6.さようならとその後の報せ
農家の朝は早い。
畑に出て、その日の収穫を終えて市場に運び入れる。そうしてからようやく朝食を取るのだと、彼に教わった。
『うちの両親は、根っから真面目で働き者なんだ。でもきみは、無理をしないでくれ。僕たちは僕たちのやり方でやっていこう。そんなに頑張らないで、身ひとつで来てくれたら僕はそれだけで嬉しいんだから』
声を思い出しただけで、胸の奥を締め付けられるのに、名前や顔が霞がかって、どうしても思い出せない。
消えそうな彼に手を伸ばす。
────さん、私はずっとあなたといたかった。家族になって、家の仕事を手伝って、新しい人生を迎えるはずだったのに。
あなたを置いていきたくなかった。
「はっ……」
飛び起きて、辺りを見回す。
私の部屋、私のベッド。寝汗をかきしっとり濡れた自らを抱きしめて、荒く乱れる呼吸を整える。
久しぶりに見た、哀しいけれど愛おしい記憶の欠片。
自分が誰なのかもはっきりと覚えていないのに、『彼』のことだけなら思い出せるのは、それだけ大切に想っていたからだと思う。
彼は農家の跡取りなのに、農業大学でつい寄り道しすぎた、真面目で勉強家の人。誠実で、面白くて……彼の家に遊びに行ったら、彼の両親も素敵な人たちで。ずっとそこで生きていきたいと願った。
だから自然と農業にも興味が湧いて、一から勉強もした。
婚約までして、あのまま一緒になるはずだった。けれど……事故であっけなく。
「私は、ライラ。ライラ=ストークスマン男爵令嬢」
しっかりしなくちゃ。私は十八年の時間を、ライラとして生きてきたのだから。
胸の鼓動をなんとか整えて、私はベッドから抜け出した。
日の出前ではあるけれど空が白み始めた中、荘園に向かうために、動きやすい服装に着替える。
いつものことなので、早朝に私が屋敷を抜け出すことに誰も何も言わないどころか、馬番はしっかりと馬車を用意してくれている。
馬番が今日は御者をかねてくれるらしく、ありがたく手綱を任せて荘園に向かった。
秋はとくに収穫するものが多くて、村人たちは朝から忙しい。道中では既に畑で作業をしているところに、何人にも出会って手を振った。
中には小さな子供までいて、私に気づくと大手を振って「おはよう」と声をかけてくれる。両親ともに出るせいで、家においておくよりはと、朝の作業中は畑で遊ばせている家庭も多い。
そんな村の景色を眺めていると、荘園までの道のりはとても短く感じる。
「三十分ほど待っていてくれるかしら」
馬番にそう伝えて、私は畑の中へと入る。
男爵家の荘園では、朝の収穫が必要なものはあまり植えていない。荘園はあくまでも村の収穫を補助するための実験場なのだし、何よりも手伝いに来てくれている人たちの負担にはなりたくなかったから。
その代わりに加工に適したカブや瓜、たとえ失敗しても飼料に流用できる豆やトウモロコシのような穀物などを多く作っている。それから手間はかかるけれど、お金に替えやすいワインの元になる葡萄。
そういったものの隙間に、楽しみとして植えているのが果物。甘い食べ物はみんなが大好きだから、これは欠かせなくなった。
だから今朝は、お客様のためにいつもより早い時間から忙しく働く使用人たちにと、とっておきのフルーツを収穫しよう。
鼻歌まじりで収穫を終えると、急いで屋敷に帰ることにした。
ついでにカールとケビのためのお土産の葡萄も採ってきたから、馬車での移動に耐えられるよう、綿をつめて箱詰めしなくちゃ。色々と先の予定を考えながら、馬車を出してくれた馬番にお礼を言って玄関を入ると、ふと誰かの話声が聞こえてきた。
ああ、村長のヴァーイが来ているのね、何か問題でもあったのかしら。
心配が先立ち、声のする衝立の向こうを覗こうとして、ふと相手の背中が見えて私は足を止めた。
「お願いします、これは村の……いや、すべての領民の願いだと思っていただきたい」
寡黙でいつも堂々としているあのヴァーイが、深々と頭を下げているようだった。
その相手は、昨日からずっと見ていた背の高い麦色の髪の青年。彼が聞いている願いって……まさか。
「ライラお嬢さんは、この土地の宝なんです。どうか俺たちから取り上げないでやってください」
「それは、王子の花嫁候補から外せ、ということか?」
「そうです、あなたから何とか!」
語気が強まるヴァーイの声。
それに対してカールは淡々とした声音で答えた。
「……今ここで約束はできない。まだ候補はたくさんいて、精査する段階にあるだけだから」
「そんな……」
ヴァーイの落胆の様子が分かり、そこまでさせたのが私だと思えば、申し訳なくなってしまう。
「俺に出来ることは、ライラとおまえたちの希望を伝えることくらいなんだ。だけどそれは必ず伝えると約束しよう」
「本当ですか?!」
「ああ……彼女とも昨日、同じように約束させられたしな」
「ありがとうございます」
「礼を言われると困るな、だからといって外されるかどうかは確約はできないのだから……だがしかし、面白い令嬢だな彼女は。破天荒なんだか真面目なんだか」
カールの声音が、笑いを堪えているのが手に取るように分かる。
褒められているようで、呆れられている? いえ、むしろバカにされているような……彼の表情はまったく見えないし、どう受け取ったらいいのか分からない。
「小さい頃から、ライラお嬢さんは不思議な子供でした。土いじりが好きとはいえ素人、一から教えたのは俺たちなはずなのに、理にかなったアイデアがポンポン出て来る。それで何度助けられたことか……」
「へえ、そこのところは是非、詳しく聞いてみたいものだな」
「……いや、止めておきましょう。あなたにまで攫われそうになったら、本当に困るので」
カールはヴァーイの冗談を受けて、今度こそ声に出して笑った。
「教えてもらえないなら、俺の方からまた訪れることにしよう。豊かさをもたらす技術は万人のために使われるべきだ。……いいだろうライラ?」
いつから気づいていたのだろう。カールが衝立をずらして、私のほうを覗いている。
いたずらが成功した子供のような顔からは、私がこっそり聞き耳を立てていたことを、全く怒ってはいないようだった。
だからという訳ではないけれど……私はまた少しだけ、彼に絆されたんだと思う。
「……ダメとは言わないわ、でもそれって検分役として?」
「いいや、友人として。休日にまたここで、色んなものを見て回りたい」
「男手はいつだって足りて無いの。立っているものがいれば、たとえ王子様だって働かせるわよ、ここの人間は。それでもよくって?」
その言葉にカールは目を丸くして驚き、そして破顔した。
「ああ、もちろんだ。力仕事でも何でもしよう」
「なら、来てもいいわ。歓迎します友人として……たまにならね」
「たまにでないと駄目なのか?」
カールが聞き返す。
「そうよ、私は暇じゃないし、あなたもでしょう護衛官様?」
肩をすくめて「そうだった」ととぼけるカール。
その向こうでヴァーイが、私たちの会話を眉を下げながら聞いていた。カールよりずっと逞しく厚い肩と胸をまるめて、縮こまりながら。
彼のそんな姿なんて、初めて見たかもしれない。
「ライラお嬢さん、勝手に出過ぎた真似をした、すまない」
私は首を横に振る。
いち農村の村長が、都から来た使者に意見をすることが、どれほど度胸が必要かぐらい、分かっているつもり。
「ヴァーイ、ありがとう。あなたが私の味方になってくれて、嬉しかったわ」
「俺だけじゃない、村のみんなの総意だよ」
「うん、すごく幸せ」
本心からそう思う。
必要としてもらえる喜びは、何ものにも代えがたい。むしろ煙たがられても仕方ないと、思っていた。前世の知識を試したくて、理由を説明せずに我を通すことも多かったから。
だからすごく嬉しくて、こぼれそうな涙をごまかしながら、はにかんで照れるヴァーイに、思いっきり笑ってみせた。
カールたちが朝のうちにストークマン領を出るつもりだと聞き、屋敷は急に慌ただしくなった。
朝食をすぐにセッティングして、とってもらう。その間に使用人に頼んで、採ってきた葡萄を箱詰めして準備をした。
そうしてあっという間にケビが出発の準備を整え、カールが両親に挨拶を申し出ていた。
「ではストークスマン男爵、突然の訪問を快く受け入れていただき、感謝します」
「こちらこそ、カール殿とお会いできてよかった」
「それは私の方こそ」
お父様と言葉を交わす間にも、カールはお母様や私にまで視線を送り、気を配ることを忘れない。
「もっとゆっくりなさっていって欲しかったわ」
「いえ、充分に厚遇していただきました、男爵夫人。それにライラから、再訪の許しを得ましたので、いずれまた」
「あら、まあ」
お母様がのんきに微笑みながら、私とカールを見比べる。
お父様は目をひんむいて「ライラ?!」と叫んだ。
「ちょっと……お母様へ誤解を生むような言い方をなさらないで、カール」
「間違ってないだろう?」
「友人として訪ねてきたいとおっしゃったのは、あなたですよね」
「そう、友人として。かまわないだろうか、男爵?」
「……そうですね、ぜひライラが候補から外れた時には、いつでも歓迎いたしましょう、ええ友人として」
「男爵とは近々また話をしたいと思っております。都においでの時はぜひ声をかけてください、楽しみにしております」
にこやかな雰囲気のお父さまとカール。
お父様の笑顔が少々ぎこちないのは、彼が王宮の中枢に所属しているから、緊張しているのだと思う。我がお父様らしくて、同情を禁じ得ない。
「準備はできたか?」
「いつでも」
カールはケビに確認し、私たちに改めて礼を述べて馬車に乗った。
そこでようやく準備ができたようで、執事が箱を持ってきてくれた。私は急いで馬車に駆け寄り、御者台の下からカールに差し出す。
「お土産です、あなたの気に入っていた葡萄よ、無事に帰り着いたらぜひご家族とお召し上がりください」
「あの美味いやつか、もらってもいいのか?」
「ええ、綿を詰めましたから、馬車でもなんとか都までは傷つかずに運べると思います。でも二房しかありませんので、ケビと仲よく分け合ってくださらないかしら」
「わかったそうするよ、ありがとうライラ」
カールは嬉しそうに箱を受け取ってくれた。
彼の笑顔を見ていたら、間に合って良かったと胸を撫で下ろす。
「さようなら、カール。楽しかったわ」
「ああ、さようならライラ」
そうしてゆっくり馬車が屋敷を出発した。
突然の来訪で嵐のような一日だったけれど、領地をほとんど出たことがない私にとって、彼は新鮮で驚きそのものだった。そして、楽しかった。
もうめったに会うことはないのでしょうけれど、いつか、彼が望んだようにまた訪ねて来てくれたら嬉しい。そう心から思った。
「あんな素敵なお婿さんが、ライラにも来てくれたらいいわね、エーランド」
「ウルリーカ、うちは男爵だよ? それはちょっと高望みすぎやしないかな」
いつもながら素直に思ったことを口にするお母様に、やさしく諭すお父様。
寄り添う二人は仲睦まじく、私と執事は早々に二人を放ってお屋敷に戻る。
空は晴れて、今日も収穫日和。
これで憂いはこの空と同じように、きれいさっぱり晴れるに違いない。私もみんなと、頑張らなくちゃ。
これが我がストークスマン男爵家の、晴天の霹靂な出来事の顛末。
なんとか貧しさから脱したこの領地で繰り返す、いつも通りの平穏な毎日が戻ってくる。
王子様の花嫁探しは、まだ始まったばかりと聞いた。ほんの二十人の候補に残ったくらいで、どれだけ大騒ぎなのと思われるだろうけれど、うちはそれくらいの弱小貴族なのだから仕方ない。
そもそもまだ公表はされていない、内々の通達のうちにお断りができて良かったと、お父様は相変わらず商売に精を出している。
あれから二週間。
温室で栽培した珍しい薬草を届けに、お父様がまた都に出ている。ついでに新規のお客さんと会うので、うちのワインをお勧めしてくるのだと意気込んでいたけれど、そろそろ帰郷するはず。
「ライラ、お父様がお帰りになったわ」
ほんの三日ですら不在になると恋しくなるというお母様に引っ張られて、お父様をお出迎えに行けば……
すっかり涼しくなって厚くなったコートを脱ぎもせず、お父様が私を手招きする。
その顔はお父様らしくなく、硬い。
「おかえりなさい、お父様。どうかなさったのですか?」
まさか商談にことごとく失敗したとか言い出さないでしょうね。冬したくの今が、最も出費がかさむというのに。
そんな心配をする私に、お父様は一枚の紙を胸ポケットから取り出した。
「ライラ、気を確かにな」
「何を言ってるんですか」
その紙を広げて、私は目を通す。
『ライラ=ストークスマン男爵令嬢を、ジークフリート王子の花嫁候補十人のうちの一人とする。国王アンドレアス=レドルンド』
王国の印、ツバキの花を嘴にくわえた鷲の紋章がしっかりと押されているのを見て、私は屋敷中に響き渡る悲鳴をあげたのだった。
次話から二章です。