プロローグ:ゼロ・カルテル
某国某所。賑わうバーが一瞬にして静寂と化してしまった。誰もの視線は入口に向けられている。その入口に立っているのは十代前半の少女か。長い銀色の髪をツインテールにして、それをフードで隠すようにしていた。一人の男が笑いながら少女のもとへ近付いた。
「どうちたの? 迷子でちゅかぁ?」
可哀想にと言う割には、至ってそのように思っていなさそうな口調と面持ち。にやにやとしたにやけ顔。それに誰もが笑った。その場が一瞬にして、爆笑の渦が巻き起こる。これに少女は怪訝そうな表情を見せた。笑われたのがよっぽど嫌だったのか「そうなの」と不貞腐れていた。
「捜している人がいるの」
「ママかな? それともパパかな?」
男は一人心当たりがあるなと頭が浮かぶが、知らないふりをする。よくよく見れば、綺麗な顔立ちの子どもだ。この子は金持ちに売れるかもしれない。「おいで」と少女を中の方へと招き入れようとする。
「おにーさんたちが捜してあげようか?」
「ホントに?」
少女のむくれ顔がいつの間にか、にこにこ笑顔に切り替わった。この可愛らしい顔、金持ちに売るくらいならば、先に手をつけて売れる分だけを売ればいいかな。
「ホント、ホント」
そう男が言いながら、少女の肩に手を置いたときだった。ざわついている雑音の中に一際冷たい音が鳴った。すぐに雑音は消えて、再び静寂が訪れる。
少女が言った。
「お前らのボスを探してこい」
男の額に黒光りする拳銃を突きつけながら。
「なっ!?」
「探してくれるんでしょ? 早く探しなさい。もしくは出しなさい」
なんて脅してみるものの、なかなか融通の利かないやつらのようだ。仕方ない。もう少し脅してみせようか。少女は銃口を男の額から天井へと移動させて発砲した。
「わたしが言っていることが聞こえない? 捜すって言ったのに」
誰かが焦りのある声で言った。そいつを捕まえろ、と。一斉に少女へと飛びかかろうとする者たち。彼らはギャングだ。だが、それぐらい彼女は知っているし、恐れることはない。軽やかにギャングどもの手からすり抜けていく。
「一々、説明しないとダメな人たちとか」
盛大にわざとらしくため息をついた。少女はショルダーポーチから黒い証明書を取り出し、その中身を見せつけながら銃口をギャングたちに向けた。
「わたしは国際特殊麻薬捜査官。ここはゼロ・カルテルのアジトの一つだと割れている。だから、大人しくうつ伏せになりなさい」
「誰がっ!」
黒い証明書に記載されているのは少女の顔写真と名前。オフィーリア・ルイサ・ジャーマン。彼女――オフィーリアに向かってギャングどもは怒鳴る。俺たちを怒らせるな、と。絶対にこのクソガキを捕まえてやる!
その思いで飛びかかるも、あっさりと無駄な動きもなく避けるのがオフィーリアである。そして、彼らの反応を見て、ここが完全に麻薬カルテルの一つの拠点であることに確信を持てた。だとしても、複数対一人ではどうしようもないだろう。いくらオフィーリアが凄腕の国際特殊麻薬捜査官というものだとしても、普通の人間では太刀打ちできないはず。
そう、普通の人間ではどうしようもないことを実は彼女はやってのける。現実が一気にフィクションへと、アニメ漫画へと見えるように。
一発の銃弾がフードを掠める。それで露わとなる美しい銀髪。薄暗い照明であっても、オフィーリアの髪はキラキラと輝いていた。それをふわふわと空中で浮かばせながら「殲滅戦になっちゃったっぽい」と呆れていた。彼女の右耳には黒い何かがあるが――決まっている。あれは通信機器だ。どこかに連絡を入れているはず。
事実、その通りであり、オフィーリアは「手伝ってよ」と口にした。
「こいつら素直じゃないし」
テキーラの入った酒瓶が窓ガラスを割る。
「そんなこと言っても、コロシはダメでしょ? じゃあ、手伝ってよ」
ギャングどもは投げる物でもなくなったのか。椅子やテーブルさえも飛び交うようになった。カウンターの後ろに安置されていたはずの酒瓶の半分以上がおじゃんとなり、投げられた物でダウンする者もいる始末。オフィーリア曰く、ここは完全にバトルエリア。コロシは禁止。そうならないためにも連絡を取っている誰かに「助けに来い」と言っているのだ。
「それなら、応援を早く呼んで。わたしが『Joder!』って叫ぶ前に」
実際にそう叫んでいるのはギャングたちだけだった。なかなか捕まえられない、当たらない状況にみんなして「Joder!」とシャウトする。
「マジモンの捜査官か、あのガキは!? ありえねぇ!」
「だったら、一人のガキンチョを捕まえられないことをどう説明する!?」
たった一人の子どもなのに。ここにいる大人たちをからかっているようだった。実に情けない。実に腹が立つ。是が非でもボコボコにしないと気が済まないし、これを同業者たちに指を差されて笑われるのも勘弁だ。
「死ね、クソガキ!」
やっとか。チャンスが巡ってきたぞ。オフィーリアの後ろの隙を取ったギャングが椅子で殴りつけようとしたそのときだった。ギャングの一人の顔面には空のグラスがどーん! 割れないように、ある程度しっかりとした作りの物だったらしく、ガラスの割れる音よりも、痛々しい音が聞こえてきた。
これはあのガキが投げたとでも? いや、違う。投げられた方向、少しだけ離れた場所で酒を嗜んでいた客がいた。テーブルには酒瓶――いいや、あれはジュースだ。ジュースの瓶が置かれていた。グラスはない。
「てめぇ!」
グラスが顔面に当たったギャングのこめかみに青筋が浮き立つ。明らかな怒り。これにオフィーリアの助っ人かと思われた人物であったが――。
「ち、違います」
妙な訛りのあるスペイン語。その客は青ざめた顔でそう言った。
「あの女の子が投げろって言いました」
言い訳がましいにもほどがある、このアジア系の顔立ちをした男。中国人か? というよりも、投げたという事実に変わりはない。だからこそ、鼻が赤くなってしまったギャングは「一緒だろ」と頷けるようなツッコミをする。その直後、椅子で殴りつけようとするのだが――「情けない」とオフィーリアの二度目のため息。
「何のためにあなたをここに送ったのかが、わからなくなる」
「オフィーリアがそう言ったからじゃないか!」
「もう、いい。わたし一人でやる」
だから、早いところ増援が来るように連絡をして。彼女はそう言う。これにアジア系の顔立ちをした客は従う。自分が被害に及ばないような場所へと逃げ込みながら。それでも、相手にとっては敵だと認識されているため、彼も標的である。
しかし! それらの攻撃をすべて受け止め上げて、床に叩きつけるのがオフィーリア流。気絶させるだけ、までが彼女流。大量ではないものの、流血沙汰になってきたこの頃。だが、彼女には一切自分の血も相手の血すらもつけてはいなかった。
大半の人数をダウンさせた頃になって、店の奥からは一際大柄なギャングが現れた。これがここのボス? ボス戦キター!?
「大人しく、投降したら?」
「それはこっちのセリフだ。嬢ちゃん」
まだ他のギャングとは違って、どこか妙に冷静なギャング。それもそのはず、彼には自信という物があるのだ。クスリで頭の中を自分が勝てる強いやつと暗示をかけさせながら。そのため、拳が流血してもお構いなし。大丈夫ですよ、痛くないですから。
「うわぁ、こっわーい」
なんて言ってはいるが、そこまでの恐怖心はない様子。むしろ、どこか皮肉ったような表情を見せているではないか。オフィーリアは肩を竦めながら「わたしに勝てると思っているの?」とおどけてみせた。
「あなたがプロレスラーでも、わたしには一つの技すらもかけられないから」
冷静な対処をするボスかと思われていたが、どうも口論には弱いらしい。それもそのはず。クスリで感情のコントロールはあまり聞かないのが通説ですしね。
オフィーリアにそう言われたボスの堪忍袋はブチ切れた。意外に早い。死ね、ガキと先ほどのギャングたちと変わらないボキャブラリー。血まみれの拳を振るう。一方で焦りすらも見せない彼女は「わたしは一度だけプロレスを見たことがあるよ」と自分語りを始めた。
「おじさんと見に行ったことがあるから」
真っ赤な拳をジャンプで避けて――えっ、消えた?
「あれはすごかったなぁ。高いところからジャンプして、相手のお腹にドーン! だもん」
いいえ、後ろにいますよ。あなたが気付いていなかっただけ。
「はい、ドーン!」
オフィーリアの耳には終了のコングが聞こえた気がした。あとはそう。ちょっとしたお片付け。すぐに終わりますよ。
「ほら、終わったよ」
彼女の声しか聞こえない、気絶した者ばかりが集まるバーにて。そっと物陰からはアジア系の客が出てきた。
「ホントに?」
そのオドオドとした態度にオフィーリアは呆れ気味。
「もー、男なんだからシッカリしてよ」
「というか、俺が対処しなくてもオフィーリアだけで終わる話じゃないの、これ」
改めて店内を見渡してみる。これはすべて彼女がしてのけた惨状。ガラスが粉々になる音を出しながら、客は近寄ってきた。
「何を言っているの? あなたのおじさんから育てろって頼まれているのに」
「ああ、そうだよ。ホント、会社が倒産しなければよかったのに」
「過去を嘆いても、何も変わらないし」
オフィーリアはそう言うと、床に落ちたテキーラの酒瓶を拾い上げてアジア系の客に投げ渡した。
「応援はあとどれぐらいで来るって? 応援というか、もう現場調査になるけど」
「もう少しっぽい。……で、これには何の意味が?」
「お酒とスペイン語ぐらいベンキョーしなよ」
そう言う彼女は自身の長い銀髪を弄り始めた。橙色の照明が綺麗な彼女の髪をキラキラと輝かせている。それに見惚れながらも「俺苦手だし」と愚痴るが却下された。何を言っている、と口を尖らせる。
「今回の潜入は不自然だったから。あと、こっちに来る中国人の方がまだスペイン語は上手いよ」
「……オフィーリアって三か国語はしゃべれるんだったっけ?」
「十三! 前にも言った! 記憶力も養いなさい!」
半開きになってしまった店のドアを開けると、二人の応援がようやく到着した。彼女は「大体は終わってるから」と床に転がるギャングたちを彼らに任せるのだった。そのオフィーリアの後に出てきたアジア系の客――タクマは一度、バーの方を振り返ると、彼女の後を追う。前から「次に行くよ」と聞こえてきた。
「ここが正解だと思ったけど、ハズレなのが悔しい」
「えっ? 俺たちが追っていた麻薬カルテルってここなんだろ? で、あの大男がボスじゃ?」
「下っ端ザコしかいない時点で、あいつもただのザコボス。本物のボスなら、もっといい武器を持っていたはず。あなたは逃げることすらもできなかった」
それに、と彼女は足を止めた。
「誰も首に『0』のタトゥーがなかった」
「じゃあ、どこにいるんだってんだ? 見当はつくの?」
「田舎にいるとは思えない。メガロポリスに潜伏していることは間違いないから」
オフィーリアは「早く見つけなきゃ」とここでちょっとした焦りを見せた。
「じゃないと、わたしのエリート経歴に傷がついちゃう」
「そっちかよ。てか、もうちょっとゆっくりでも俺はいいと思うけど。麻薬戦争なんて数年かけて解決したんだろ?」
タクマの言葉に彼女はこちらを振り返った。そのときの目付きは鋭かった。唇を尖らせながら「あのねぇ」と髪の毛を弄る。
「長引かせてどうするっての? 犠牲者を出すことも、私は許さないんだから」
「そう言っても、ボスの手掛かりはないに等しいんだろ?」
「だとしても、あなたはわたしの部下! 上司の命令は絶対なの! いい? どうせならば、ここで宣言でもしてあげるし、あとで部長にも宣言してやる!」
タクマとオフィーリアの目がぶつかり合う。彼女の目の奥からは絶対に意地曲げない意志が見えていた。
「わたしは一か月以内に、首に『0』のタトゥーをした男を見つけて捕まえてやるんだから!」
「それって……」
「無理? 無理だと思っているの? できないと思うから、できないの! 必ずあの男はわたしの手によって終わる! これは絶対的な未来宣言なんだから!
首に『0』のタトゥーをした男が率いる麻薬カルテル。それはこの国のどこかに存在とされている詳細が一切不明な組織である。この組織を人は『ゼロ・カルテル』と呼んでいた。
始まりは誘拐された一人の女の子からだった。それの影を二人は知ってしまった。姿、証拠が見えぬ彼らにタクマとオフィーリアは挑むのである。