7.どの面下げてやって来た
お父様が都から持ち帰った親書を読み、絶叫して気が遠くなったあの日から、二週間ほどが経つ。
男爵領はいつもと変わらない日常を繰り返し、村の葡萄が収穫を終えて、今日からようやくワインの仕込みが始まった。
いくつも醸造所を持つことができない小さなミルド村では、三ヶ所にまとめて発酵させる。それぞれの畑で採れた葡萄の重量で、出来上がったワインの権利割合を得る。多ければそれなりに収入を得られるし、質がよければ後に上乗せされた販売価格から、皆にお金が分配される仕組みだ。
葡萄を搾る作業は手早く済ませたいので、男爵家の一同も動員してお手伝い。この時ばかりは貴族も平民もない。
私はヨアキムに手綱を頼み、荘園の葡萄をどっさり乗せた馬車に同乗している。荷台の縁にはお屋敷の使用人二人が乗り、馬車は相当の重さだろう。
「今年の収穫はそこそこの量になりましたね、ライラ様」
「ええ、一昨年の水害で受けた損害分をこれで相殺できそうね。全体的に糖分も申し分ないみたいだし、安心したわ」
「村人にとってはワインが、一番の現金収入源ですからね」
「そうね、でも質だけでは駄目よ。これから少しずつでも量を増やしていかないと。現金が増えれば村にもう少し商業が増えるだろうし、お金で解決できることが増えるのは、村の女性たちにとってすごくいいことだわ」
「それには発酵槽を拡張するか、増設しないと今はもうどこも許容量いっぱいです」
「……先だつ資金が、足りないわね」
「実際、十年かけて葡萄の生産量は右肩上がりに来ていますから、そろそろ何とかした方がいいですね」
「うん、分かってる」
ヨアキムとそんな会話をしながら向かったのは、温室からさほど離れてはいない谷あいの場所にある、煉瓦造りの建物。背後には切り立った山肌があり、そこを掘削して貯蔵施設として利用している。
近くには山の湧き水でできた川があり、既に葡萄を下ろした後だろうか、馬車を引いてきた馬が水を飲み、休憩していた。
次第に近づくと、そこにいたのは馬だけではなく村人たちも数人が、川に入って身体を洗っていた。
「今日の一回目はもう終わったの?」
「ええ、あと三十分くらいで次が始まりますよ、ライラお嬢さん」
思っていたよりも作業が進んでいるようだった。早くしなくちゃと、ヨアキムを急がせる。
馬車を煉瓦小屋に寄せて、私は使用人二人とともに馬車を降りて、葡萄を下ろす準備を始めた。
「ライラ様、こっちこっち、早く!」
台車に葡萄を下ろしながら声の聞こえた小屋の方を見れば、ロリが私を手招きしていた。
その後ろにはロリの妹と、同じく村の若い娘たちが揃っていた。年長はロリ、幼い娘は十になったくらいの子供。全て嫁ぎ前の娘たち。
「遅くなってごめんなさい、今からすぐ準備するわね」
「お嬢さん、ここは我々がやりますので行ってください」
使用人に促されて、私は台車を託して小屋に向かう。
古い慣習を好む顧客がまだ多いせいもあり、葡萄の房を潰す足踏みを、処女が担うことはままある。進んだところでは足踏みすらもう圧縮機で済ませるというが、そういった需要があるのはワインが元来、貴重で神聖なものだった名残りから。
ミルド村ではまだ古いやり方を捨ててはいない。
そういう訳で、村で作るワインの二割程度は、若い未婚の女性がわざわざ足踏みで葡萄を潰す仕事を、こなしている。
私は急いで小屋の中へ入り、服を着替えてから、薄手のスカートをまくりあげて念入りに足を洗う。
川から引いた水はとても清浄でいて、冷たい。衛生面を考えれば、足踏みは次第に廃れていくのだと思う反面、実はこれがまた楽しいのも事実。
水槽のような大きな桶に、女だけの五人で入る。房ごと放り込まれた葡萄を、私たちは横並びに腕を組んで、踏みつけながら歩く。
まるで泥んこ遊びのような気分。
誰からともなく鼻唄がもれて、笑い声がこぼれる。
少し踏みつけてかさが経れば、男たちが手桶で葡萄を足してくる。
「何度やっても楽しいわね」
「童心にかえる?」
「案外、重労働だけれどね」
「そういえばロリは『今年を最後にする』って、去年ここで言っていたわよね」
私の言葉に、周囲からも笑い声がわき上がる。
「それはライラ様だって一緒でしょう?」
「あら、そうだったかしら」
「いいのよライラ様は、旦那様がきっと良い婿様を見つけて来てくださるんだから。それよりあんたはもう少しおしとやかにならないと、尻に敷かれたい変なのしか寄って来なくなるよ!」
「うるさいわね、放っておいて」
「そんなこと言ってのんびり構えていると、エレの方に先を越されるかもしれないわよ?」
エレはロリの二つ年下なので、ロリは憤慨する。
娘たちは婚姻すれば、足踏みを卒業することになる。だから年頃の娘たちは、来年の今ごろは結婚できているのかとか、そんなことを予想しあう。
「いいの、ライラ様の結婚式を参考にしてから、お嫁に行くことにしたから」
「え、私?」
ロリを最初にからかったせいで、とんだとばっちりが来てしまった。
「それはあまりお勧めできないわ、だって私、とっても理想が高いのよ?」
ロリがきょとんとした顔で私を見る。
「先日もお断りしたくらいですから。知ってるでしょう、ロリ?」
「……ああ、それは」
王子様では駄目なのだから、ある意味理想が高いと言っても間違いではない。ただ私とともに土と民を潤し、領地を愛してくれる人。それだけなのに、とても難しい気がしている。
だけど村の女性たちは、そんな私の事情よりロリの思わせぶりな言い方に、反応したようだった。
「なになに、もしかしてライラ様にいいお相手でもいたの?」
「どんな男性? ロリは知ってるの?」
「うそ、初耳じゃない?」
先日から頭を悩ませている花嫁候補などの、詳しい事情を知るのは、村長とロリ、それからヨアキム。あとは男爵家に仕える、口の堅い一部の使用人たちだけ。
私が王子の花嫁候補になっているとは、公には知られていない。まだ十人いて、さらに精査されて三人ほどになってから公表されるらしい。
いえ……さすがにそれまでには候補から名前が抜けるだろうから、誰にも知らせる必要は、毛ほどにもありませんけれど。
「ライラ様、なんて怖い顔して葡萄を踏みつけているんですか」
「……あら、気のせいよ」
あの役立たずの使者殿の顔を思い出しながら、私は力いっぱい葡萄を踏みしめる。
これが思いの外はかどる気がして、そのまま腕を組んだ村の女たちを鼓舞する。
「さあ、あともう少しですから、頑張りましょう!」
「はーい」
笑顔で応える彼女たちとともに、私は赤紫に染まった足を懸命に動かす。
潰した葡萄は、このまま皮と枝ごと発酵槽に入れて十日ほど発酵させてから、貯蔵樽に移して熟成させる。約半年ほど樽で寝かせてから、沈殿物を除いて瓶に詰めることになる。
素朴で優しい風味は、このミルド村らしくて私はとても好き。
そろそろかしらと潰した果実を手にとって見ているとき、醸造所の扉が勢いよく開いた。
「もう次の葡萄が届いたの?」
醸造所ではこの日、四回の仕込みが予定されている。毎日こうして何度も破砕して発酵を促さないと、村の全ての葡萄を仕込み終わらないから。
だけどそれにしたって、次は午後の予定のはず。
そう思って逆光のその人物に目をこらすと……
「ライラ、手伝いに来たらここだと聞いて、直接来てみたんだ」
すたすたと入ってくる人物に、周囲の女たちが大慌てで、まくったままのスカートの裾を押さえる。
なんとそれは騎士の服に、長いサーベルを差した男性で、濃い小麦色の髪と、無駄に爽やかな笑顔。そう、忘れもしない彼は、手土産を持たせて一月近く前に見送った相手。
私はすかさず足元にそれこそ腐るほどある、ヘタと皮だけになった葡萄を握りしめる。
そして思い切り、彼へめがかて投げつけたのだった。
「ぶわっ……ライラ?!」
整った顔が、見事に葡萄色に染まり、してやったり。
「どの面下げてやって来られましたのかしら、カール様?!」
べっとりと付いた葡萄の汁と皮。ちぎれた茎を髪にまで飛散している。
そんな顔を拭うこともせず、カールは私に向かって反論した。
「どの面って、ずいぶんな言われようじゃないか」
「だって約束したはずよ、どうして候補から抜いてくださらなかったの、この役立たず!」
「だから、言ったけど駄目だったんだ、決めるのは俺じゃない、宰相に文句言えよ」
「正直に包み隠さず言ってくだされば、ちゃんと伝わったはずよ」
「言ったさ、そのままのライラを!」
「じゃあこれも追加してくださいな、ストークマン男爵令嬢はスカートをまくりあげて葡萄まみれになるような、下品な娘ですって」
今まさに葡萄まみれの自分の姿が、その証明となるだろう。
しかし彼は驚いた表情で、自分の顔からしたたり落ちる潰れた葡萄を、ようやく手で拭った。そして何故か嬉々とした眼差しで私たちを見返すと。
「凄いな、もしかして噂でしか聞いたことがない『処女の足踏みワイン』というアレなのか?」
さらに近寄ってきて槽を覗き込もうとする彼に気づき、足をさらした少女たちから悲鳴があがる。
「カール様! まわれ右!」
すると素直にカールは後ろを向く。
しかしなおもしつこく食い下がるのは、醸造について。
「ワインの製造過程を間近で見るのは初めてなんだ。なあ、酵母は? 何を使っているんだ?」
慌てて追ってきたヨアキムが、呆然と私たちのやり取りを見守るだけだった醸造所内の村人たちを押しのけ、カールにタオルを手渡す。
それで顔を拭きながら、さらに醸造のことを聞いてくる都の貴族子息に、私は自分のことは棚にあげて呆れ果てる。
挙句の果てには。
「なあ、俺もやりたいそれ!」
「……今回はもう終わりです」
至極残念そうに私を振り返るけれど、私たちは村人に手を借りて、発酵槽の中から出た後。
とんだ珍客が訪れて驚きはしたものの、作業はしっかりと終えて、後は次の槽に葡萄を詰める準備に入る。私たち女の出番はしばらくない、湯あみに向かうためにカールのことはヨアキムに任せてその場を離れた。
醸造所から出て、川と反対側には温泉が引いてある。そこは石積みの池と変わらないような簡易風呂ではあるけれど、この時ばかりは衝立を用意して、足踏みをした後の女性たちが使用できるようにしてある。
そこで身綺麗にしてから、私は待たせていた馬車に戻った。
するとやはり、というか。
「ライラ!」
「……カール様、まだいらしたんですか」
「様はいらないって言ったろう?」
「それで、今日はどういったご用件でこの田舎までいらしたんですか、また検分役ですか」
「いいや、休みを取って手伝いに来たんだ」
「……はあ」
私の気の抜けるような返事に、彼は憤慨するでもなく、にこやかに続けた。
「ライラが土産にくれた葡萄、家族がとても喜んでくれてね。みずみずしくて美味しかった、ありがとうと伝えるよう言われたんだ」
「いえ、とても傷みやすい品種なので、無事に味わっていただけて、私もほっとしています」
あれは私にとっても、懐かしい味わいの葡萄だったから、気に入ってもらえるのは心から嬉しい。
だけどまさか、それだけでわざわざ都から来たなんてことは……
「その礼に、休みを取ったから手伝いに来た。男手はいくらあっても足りないって、ライラも言っていたろう?」
「それは確かに言ったかもしれませんが、カール様は」
「カール」
「……カールは、都でとても重要なお仕事をされているのですから、いくらお礼と言われても人手として使うなど」
「じゃあ、お詫びということで」
「……お詫び?」
「ライラの希望通りにいかなかったからな、少しは責任を感じているんだ、これでも」
「責任……やっぱり真面目に伝えてくれなかったのね?」
「いやそうい意味じゃなくて。つい俺が楽しんだことをそのまま伝えたからさ、逆に興味を持たれたのかなと」
「興味って?」
「……ライラのことしかないだろう?」
「誰に、ですか?」
「国王陛下」
私は思わず気が遠くなり、しばし頭を抱える。
「大丈夫か、ライラ?」
大丈夫なわけありません!
どうして宰相様を飛び越して国王陛下になるんですか。
私はこの場で叫びたい気持ちを抑えて、大きくため息をつくしかなかった。