雪うさぎと金の狐
エピローグすこし前のお話です。
※エピローグよりも少しだけ前のお話です※
三月の雪は、春を待つ村人たちにとって、これ以上げんなりするものはない。あと少し、あともう何日か我慢すれば春がそこまで来ている。そう言い聞かせてきた忍耐を打ち砕くには、これ以上ないほどに効果的だ。
今日も、三月に入ったというのに、屋敷の窓に雪が吹き付けられている。
「このままでは、足止めをさせてしまいそうですわ。今ごろは都では雪解けが始まっているでしょうに災難でしたね」
ファーがついたガウンを手に、窓辺に佇むジークに近づく。
彼は昨日の夕方に屋敷に到着し、明日の朝にはここを発つつもりでやって来た。今日の昼までは、お父様たちとうさぎ猟ができたほどの快晴だったのに、夕方前には吹雪に変わってしまった。
季節を鑑みて、余裕をもって予定を組んでここに来た。だから一日二日程度ならば、戻りが遅くなったとしても、対応できると彼は言う。だから余計な心配なのだろうけれど……
「それより、この積雪量では、温室が心配だな」
白く染まる窓の外は、ふきつける雪で、視界はほんの数メートルほどになっている。いくら眺めていても、葡萄畑の丘すら見ることはできない。
「今年は雪が多くなるだろうからって、支度は十分にしてありますから大丈夫です。それに、一晩の雪くらいでは温室はびくともしないわ」
「そうならいいが」
昨日、ジークが届けてくれたものは、今後の荘園の行く末を左右するものだ。温室に預けてあるそれを、心配するのは当然だろう。
「特に蛹は、見た目以上に繊細だと、さんざん注意を受けてきたからな」
世継ぎの王子にこんこんと注意を促したのは、昆虫や植物について研究をしている、少々変わり者と噂の学者、ヘリベルト・アイジンガー氏。
彼の著書に感銘を受けたヨアキムからその存在を知り、書物を取り寄せるつもりが、どういういきさつなのかジークとは懇意にしている人物だと分かった。
そのジークを通じヘリベルト氏から様々な教えを乞うことができて、今回特別にある虫を分けてもらうことになったのだ。この寒い季節にどうかと思ったのだけれど、越冬状態での移動の方がいいだろうということで、代理にジークが運んで来てくれたのだ。
この虫は蜂の一種で、村の作物を荒らすことで頭がいたいある害虫に寄生して、成長する。寄生主が死んだあと這い出て成虫となる。そして羽化した蜂は、受粉の手伝いまでしてくれるという。そういう特性を活かして村の農業に取り入れられないかと、まずは実験的に、隔離された室内で飼育してみることにしたのだ。
その蛹と卵が産み付けられている状態のいも虫、それぞれをジークが来訪した際、まっさきに温室に納めたばかり。
ジークがことさら心配してくれるのは、自らも関わったからだとは思うけれど……
「心配してくださるのは嬉しいのですが、始めての試みだもの。思ってもみなかった事が原因で失敗に終わることは、あらかじめ覚悟しています。それはヘリベルト氏もきっと同じかと」
「分かっている。だが天候や虫次第というのは、もどかしいものだな」
「自然が相手ですから。なるようにしか、なりませんわ。手を打てるとするなら、事前の準備と、祈ることくらい」
「ライラは、そういうところは達観してるな」
「そうでしょうか?」
いつも余裕があるのはジークの方なのに。そう首をかしげると、彼は私を見つめ優しく微笑んでいる。
「ジークには、とても感謝しています。私たちだけではこんなに早く、実験飼育にこぎ着けることはなかったでしょう」
「成功すれば、安定して作物を得ることができるのだろう? 国が豊かになれば、できることも増える。そういった下心あってのことだ」
「下心だなんて」
ジークらしい比喩に、私は少しだけ声をあげて笑う。すると彼もまた口角をあげてこう続けた。
「もちろんそれだけじゃないという意味だ。普通の贈り物では、ライラの心を掴めないからな」
「……っ、ジーク」
「思っていた通り、最上の笑顔を見れた」
確かに、私には宝石やドレスよりも嬉しい贈り物だった。
すっかり自分を見透かされていることに、どうにも照れくさくなり、熱くなる頬を隠すように窓の外に目を向ける。
外の雪は止む気配すらなく、風とともにひどくなる一方だ。
「今晩はそうとう積もりそうね。明日には止めばいいけれど……あまりあなたを足止めさせると、シェスティン様に恨まれてしまうかもしれないわね」
城でジークの身代わりをするカールには、堂々と近づくことができない公爵令嬢のシェスティン。表向きには相手がジークなため、あらぬ誤解を受けないよう、色々と制約があるのだとか。
シェスティンの名を出して話題を変えようとしたのだけれど、彼には通用しなかったみたい。
一歩、私との距離を縮めるジーク。
「そう思うのなら、ライラが早く婚約を受け入れて、正式に発表すればいい。俺は婚約者との逢瀬として城を留守にできるし、シェスティンは思う存分カールを追いかけ回せる」
「ま、またそれですか、しつこいですよ」
手にしていたガウンを押し付けると、ジークは微笑みながら受け取り、肩にかける。
年末の社交シーズンと同時に都を騒がせた、ビューストレム伯爵の薬物がからむ外患騒動。その殲滅に全面協力したお祖父様が、報償代わりとして得てくれたのが、私とジークフリート王子との正式な婚約までの時間的猶予。
ジークは私の心が定まるまで待つと約束してくれたけれど、だからといって彼からのこうしたアプローチが止むことはない。
会いに来てくれるのは正直嬉しい。王子でありながら飾らない性質で、生まれながらに背負う役目と真摯に向き合う彼を、とても好ましく思っているのはたしか。
そもそも彼と一緒にいて会話を交わすのは楽しい。それは王子として私の前に立つ今も、一人の男性として来ていたあの日々となにも変わらない。
ジークフリート王子は、魅力的で素敵な人。だからこそ、田舎しか知らない自分には、やはり過ぎた相手だという思いは、度々頭をもたげる。
「そもそも、カールは影武者をしていない場合、あなたの護衛でなのでしょう? なおさら追いかけられないじゃない、騙されないわよ。シェスティン様がいちばん喜ぶのは、ジークが何事もなく都にいる状態だと聞いているもの」
「シェスティンから?」
「ええそうよ、彼女とは文通友達なの」
帰郷後に、シェスティンからの手紙はすでに五通もらっている。どうやら元から筆まめな人だったらしい。内容の何割かはカールへの想いと、なかなか女性として見てもらえない愚痴が綴られていた。
「シェスティンは公爵令嬢として、公での振るまいは申し分ないが反面、親しい者は振り回されることがある。もし困ったことがあれば……」
「ジーク、そうではないわ」
私はジークの言葉を遮る。
彼が幼い頃から知るシェスティンは、確かにそのような性質を持ち合わせているのだろう。知り合ったばかりの私が爵位の遠慮から拒否できないと、心配してくれているのも分かる、でも。
「私はシェスティン様がとても好きなんです。才女である彼女の話はとても楽しいし、困ることなんてひとつもないわ」
私が興味あることに、少しも変な顔をせずに耳を傾けてくれるご令嬢なんて、これまでほとんどいなかった。それどころか、先日なんて新しい植物についての書物を手に入れて、わざわざ領地まで送ってくれたのだ。それだけではない、一途にカールを想い暴走しながらも、嫌われたらどうしようと悩む、可愛らしい女性でもある。好きにならずになんて、いられない。
懸命にそう伝えれば、ジークも喜んでくれると思ったのに、なぜか困ったような表情で見下ろされている。
「……少し、妬けるな」
「妬ける? 誰にですか?」
「シェスティンに」
「まぁ、彼女はお友だちで、しかも女性でしてよ。それにあなたにとっても幼馴染みみたいなものではなかったかしら?」
ジークが友人関係にまで口を出す人だとは思わず、そんな面もあったのかとびっくりしていると。
彼は逡巡するようにしてから、こう告げた。
「そんなに表情を輝かせて、ライラから好きだと告げられたことが、俺は一度もないからな」
──私が、ジークに告げる?
「好き」って?
そう言いそうになったところで、ジークが言いたいことを唐突に理解した。
そして一気に顔に血が集まるのを自覚する。
「そんな顔も可愛いな、ライラ」
「ジ、ジーク!」
真っ赤になって口をぱくぱくさせるだけの私の手を取って、ジークは暖炉の前に移動する。
「手が冷たい、風邪をひいたら大変だ」
一度は羽織ったガウンを脱ぎ、私に着せようとするジーク。
「雪の足止めも恩恵と思えてきたな、こうしてライラの側にいられるのだから」
ジークはそう言うと一度は広げたガウンを引き戻し、自分の片肩にかけると、その端を私と分けあうようかけられた。ふわりとファーの内側にこもった彼の香りとぬくもりに、くらりと身を寄せてしまいそうになる。
「あ、あの、近いですジーク」
不躾は承知で彼の胸板を手で押し戻そうとするのに、びくともしない。むしろその手を再び取られてしまった。
「放せば逃げ出すだろう? 今日捕らえた雪うさぎのように。ライラは臆病だから」
意地悪くそう言って私をのぞきこむジークの目は、獲物を弄ぶ狐のようだと思った。私の前で染めることがなくなった髪が、暖炉の揺らぐ明かりを得て、黄金色だ。
確かにジークの言うとおり私は、都で社交界を渡り歩く令嬢たちと違い、男性に甘い言葉を告げられる状況には、まったく慣れていない。ましてや相手が、自分より美しい男性とあってはなおさらだ。
「お、臆病だって分かってらっしゃるなら、追い詰めないでください」
「もちろん、追い詰めたい訳じゃない。ほんの少し、欲しいものができてしまったんだ」
彼が欲しいもの。それが言葉なのだとすぐに分かったけれど、私はとっさに口にすることができなかった。
好ましく思う。そう告げることは抵抗ないし、嘘ではない。こうして領地に引きこもる私を訪ねてくれるのは、彼自身が私を望み想ってくれているのだととわかり、すごく嬉しい。
なのに『彼』への想いを整理できないまま、ジーク乞われるまま心を告げてしまったら、私はどちらにも中途半端で、誠実さに欠けるのではないだろうか。
そうしてただ立ち尽くしていた私に、助け船を出してくれるのも彼で。
「ライラ、困らせたかったわけじゃない」
困った顔をしてるのはジークで、酷いのは私だ。
目の前の彼を好ましく思えば思うほど私は、どうやって過去に区切りをつければいいのか、分からなくなっている。
長く想い続けてきた相手は、この世界のどこにもいない。だからこそ胸に秘めたまま、両親が良いと思う相手を夫として迎え入れればいいと、それで大丈夫だと考えていた。迎えた相手を受け入れて、互いに尊敬しあえば家族としてやっていけるんじゃないかって。漠然と思っていた。
でもそれが、どんなに酷いことか、ジークと出会ってようやく自覚した。
ジークは容易く『彼』を飛び越えて、私の心に入り込んでくる。『彼』は私の中では一番の特別で、誰にも越えさせてはいけない。それが私がすべき『彼』への懺悔だと思って生きてきたのに。
それを覆したいと思う日がくるなんて、予想もしていなかった。
「ライラ、泣かないでくれ」
「泣いてなんていません」
ジークは優しく私の頬を両手でつつみ、一筋だけ伝った涙を、指でそっとぬぐってくれた。
「ジーク」
私は彼にすがりつく。彼の胸に手を添えて、肩口に額を寄せた。
今はまだはっきりと言葉で告げられないけれど、あなたが嫌いなのではない。ううん、好き。せめてそれが伝わればいいと願って。
そんな令嬢らしからぬ私の行動に、ジークは驚いたのだろう。ほんの少し身構えたのが伝わる。しかしそれも一瞬で、ため息かそれとも笑ったのか、かすかに彼の息が耳元にかかった。
そして背に腕がまわり、ふわりと抱き締められた。
「今は、これで満足しておく。狩りをゆっくり楽しむのも悪くない」
ドキドキと早まる自分の鼓動を聞きながら、促されるように見上げると、ジークは真剣な眼差しを私に向けている。
私は彼の瞳に、ぞくりと体の芯が震える。
あの祭りの日の夜、仮面の狐を思い出しながら、近づく彼の唇を受け入れる。けれども、触れそうになったその時。
「お取り込み中、失礼します」
壁をノックする音とともに絶妙なタイミングで私たちを止めたのは、執事の声だった。
慌ててジークから顔を離し振り向くと、いつもはあまり見せない口元だけを弧に描いたその笑顔が怖い。
「晩餐の用意が整いましたのを、お知らせに参りました」
「そ、そう、ありがとう。すぐ行くわ」
冷静を保ちながらそう答える私の後ろで、「やはり来たか」というジークの小さな呟きが聞こえた。
それと同時に、私たちのいる場所が私室でもなんでもないことを思い出す。廊下に通じる扉は常に開かれており、そのため暖炉があっても少々寒く、ガウンを持参したのだった。使用人も出入りできて、もちろん彼についてきたケビたち護衛も、すぐ近くに控えているはずだ。恐らく、主人の行動に逐一耳を傾けていたことだろう。
置かれた状況を理解すればするほど、真っ赤になる私は、挙動不審になりながらもジークと距離を取り、咳払いをして背筋を伸ばす。
「ま、参りましょうか。ジークフリート様が狩ってくださったうさぎを出すのだと、料理長がはりきっておりました、楽しみですわね」
「ああ、そうだな。」
ジークは明らかに虚勢を張っている私を見て、笑いをこらえながらエスコートの腕を差し出す。
執事の笑みは次第に歪みが消え、エスコートされて廊下に出ると、侍女が頬を染めて目を潤ませている。いたたまれなくなって目を泳がせたら、控えていた護衛のケビと目が合う。けれど気を使われたのか、彼には目を反らされてしまう。
ああ、やってしまった。
これじゃ恋に浮かれていると公言してるも同然だわ。いえ、そうでないと言い切れないのだけれども。
そうなるのを分かっていて、ぐいぐい攻めてきたのはジーク。
忘れてはならない、この人は抜け目のない人だった。
私の心なんて落ちたも同然なのに、なおチャンスを逃さず周囲を埋めてくるなんて。私の心臓はいつまでもつだろう。
きっと近いうちに、私は音をあげるに違いない。追い詰められて、すでに逃げる気力もないのだから。
その後、美味しく調理された雪うさぎに、つい感情移入しつついただくはめになったことは、誰にも言えない秘密。




