31.花嫁候補、領地へ帰る
本日はエピローグとの2話同時更新です。
エステルの頭を抱き抱えて倒れた拍子に、思い切りぶつけた肘と膝が、じんじん痺れている。
「……うぅ」
抱えていたエステルを見ると、倒れたときの衝撃のせいか呻いている。私はすぐに、彼女の手に残った壊れたカップを取り上げて、呼びかける。
「エステル様、大丈夫ですか?」
少し呆然としているようだけれど、意識はある。呼びかけを続けながら、頭を支えていた腕をそっと外し、エステルを寝かせた。
それにしたって……と眉をひそめる。
なんて細く頼りない体なのだろう。背は決して低くはないのに、驚くほど薄っぺらい体。ドレスでずいぶんと誤魔化しているが、きっとコルセットの下はもっと酷いものなのだろう。
「大丈夫か、ライラ?」
駆けつけてくれたジークが私の腕を引き、エステルから離そうとする。けれどそれに抵抗して、医師を呼ぶようにお願いする。
「エステル様の様子は普通ではありません、放っておいては危険です」
真っ白な顔色、不自然な興奮状態と、手を握れば分かる体の芯からの震え。それらの症状が、禁断症状に思えて不安が募る。違っていてほしい。祈るような気持ちだった。
「はなして……」
「エステル様? しっかりしてください、痛いところは?」
虚ろな目を私に向けながら、拒絶の言葉を紡ぐ。けれどその声はとても小さくて、騒然と人が行き交う中、聞き取るのがやっとだった。
私が彼女の口許に耳を近づけると、嫌々と首を横に振る。
「侍女が、薬を……」
「その薬を飲んだら、駄目です」
「飲めば、落ち着くわ。私から、話を……聞きたいの、でしょう?」
震える唇をけんめいに動かしながら、エステルが視線を向けたのは、私の後ろ。片膝をついて私たちを見守っているジークだった。
「は、早く、薬を」
「駄目! もう二度とあれを飲んだら駄目です」
私の強い声に一度私を見たと思ったら、エステル様は周囲に落ちていた花に手を伸ばした。
私が彼女を押し倒したのに巻き込まれ、飛び散った花々。そのなかの『アリョーシャ』を躊躇なく拾おうとしたエステル。
「駄目!」
私はエステルを抑え、彼女よりも早くその花を拾おうとした。ヨアキムの調べた本には、薬の成分は実から採れる。
理性を無くした人の力は、時にとんでもなく強いのだと思い知る。私の手を払い除け、花を一輪掴み取ると、エステルはそれをなんと口にしようとした。
「だめ、それは毒なのよ」
「エステル」
ジークも手を伸ばしたけれど、間に合わない。
しかしその時、エステルからアリョーシャを奪い取った者がいた。
「……グレタ?」
「よくやった、グレタ」
彼女の行動に驚くエステルとは対照的に、ジークは冷静に護衛官たちに指示してサロンにある全てのアリョーシャを撤去させる。
「私を裏切ったのね、グレタ。結局あなたも……」
苦虫を噛み潰すようにそう呟くエステル。グレタは「ちがう」と小さく首を振るが、それ以上は言えない。それが彼女たちの関係なのだろうか。
でも私は関係なく、確かめないといけないことがある。
「彼女が裏切ったというのなら、それはあなたもでしょう、エステル様?」
「わたし、が?」
「どうして、アリョーシャを王宮に持ち込んだんですか? 発覚して困るのはあなたですよね、こんな……酷い状態にまでなってるのに」
エステル=ビューストレム伯爵令嬢は、社交界に華々しくデビューした時から、人々の羨望の対象だった。清楚でありながら年上の紳士たちの話題にも加わり、同年代の女性たちとは別格で大人びていて。すぐに王子のお相手に、王妃として望まれる声が少なくなかったから。
それがマダム・ロッソが私に与えた「秘密の手帳」に書かれた、エステル。
十六才の幼い少女が背伸びをし、胸を張って社交界を渡ってきたその四年が全て偽りだとは思わない。けれど……
力なく落ちた彼女の腕はあまりにも細くて、私はどうにもやりきれない気持ちでいっぱいになる。
いつから。いつからなのかと。
「これがアリョーシャだと……あなたは知っていたのね」
「ええ、つい昨日よ。図書館の古い書物のなかで。色までは記載されていなかったので、あんなに美しい花とは思いませんでしたけれど」
紅花にも似た花は、色鮮やかで人を魅了するものだった。
ジークが私の反対側に回り、エステルを覗きこむ。
「教えてくれ、エステル。アリョーシャをどこで手に入れた? ビューストレム家で栽培をしているのか?」
「ジークフリート様……領地の、中。私の母の……お墓のある教会の庭」
「教会の庭だと?」
「そう……私が植えました。お父様に、復讐するために」
「復讐?」
聞き返す私に、エステルは確かに頷いた。
「お父様は、薬になったものと、実の状態でしか輸入していなかった。あの人は用心深いから……だからわざと種を採取して、密かに芽吹かせたの。そうすれば、破滅するのは分かっていたから。きっと亡くなったお母様も、望んでいる」
「……エステル様」
その言葉を受けてジークは、護衛官にビューストレムに向かった部隊へ、新たに向かう場所を伝えるよう指示を出す。
ちょうどそのとき、医師たちが担架を用意してかけつけてきた。
「すぐには楽にならないかもしれないけれど、必ず良くなるから」
エステルにそう言って励ませば、彼女は涙を浮かべて首を横に振る。
「もういい、もう駄目よ。お母様も同じように、衰弱して死んだわ。私ももう」
「諦めないで。あなたは助からないといけない」
「私たちは、死罪になるほどの罪を犯しているの、もうここで終わりにさせて」
担架にエステルを乗せようと手を伸ばした医師たちを、ジークが制止する。
「まだおまえには役目がある、死で償う前に……それに、おまえの言い分くらい、聞かせてやれ。グレタはずっと以前から心配していたのだから」
「……グレタが?」
側でアリョーシャを握りしめ、ボロボロと涙を流すグレタ。
「あなたを、どうにか遠ざけたかったのだけれど……結局上手くいかなかったわ」
エステルの言葉に、グレタは何度も何度もかぶりを振る。
いよいよ本格的に禁断症状が始まったのか、苦しげに眉を寄せるエステル。ジークは彼女の背と膝に腕を入れ、抱き上げた。
「俺が運んでいく。ライラ、すまないが後のことはカロリーナたちの指示にしたがってくれ」
「……はい、ビューストレム領へ向かうのですか?」
「ああ、ビューストレム伯爵とスヴォルベリ子爵の両者は、都の治安兵を率いたメシュヴィッツ伯爵が、既に確保しているところだろう。両領地でも協力者が証拠を持って逃亡しないよう、検問をもうけてある。合流して一気に片付ける」
その言葉に、ジークの腕の中で小さくなっていたエステルと、心配そうに見守っていたグレタ、二人の顔が曇る。
恐らく、近年にないほどの緊張感を、国内貴族のあらゆるところに及ぼすだろう。
私は改めてまっすぐジークの前に立ち、スカートを持って礼をする。
「ご武運をお祈り申し上げます」
「ああ、行ってくる」
そうしてジークは数人の警護官、それから医師たちに付き添われてサロンを後にした。
大勢の人間が動く。ジークの、王族の命令で。
良いことだけではない、長く仕えてきた臣下を罰するため、その力を行使しなくてはならない。その権力にともなう責任をもって。
そんなジークに、今私ができることは、ただ信じることだけ。
信じて無事を祈ること。
こうして、私の花嫁候補としての役目は終わった。
王妃様主催のお茶会は、混乱のもとに終わり、そしてしばらく令嬢たちと待機した後に、屋敷に帰されることとなった。
迎えに来てくれたお父様は、私よりも事態の詳細をよく知らされていたようだった。さすが腰の低さで社会の荒波をのりきっているだけはあると、違う意味で感心してしまったくらい。
「しかし、無茶をする。ライラが大立ち回りをしたって聞いたときは、心臓が止まるかと思ったよ」
「大立ち回りだなんて、そこまでではありませんわ」
そう否定したものの、ドレスを着た淑女のすることではないよと、注意される。けれど、誰も傷つかなかったことについては、お父様は「ライラを誇りに思うよ」と言ってくれたので、良しとする。
その日から、しばらくジークフリート王子殿下は、都で姿を見せなくなった。
社交界の最も重要なパーティーである、年越しを祝う国王主催の祝賀会でも、ジークは留守のまま。都に来ている以上、出席を強いられてしまった私は、お父様のエスコートで再び王宮へ。
珍しい令嬢がやって来たと大勢の貴族たちに囲まれ、興味津々の彼らと、ひっきりなしの挨拶するはめになった。
もちろん、彼らの最も興味を引く話題は、私なんかよりもビューストレム伯爵とスヴォルベリ子爵の逮捕。
ほとんどの貴族たちに既に知られており、招待された国中の貴族たちの前で、国王陛下が挨拶の場で触れることとなった。
「両者ともに、領地を一時没収することとなり、両家は貴族籍を抹消とする」
陛下の言葉には、怒りが含まれているように感じられた。
それもそのはず、ビューストレム伯爵はその昔、このグレンヘルム国を相手に領土をかけて戦った国に、通じていたことが分かったのだから。
伯爵は鉱山から産出した鉄などを横流しし、利益を得ていた。それだけでなく、支払いに困った相手国側から「ジエニス」という薬を受け取っていたのだ。伯爵はその危険性を知ったうえで、懇意にしていた子爵に市中で売らせ、その売り上げを得ていたというのだから、ため息しかでない。
ただ……娘であるエステルに与えていたことに関しては、公の場で語られることはなかった。
彼女は今、修道院の中、監禁されながら治療を受けているという。
やはり、薬物中毒を起こしていて、あと少しで間に合わなくなるところだったらしい。というのは、あの波乱の茶会ののち、我が家に遊びにきたシェスティン=ハグベリ公爵令嬢から教えてもらった。
彼女は聞いていた通り、とても利発で話していて楽しい女性だった。私を利用しようとするジークやカールに憤慨し、警告のために手紙を送ることを思い付いたらしい。ちゃんと二人から話を聞いてみれば、ジークが私の警護を考えていることが分かり、回収しようとはしたらしいが間に合わず。私は受け取ってしまった。
そして指に針を差してしまったことを聞き、謝りに来てくれたのだ。なんと可愛らしい少女かと、快く許したものの……彼女の目的は別にあり。
「ライラの想い人は、あくまでもジークフリート兄様に間違いないわよね? カールじゃなくって!」
何度もそう聞かれ、念押しをされてしまった。
どうやらシェスティンの目当ては、カール=アレニウス。今も挨拶を続ける、国王陛下の横で、ジークの身代わりをしている彼。
必死に尋ねてくるシェスティンの赤い顔が可愛くて、つい思い出して笑みがこぼれてしまう。怪訝な顔を向けられてしまう前にと、私は広間を抜け出して外に出る。
月がとても美しい、夜。
刺すように冷たい空気のなか、輝く月の白も、どこか厳しく感じる。
「ライラ?」
呼ばれて白いトピアリーが並ぶ庭を見れば、真っ白い雪に足跡をつけながらこちらに向かってくる人が。
「ジーク?」
「やはり、ライラだったか。こんな冷える外で何をしていた?」
「少し気分転換を。それよりジーク、あなたこそ」
「ああ、今ようやく戻って来れたから、急いで近道をきたんだ」
「近道?」
彼が来た方向を見れば、遠くにガラス屋根が月明かりを反射しているのが見えた。
「カールと入れ替わるのね、なら急いだ方がいいわ、陛下の話はもうすぐ終わってしまう」
私が来た廊下を振り向き、指差そうとしたとき。
ジークに手を取られ、引き寄せられてしまった。
「いい。少しの間、カールに任せておこう」
「え、あの、そんなわけには……」
「少しの間だけ。今はまだ、側にいてくれれば、それでいい」
抱き寄せられ、私は息をのむ。
奇しくも私に求婚する二人が、時と場所を越え、同じ台詞を告げたことに驚き、見上げる。
走ってきたせいか、温かいままの彼の手が私の頬にふれ、引き上げられる。
もう一度、吐く白い息がしばらく止まっていたのは、夜空の月だけが見ていた。
年明けのパーティーから、そろそろ一ヶ月が経とうとしている今日。私は他の貴族たちよりもかなり早めに、領地へと帰還することになった。
雪はまだまだ深く、馬車での旅程は心配のことも多い。けれどここ数日は晴れた日が続いていたこともあり、出発することに。
「まだ二度しか茶会を開けていないのに、どうしてこんなに早く帰るのか」
見送りに来てくれていたシェスティンが頬を膨らませている。
「王妃様にも許可をいただいてますよ。それに、領地ではこの時期でも出来ることがあるんです、例えば……魚釣りとか」
彼女だけではなく、あの日集まった令嬢たちとは今も良く会っている。お陰で社交界の暗黙のルールに翻弄されることなく、何とか日々を過ごすことができた。
「ジーク兄様も、反対するかと思ったのに。使えないんだから」
「私の事情は、分かってくれているのよ」
私が帰郷することは、ジークを含め皆にしっかりと伝えてある。今日の見送りは、来られないけれど、別れは済ませてある。
「それより、本当に引き伸ばすとは思わなかったわ。両思いなのに!」
その言葉に、私はつい笑い声を上げていた。
正式に私を婚約者にしたかったジークに、待ったをかけてくれたのは、お祖父様。いつか言ってくれた、お祖父様にしていただける二つの案のうち、一つを選んだ。
『ライラの心が追い付くまで、出来る限り時間を確保する』お祖父様は約束を守ってくださり、私はいまだ「花嫁候補」のまま。
ただし、その候補は私一人なのだけれど。
ジークを説得するのは大変だったけれど、私に一年の猶予をくれた。
その間に、私は私の大事なものを見極めたいと思っている。人に託すものと、譲れないもの。選ぶことは難しいけれど、ひとつひとつ、決めていこう。
「でも心配じゃないの? ジーク兄様を放っておいて。私なら駄目、カール兄様を野に放つだなんて、誰かに盗られたらどうするのよ」
「そうね、少し心配かも」
「ほら、そうでしょう?」
「あまり放っておいたら、熊の森が危ないわ」
「……はあ?」
訳がわからず唖然とするシェスティン。
あまり待たせたら、ジークはきっと道を造ってしまう。そうならないうちに、私はきっと都に帰ってくるだろう。
彼のいる、場所に。
新たに得た友に別れを告げ、私はストークスマン男爵領へと出発した。いくぶん逞しくなったヨアキムとともに。




