由が利く職場だからと言っても。お酒を飲みながら仕事ができるとしても、この国の支部長はかなり真面目で厳しいお方である。日本支部にいた経験があり、そこでの規律に感銘を受けたとかで――いわゆる、お堅い上司として出世したのだ。そして、タカシとは正反対の性格でもあることから、よく相反しているところを見掛けることが多々ある。


 支部長の名前が挙がり、三人は酔いが醒めたのだろう。そろそろお開きにするか、と酒瓶を片付け始めるのだった。そんな彼らを後目にタクマは「お疲れ様です」とオフィスを後にするのである。


      ◆


 メールに記載されていた住所通りにタカシの家へとやって来たタクマ。緊張はとてもしている。一時間ほど前に呼び鈴を鳴らすだけで動揺していたオフィーリアの気持ちが今ならわかるかもしれない。だが、これでもタクマは彼女と違ってああはならない。勢い任せで呼び鈴を鳴らしてみた。


 モニカの家よりもベルの音が少し重たいように聞こえる。音の後、家の中から音は聞こえてこない。しばらく待ってみても、タカシは出てこない。不審に思って、もう一度鳴らしてみる。が、やはり出てこない。


「また急な仕事?」


 もし、そうだとするならば、連絡ぐらいは入れてもらいたいものだ。彼も学習したはずだろうに。


 なんだよ、とタクマがダメもとでドアに手をかけてみた。すると、ドアは普通に開くではないか。タカシは家にいるのか? 気になるからこそ、中へと入ってみる。入るとき「お邪魔します」と他人行儀らしく口にする。


 家の奥へと突き進むにつれて、タカシの生活の様子が露わになってくる。彼は片付けるという選択肢を持っていないせいなのか、廊下には脱ぎっぱなしの服だらけ。ごみ袋が何袋か点在している。一応は分別を心掛けてはいるみたい。おっと、一足だけ脱ぎ散らかした靴が、靴下がある。あっ、この靴下片方が別の物なのに、一緒に丸めている! ごみ袋の口を結んでいないから空き缶が転がり出てきた。


 タカシがなぜにアカネを雇っていたのか。その理由は自分が留守をしていることが多いということもあるだろうが、もう一つの理由としては家事がほとんどできないからなのかもしれない。仮に家事ができなくても、ごみぐらいは捨てに行けばいいのに。どれほどこの家に住んでいるかはわからないが、下手すればごみ屋敷に変貌できるぞ、これ。なんて思うタクマは散らかったごみだけを口が開いた袋の中へと詰めていく。


「俺だって、掃除とか洗濯ぐらいはできるのに……」


 それは忙しいという理由にはならないということを念に押して言っておこう。


 ガラガラと空き缶の音を立てながら、廊下の奥にあるドアを開けた。その途端、とんでもないアルコール臭がタクマの鼻を突き抜けた。気持ちの悪いにおい。酒屋とかでもここまできついにおいは今までなかったぞ。というか、換気を。


 本気で気分が悪くなってくるタクマは窓を開ける。


「親父?」


 それよりも、あのアホはどこにいる? まさか、ここが他人の家だとは思いたくもない。彼は目についたドアを片っ端から開けることにした。ドアを開ける度に掃除がされていないということがわかるだけで、肝心のタカシがいない。本当にどこへ行ったのだろうか。そう片眉を上げながら最後のドアを開けた。そこにタカシはいた。全裸でベッドの上に寝転がっている。ただし、右足だけ靴を履いた状態だ。


「…………」


 これまでは家庭を顧みないダメ親父として軽蔑の眼差しを向けていたのだが、どう考えてもこいつは人間の根本的な部分としてダメなやつだと思う。タクマは目に映った嫌な物にしかめっ面を向けながらタカシを起こした。


「起きろ、親父」


「……うーん、俺は目薬の帝王だぞ。愚民どもはひれ伏せよ」


 どんな寝言だ。というか、何の夢を見ているんだよ、こいつは。


「おい、目薬の帝王。さっさと起きろ」


 今度は笑い出した。彼は「そうだ」とどこか偉そうに寝言を言う。


「俺はフンコロガシの嫁だ。美人でいいだろ?」


「どこがだ。人に汚いものを見せびらかしやがって」


 と、ここでタカシが目を覚ました。ぼんやりと寝ぼけ眼で「あれ?」とこちらを見てくるものだから、タクマは「おはよう」とあいさつをした。


「いい夢を見れたか? 目薬の帝王及び、フンコロガシの嫁さんよ」


「いや、変な夢を見たな。なんだ、もう時間か」


「というか、服を着ろ。こっちが見ていられないから」


「自分の小ささに?」


「親の尊厳だよ。こんな親を持って恥ずかしい」


 タカシは頭を掻くと、とりあえずはと手近にあった服を取って着替えた。下着を履かなかったことに関しては見なかったことにするべきだろうか。怪訝そうな顔をするタクマをよそに、タカシは「こっちで飲もうか」と寝起きなのに上機嫌。まあ、それは別にいいのだが――。


「というかさ、家の片付けはどうしているんだよ。汚い家だな」


「二週間に一回、クリーン業者を頼んで掃除してもらっているよ」


「服とかの洗濯は?」


「それも業者任せ。あっ、タクマも利用したい? これ、業者の番号な」


 なんてそのクリーン業者の広告を渡してきたが、要らないから。タクマは断りを入れる。自分で掃除、洗濯ぐらいはできるから。というよりも、親としての一番見習いたくないところを見てしまった気がしてたまらなかった。


 気にはなる、と感じながらも、ようあく自分の鼻がこの家の悪臭に慣れた頃。換気が効いたおかげだろう。ソファに座りながら、もらったボトルをローテーブルに置いた。


「お前って、酒はどれぐらい嗜む?」


「ほぼない。これ、もらいものだから」


「成人しているんだから、毎日飲めよ」


「毎日飲んでいそうな父親の衝撃的な物を見たせいで、飲む気なんて失せるけどな」


 その親の血が半分自分にも流れているのだ。ということは、飲みに飲みまくったらあんな風にねじが一本取れたような行動を移す可能性が高い。であるならば、自らお酒というものを控えておくことがベスト。


 そんな言われようであるタカシであるが、特段気にしている様子はなく、グラスと酒瓶をテーブルの上に置いた。


「つまみはジャーキーでも齧ってろ」


 ビーフジャーキーを受け取ったタクマは齧った。グラスの注がれるお酒を見つめる。目の前にそれを置いてくれたタカシは自分の分を一気飲みした。


 その場に沈黙。妙に空気が重たい。お互い、何を話せばいいのかわからないからだ。父親として、息子として。これまでに親子の親睦をほとんど深めてこなかった自分たちは己を恨む。ようやく、仲違いから脱却しようとしているのに。


 タクマが何を話そうか迷っているときだった。タカシが「お前の誕生日な」と空になったグラスに視線を落とし、こちらを見てきた。


「連絡、寄こさなくてホントごめんな」


「もう、いいよ。仕事で仕方なかったのはわかっていたから」


 自分が生まれる前からタカシがサタナスを追いかけていたということは、捜査官に無理やりなったときに知ったこと。それだからこそ、今なら納得できる。


「当時の資料も読んだ」


「わかってくれたなら、俺はそれだけで十分だよ」


 空となったグラスに再びお酒を注いだ。


「あの日、資料の整理が終わったら帰れると思ったんだ。もちろん、周りも空気を読んでくれてな。でも、急にやつが……ゼロが町にいるって情報が入ってな」


「追いかけていたんだ」


「そう。急いで終わらせようとした。またこんな日に、ってすげぇムカついたもん」


「俺もムカついた。でも、今は……ゼロ? サタナスって名前じゃないの?」


 ここでタクマとタカシに認識の誤差が生じた。あの『0』のタトゥーの男の本名というわけでもなさそうだが――。


「……お前さ、資料は隅々まで読めよ。あいつの本名を知っているやつはいないに等しい。だからこそ、こっちではゼロって統一していたんだよ」


「それは知らなかった。というか、オフィーリアも知らなかったみたいだけど?」


「ああ、オフィーリアか。あの子もあの子で資料は読んでいるだろうが、本当に必要な情報しか読もうとしないから。きっと、呼び名なんてどうでもいいとか思っているんだろ。大体あいつとかやつで話は基本通るから」


 全く、これだから若い者は。そうタカシは一口お酒を飲む。


「シリアスな話になっていくのに、こっちが拍子抜けするぜ」


「親父にシリアスな話は似合わないよ」


 タクマはようやくお酒に手をつけるが、結構アルコールがきつい代物のよう。顔をほんの少しだけ歪めながら鼻で笑った。


「親父はどちらかって言うと、コミカルな方が性に合ってる」


「それ、褒めてんの? けなしてんの?」


「悪い意味で褒めてるよ」


 結果、けなしているじゃねぇかと唇を尖らせながら、つまみのビーフジャーキーを齧った。そんなタカシを一瞥すると、彼は「でも」とグラスをテーブルの上に置く。


「親父が必死にあいつを捕まえようとしていることの心だけはわかったから」


「ああ」


「だから、聞かせてくれる? 親父とゼロの因縁を。俺、ずっと訊きたいと思っていたんだ」


 そう頼み込むタクマにタカシは大きく頷いた。一口だけお酒を飲むと「もう二十五年以上も前になる」そう遠い目をし出すのだった。


      ◇


 タカシは日本の警察に従事していた。自分が管轄している地域は強大な麻薬組織が存在するとかで、ずっと調査をしていたのである。あるとき、麻薬の取引現場で運び屋と受け取り屋を捕まえたとき、ここでその麻薬組織にバックがいると知った。それは彼らよりも更に強大な組織だと調査を経て知ることになる。


 だとしても、まずは日本にいる麻薬組織の撲滅が先だった。どうにか、こうにか関係者を逮捕しては取り調べをし、密売現場を取り押さえたりもしたが――ボスのところまで上手く足取りがつかめない。原因は判っていた。当時は移民問題に紛れ込んで海外にいる麻薬カルテルの一員がこちらへと流れ込んでくることも多々あったから。世界的に見ても、麻薬に関する事件が少なかった日本では彼らにとって格好の場所だったのかもしれない。取り締まりこそはあるが、他国に比べて刑が軽かったこともあったからだろう。


 そうして、イタチごっこのように同じことの繰り返しをし続けて――ある日、タカシは上司から『特別異動命令』という辞令を受けた。これまでの自分の功績や行動を評価してくれる者がいたらしい。そのおかげで彼はアメリカへと向かうことになった。


 日本でまだ解決していない事件もあり、名残惜しかったが、なかなか撲滅しない麻薬組織の根本的な部分を捜査できるのだ。こちらで、その強大な組織を潰せば――晴れて、日本は麻薬に怯えることのない安寧ある国になるはず。そう信じて異国へとやって来ると、事件の多さに圧倒した。起きる事件の半数が麻薬カルテルの関係者が起こす何かだったから。だからこそ、ボスの存在の手掛かりが掴めると思っていたが、これは大きな間違いだった。日本と変わりない何も知らない末端。ただ、わかったことと言えば、若者たちの多くがこれらの事件に関わっているということだった。


 あるとき、タカシは仲間と共に密売の現場を取り押さえた。路地裏で麻薬売買をしていた顔色の悪い男と少年だった。その少年の首には『0』のタトゥーが。


「ばーか」


 捕らえたはずなのに、にやりと不敵な笑みを浮かべたかと思えば、頭突きをもらった。その隙に少年はこの場から逃走してしまう。慌てて追い掛けるも、彼の逃げ足は速かった。これがタカシとゼロの出会いとなる。


 この日を境に彼らは巡り巡って会う機会が増えた。だからこそなのだろう。タカシはいつも逃げてばかりいるあの首に『0』のタトゥーが入った少年を重要視するようになった。


 たかが妄想とバカにされるかもしれないが――いずれ、一麻薬カルテルのボスとして存在するかもしれないという嫌な想像を働かせながら。


     ◆


 タカシがゼロと出会って、二年の月日が流れたある日。麻薬カルテルの一つの拠点を一斉捜査することとなった。これにより、大量の関係者が逮捕されることも予想しながら。タカシも関係者の一人を抑えたとき、視界の端で誰かが走る姿を目撃する。


 首に『0』のタトゥーが入った青年。紛れもない、ゼロだ。


「一人逃げたぞっ!」


 大声を張り上げるも、虚しくその場に響くだけ。交戦で騒がしいのだ。誰もが目の前にいる敵に忙しいに決まっている。それだからこそ、ゼロを逃がしてしまった。彼はカルテルの連中を囮として利用し、自分だけ国外へと逃げたのだ。


 その情報を基に、タカシは自らゼロが逃げたとされる国への異動を希望した。彼をどうしても追いかけたかったから。以前に抱いていた妄想がいよいよと現実で再現されようとするかもしれないから。ゼロが逃げた国は世界中でもっとも麻薬事件が頻繁に起きやすい国だった。


 嫌な予感は的中した。その国で聞いた風の噂。メンバーの人数構成が一切不明の麻薬カルテルが活動的であると。なかなかしっぽが掴めない麻薬組織ではあるが、タカシはそのカルテルのボスがゼロであると確信をしていた。以前の一斉捜査で自分のボスすらも無視して逃げたあいつだ。彼は下っ端の器で終わるようなやつではない。そのため、タカシは片っ端から首に『0』のタトゥーが入っている人物を徹底的に調べた。周りが根拠もなしに調べるなんて、と高を括ってはいたが――まさしくその通りだった。


 その国で最後に会ったのは港町である。近くに脱出用のボートすらも船すらもない真っ暗な海を背中に向けて対峙していた。


「よくお前に会うな」


 英語訛りのスペイン語であるが、自分よりかは上手いと思った。


「お前とは切っても切れない縁がありそうだ」


 事実その通りである。何度も顔を見合わせているのだから。お互いの顔ぐらいはもう嫌と言うほど覚えただろう。


「あばよ。タカシ・ミカミ」


 どこで自分の名前を知ったのだろうか。可能性としてはいくらでもあるが、そちらの疑問よりも、ゼロが海の中へと飛び込んだことが衝撃的だった。慌てて、タカシ自身も海の中へと飛び込むが――ゼロの姿はどこにもなかった。


     ◆


 逃げに逃げられて、手掛かりを探していた。すると、これまで世界的に見ても麻薬事件性の少なかった日本で急激に麻薬犯罪率が跳ね上がったらしい。その話を聞いて、その要因はゼロにあると憶測を立てた。タカシはすぐに転属願を提出する。ゼロは、今度は日本にいると見込んだのだ。


 とある麻薬事件を捜査していたとき、聞き込み調査で一人の女性が首に『0』のタトゥーを入れた外国人を見たと証言した。間違いなくゼロだ。タカシは彼女の話を聞く内に――互いに惹かれ合っているという感覚に陥った。彼女の名前はエリ・トオノ。これまで、ずっと事件ばかり追いかけていたタカシは初めて男女の関係に頭を悩ませた。エリの笑顔。可愛らしい仕草。一緒にいるときの幸福感。優しいにおい。そういえば、久しぶりに休暇をもらって遊園地にも出かけたっけ。あのときはとても楽しかったなぁ。なんて言ったって――。


     ◇


 タクマに呼ばれて、タカシは我に戻った。目の前にいる息子は怪訝そうな顔をしているようだが?


「何?」


「何じゃねぇよ。母さんとの出会い話はどうでもいいから、ゼロについて教えてくれよ」


 のろけ話なんて聞く気も起きない。あまりにも嫌そうな顔をするタクマではあるが、タカシは断固として「最後まで聞けよ」と不貞腐れる。


「母親の話だぞ。知りたいだろ」


「ああ、知りたいさ。あまり知らないからな。写真でしか知らない」


「だったら、なおさら……」


「母さんとの話はすべて終わったときに聞きたい。俺は親父の仕事を聞いているんだよ。小学校の頃、家族の仕事について調べるっていう宿題ができなかったんだ。それを今、ここで消化したい」


「すまん。……まあ、エリとは色々あって結婚して、お前が生まれた」


     ◇


 家庭を持つというのはとても幸せなことだった。仕事が忙しくて、なかなか家に帰ることができないときもあったが、エリはいつもタクマを抱っこしながらタカシの帰りを待ってくれていた。


 三年の月日が流れ、今日は早く帰れそうだった。事件もない日。タカシは彼女に連絡を入れて、ホテルのレストランで夕食を食べようと約束をした。エリは『わかった』と返事をしてくれて、彼は書類を片付けるだけだった。だがしかし――。


 緊急通報が入った。都内のホテルで自爆テロが起きたらしい。その騒動を起こし、自害したのは麻薬カルテルの一味だそう。ということは――そのとき、傍らにいるわけでもないのに、耳元でゼロが嘲笑っている気がした。爆発が起きたホテルは約束をした場所。


 誰かの言葉すらも無視して、現場へと急行した。ホテルの前ではやじ馬がいた。そこの隙間から見えた悲しそうな顔をする老夫婦の腕の中で泣き喚くタクマ。そちらへと駆け寄り、我が子に抱き着く。彼らは教えてくれた。上から落ちてくる障害物にエリから助けてもらったらしい。そのとき、彼女は「タクマをお願いします」と老夫婦に託したそう。


 ということは、まだ中にエリはいる。その事実にタカシはタクマをもう一度、老夫婦に預けてホテルの中へと入ろうとした。だが、救急隊員や消防隊によって止められた。それでも、なりふり構っていられないからこそ、手を払いのけ、人を押しのけてまでホテルの中へと突撃した。


 どうやって、エリのもとへ向かえたのかはわからない。時間はそこまでかかっていないと思う。煙や炎、瓦礫が邪魔をするが、どうにか振り切ったらしい。彼女のもとへとやって来ると――。


「最後に会えて嬉しいな……」


 その言葉を最後に、彼女は息絶えた。


 すべては自分の詰めの甘さ。家庭があるから、と仕事を軽く見ていたのかもしれない。自分が率先としていなければならないことなのに。楽観的に構えていたからこそ、ゼロは狙っていた。きっと。自分の名前をどこかで知ったぐらいだから、家族についても把握していたに違いない。でなければ、あの日、ピンポイントであのホテルの中での自爆テロは起きなかったはず。


 仕事を蔑ろにしていたから。仕事より家族という考えだったからこそ、エリを失った。自分に残されたのはまだ幼いタクマだけ。タカシは老夫婦のつてを頼りに、家政婦のアカネを雇った。


 家族ではなく、自分が犠牲にならなければ。それからである。タカシが家庭を顧みない親になってしまったのは。家族が大事だということはわかっているし、知っている。だが、仕事より、家族を優先的に考えてしまうと、あの悲劇だけは繰り返したくない。だからこそ、仕事だけを見るようになった。


 そこから、ゼロは逃げるようにして中国、イギリスへと逃げ渡った。こちらを揺さぶるような事件を起こしてくるようになった。女性や子どもを狙った誘拐事件をするようになったのだ。それを盾にカルテルの活動をし、こちらの動きを封じ込める。なんとも卑劣なやり方か。


 とんでもないやり方は自分の家族もそうであったが、一番ひどいのは親の前で子どもを殺害しようとする精神。その逆もまた然り。逆の方がこれから生きていく子どもにとっては悲しい事実だ。あるシングルマザーの家庭の母親が殺された。身寄りがいない子どもは生涯孤独。泣き叫ぶその子どもとタクマが重なって見えて仕方がなかったのである。


     ◇


 ボールを蹴っては受け止めて。ボールを蹴っては受けて止めて。その繰り返しにオフィーリアは飽きを感じていた。だが、モニカはとても楽しそう。にこにことサッカーボールを追いかけているではないか。二人だけのサッカーというものは、モニカが誘ってくれたからこそ楽しいものだとばかり想像していた。が、実につまらないと思う。何が楽しいのだろう。何のためにボールを蹴っているのだろう。やる気が出ない。


 あれだろうか。スリルさが足りないということ。モニカのキック力自体がそこまでないということもあってか、ころころとこちらへ転がってくるだけ。オフィーリアが手加減をして蹴ったとしても、取り損なっているのだ。


「オフィーリアってすごいね」


 ジュニアチームに入るために、練習しなくちゃ。そう意気込むモニカは素直に楽しんでいた。そんな志は凄いなと思ったりもしたが、その反面、自分を誘ってくれないのだろうかというちょっとした嫉妬をサッカーボールに八つ当たり。思わず強く蹴り上げてしまって、ボールはモニカの家の庭から道路へと飛び出してしまった。


「あっ、ごめん」


 オフィーリアが小さく呟くように謝りながら、ボールを追いかける。もちろん、その後をも二かも追いかけてくる。


 二人が道路に出たサッカーボールを追いかけていると、それは誰かの足元へと転がり込む。その誰かは一人の優しそうな顔をした男だった。亜麻色の髪にエメラルドグリーンの目をした彼はそのボールを拾い上げて「はい」と手渡してくる。


「ボール遊びは気をつけてね」


 差し出されたボール。それをモニカが「ありがとう、おじちゃん」とお礼を言った。しかし、オフィーリアはこの人物をどこかで見覚えがあると感じていた。どこかで会ったことのある風貌。であるが、思い出すに思い出せない。


 あまりにも気になり過ぎて、じっと見つめているものだから、彼はどこか挙動不審げに「どうしたんだい?」と訊いてくる。


「僕に何か用かな?」


 別に要はない。であっても、どこかで会ったことがあるかと訊きづらい。おそらくは、町中ですれ違ったことが何度か会ったからなのだろうか。そう言い聞かせるしかいないように思える。だからこそ、彼女は首を横に振る。


 そんなオフィーリアの傍ら、モニカが「おじちゃん、どこかで会った気がする」と呟いた。じっと男を見つめる茶色くて大きな目。それにあやかるようにして、オフィーリアも見た。彼のエメラルドグリーンの目がこちらへと向けられる。


「会ったことがあるっていうのは、もしかしたら、きみたちとはお散歩とかで何度かすれ違っていたかもしれないね。僕はここら辺に住んでいるんだ」


「そっか、だからかぁ」


「うん、それじゃあ、気をつけて」


「バイバイ、おじちゃん」


 その場を去る男。その後ろ姿を見つめるオフィーリア。あの背中を見れば、もっとどこかで見た記憶があるような気がした。それでも、何も思い出せない。どうにかこうにか必死になって思い出そうとするも――。


「オフィーリア、戻ろう」


 モニカの呼び掛けで完全に引っ込んでしまった。これにより、あの男が言っていた何度かのすれ違いによるものなのだろうかと考えるようになる。いや、それぐらいなのだろう。仮に彼が麻薬カルテルの一員だとしても、忘れることなんて――。


――あっ。


 思い出した。ゼロを引っ張るようにして逃げた男。あいつは間違いなく、ヘコ。


 オフィーリアが小さく見えるヘコの背中を追いかけようとするが「オフィーリア?」という声によって、足が止まる。そうだ、今はモニカと遊んでいるのだ。


 追いかけるべきか、否か。本来ならば、追いかけなくてはならないだろう。増援も求めなければならないだろう。だが、今は友達といる。その目の前の友達はヘコが関わっている事件に巻き込まれた被害者。捜査官はその被害者を守る責任もある。そう決意したということもある。


 だったら、増援を呼べばいい? スマートフォンを取り出そうにも、モニカは急かしてきた。もしも、自分がタクマたちに連絡を入れようとするのが目的であるならば? 罠をかけているのか。それとも、何かの引っかけか。どちらにせよ、自分は常にモニカといるべきであることは確実だ。


 歯痒い気持ちではある。だが、モニカを守るという手前、オフィーリアはヘコの件を頭の隅っこに寄せるしかなかった。


     ◆


 遠くではボール遊びをする二人の女の子。それを遠くの家の窓から二人の男が眺めていた。一人はスーツを着た男で表情は柔らかい。もう一人は無表情で見つめていた。首には『0』のタトゥーがある。スーツ男、ヘコは「あの子がね」と苦笑い。


「子どもを捜査官にするなんて、よっぽどの人手不足と見た」


「…………」


「あっ、そうそう。もう少しで出国の手続きができるよ。だから、あれはすぐにでもできるから。その準備も万端だ」


 ヘコのその言葉に、『0』のタトゥーがある男、ゼロは無言でその場から立ち去るのだった。

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