3.意外と流されやすい
ライラが案内した温室は、男爵のかまえる館から馬車でしばらく行った先の、岩の断崖がむき出しになった谷にあった。
男爵領は面積も広くはないが、環境もまたお世辞にも恵まれているとは言えない土地にあって、先祖たちを悩ませてきた。
だが当時三歳とはいえ知識だけはあった自分に言わせれば、山はあるし木々も生えていて、厄介ながら川もある。それだけあれば何とかなる、砂漠よりは。
そんなことを言ってお父様を驚かせたのが、まず最初の一歩だった。
まあ、やってみたら現実は決して甘くはなかったのだけれど、それとて私の手を止めさせる理由にはならなかった。
「これは……想像以上だったな」
都から曳いてこられた馬が興奮して御者がなだめるなか、地面に足を下ろしたカール様が呟く。
そしてはるか上を仰ぎ見ながら、笑い出した。
「……カール様?」
なにも笑いを誘うようなものはないのだけれど、それとも不興を買ったとか?
いやでも、温室が目の前にあるだけなのにと思い直す。
そりゃまあ、少し変わってはいるのでしょうけれど。
「いや、驚いた。ここは遺跡を利用したのか」
「ええ……長く使われておりませんでしたし、取り壊されるくらいならと。そばの沢からは地熱で温められた温水が得られますし、とても経済的。放っておく手はありませんもの」
「しかし大規模すぎるだろう」
そこは崖の下に作られた、いわゆる石窟遺跡だった。
もともと男爵領には不思議な遺跡が数多くあり、ここもそのひとつ。なんでもこの国ができる五百年前に、滅んだ王朝のものだとか。
いわゆる石の岸壁に横穴を掘り、儀式を行うための神殿とした名残。中は迷路のように複雑で、小さな部屋がたくさんある。その遺跡の張り出した部分を増築する形で、ガラス張りの温室を作ったというわけなのだけれど……神殿というだけあり、建物としての高さはそこそこであるし、彫刻も荘厳な雰囲気を漂わせている。もちろん遺跡なのだから所々古くひび割れ、崩れかけている部分があり、そのつど補修してはあるけれど、見た目だけはカール様が言う通り、確かに立派かもしれない。
「中はお恥ずかしいことに質素なものです。さあ、持ってきてくださった木はヨアキムが人手を呼んで運ばせます、どうぞカール様はお入りになってください」
「ああ、そうさせてもらう」
目配せでヨアキムに手配を頼むと、ちょうど通用口から出てきたロリに声をかける。
「あ、ロリ」
「ライラ様、遅いですよ、約束の時間を過ぎてます」
「ごめんなさい、これには訳があって」
「訳? ……というか、どちら様ですか」
ロリがようやく気づいたカール様に、いつも通りに問いかける。
「あのね、ロリ。彼は都から来た、ジークフリート王子の側近の方よ、失礼のないようにね」
「へ? あ、はあ?!」
素っ頓狂な声を上げるロリは、これでも花も恥じらう十八歳。絶賛お婿さん募集中。
「ごめんなさい、カール様。ここはあまり身分の高い方がいらしたことがなくて。彼女はここミルド村の村長の長女で、ロリ=ベルクシュトレーム。温室で私の手伝いをしてくれています」
「あ、あの、失礼しました」
慌てて頭を下げるロリに、カール様はさほどお怒りではない様子。ニコリと上質なスマイルを見せて、気にしていないよと声をかけた。
その洗練された紳士的な笑みに、ロリの顔は真っ赤に染まり、あたふたと私の陰にかくれてしまう。
日ごろ村の男性陣を叱りとばす村長の娘も、都会の紳士にはイチコロだったようだ。
「ねえロリ、カール様が私の欲しがっていたゴムの木を持ってきてくださったの。いちばん南の区画の日当たりのいい場所に植えようと思うから、運び入れるヨアキムにそう伝えてきてくれるかしら?」
「はい、承知しました」
「必要だったら人手を呼んでもらってね、けっこう大きさがあったから」
「分かりました、相談してみます」
ロリはそう言って、逃げるように走り去る。
だがスカートの裾はしっかり押さえつつ……。そんなロリ見たことなかったから、驚きとともに笑いをこらえられない。
彼女だって年頃だし、さすがに見目麗しい若い男性を前にすれば、当然なたしなみではある。だけどしっかり者のロリに気がある男性は意外と多い。あんな彼女の初々しい反応が知られたら、みんな気が気でなくなるわね。
私はそうさせたカール様を振り返り、罪な御方ねと肩をすくめる。
「さあ、お待たせして申し訳ありませんでした。通用口ですがここしか入口はありませんので、どうぞお入りになってください」
大きな正面扉はあるけれど、教会かお城でしか見たことがないような重厚なもの。いちいち開閉するのが面倒で、みな通用口から出入りする。
ところで、どこまで案内したら気が済んでくれるかしら……ええと、令嬢らしからぬ姿を見せればいいのよね?
そんな心配をよそに、カール様はキョロキョロと周囲を眺めながら上機嫌で後ろをついてくる。
「ライラ嬢、今日はやることがあったのだろう? 俺のことは気にしないで、その仕事をしてくれてかまわない」
「気にしないでって……言われましても」
「無理か?」
「無理、ではありませんが……これから種まきをしますので、あまり側にいらしたら汚れますよ?」
「そうか……それなら俺も手伝おう」
「はあ?」
……あ、いえ。ゴホン。
「ほほほ、ご冗談を」
「いいや、本気だ」
厚手の騎士服の上着を脱ぎ、シャツ姿になり腕まくりをしてにんまりと微笑むカール様を、どう納得させればいいか分からず。それ以上の反論は、早々に諦めることにした。
廃墟遺跡の石畳の廊下を抜けて、南側に面した温室ゾーンに出る。ここばかりはお父様にお願いして増築したのだけれど、温室自体はそれほど大きくはない。日当たりはいいので温室である程度育てた植物を植え替えられるよう、外には生垣で風を防いだ畑が続く。
ではここの小さな温室に植えられているのがどんな植物かといえば、主に貴重なものばかり。住民たちのための薬草園と、貴重で高く売るために栽培しているものと様々だ。
今日もガラスを通して、穏やかな日の光が整然と並ぶ畝に降り注ぐ。
「思ったよりも暑くはないんだな」
「ええ、ここはこの国でも栽培できるものばかりですから、温度調節はしないと焼けてしまいます。でもあの植木の向こう側は、ゴムの木を移植するのに向いた、比較的蒸し暑い環境を保っていますよ」
そんな説明をしながら、やってきたのは薬草園の一画。
ロリが用意していてくれたみたいで、畝のそばに道具と種の入った袋が十ほど置いてあった。
「それは何の種なんだ?」
「品種改良した麦です、もう少し出来高を上げるための改良をしたくて」
「既に改良したものを、更に?」
「はい、収穫時期を早めにずらすことが目的ではあったんですけれど、うちの領はまだまだ備蓄が完全ではありません。味は犠牲にしてでも、収穫が見込めるものを。それから、すべてが同じものだと病気が蔓延したときに大変ですから、主食となる麦は、なるべく多くの種類が必要ですものね……」
土は昨日までに、麦に適した肥料を混ぜ込み、目印となる程度の畝を作ってある。
畝は短く区切られ、ちょうど種の袋と同じ数だけ用意されている。私は道具箱に入っていたプレートを取り出し、番号を書いてからそれぞれ畝に差し込む。
その番号通り順番に、畝のくぼみに種をまく。
それから鍬を持って土をかぶせようとしたのだけれど……
「俺がやろう、危ない」
鍬を取り上げられていた。
「あの、危ないと言われましても、それ私の鍬でしてよ?」
「いいから。土をかければいいのか?」
そう言うと鍬で土を大きく持ち上げ、被せようとしているのか掘り起こそうとしているのか、分からない状況に。騎士だけあって重い剣を持ち慣れているせいか、鍬を片手で扱っている。
「あ、ちょっ……乱暴にしないでください!」
私は彼から強引に鍬を取り戻す。そして両手で鍬を持ち、その腹の部分で土を寄せてそっと被せた。もちろん穴のように空いた土も戻し、形を整える。
「素人は黙っててくださいませ。この種もみは貴重なんですから。いくら麦が丈夫で手間のかからない作物とはいえ、この試験栽培に私たちの生活がかかっておりますのよ?」
「……すまない、そんなに繊細なものとは知らず」
「いえ……こちらこそつい失礼なことを」
不躾と言われても仕方がなかったのに、彼は全く気にしていないどころか、目を輝かせていた。
「要領は分かったから、今度こそやらせてくれ。なんだか楽しそうだ」
子供のようにそう言うものだから、私もつい笑い出してしまった。
彼に鍬をを任せ、私は次の種を取り出して違う区画にまく。そして土をかぶせてもらえば、あっという間に十袋の種はまき終わってしまった。
他には? と笑顔で問われてしまえば、もちろんそれだけで終わるはずはないわと答える。
ちょうど薬草畑を挟んだ反対側に、葉物野菜とカブの芽が出ているところ。間引きをしなくてはと思っていたのだけれど、説明すると彼はぜひやらせてくれと言うではないか。
「ライラ、これはどちらを残すべきか、迷うな。どう思う?」
真剣な眼差しで騎士様が見つめる先は、五センチもない可愛らしい双葉の芽。
私はおかしくなって、クスクス笑い声もらしてしまう。
「勘、でかまいませんよ、カール様」
「……カールでいい、しょせん騎士の身分だ、堅苦しくしないでくれ」
先ほどから、そんな会話を繰り返している。
「分かりました、ではカール? その左側の芽は少し先が黄色くなっていますのでそちらを間引いてください」
「なるほど、ライラは目ざといな」
「慣れです」
私は彼の太い指につままれた芽を、籐で編んだ篭に受け取る。
野菜の新芽は間引いてあげなくてはならないけれど、これもまた無駄にはならない。特にカブの新芽はとても美味しく、スープに炒めものにと重宝している。
そういえば、昔も同じようにしてよく食べたっけ。特に大根の葉は、白いご飯によく合う。
ああ、早くお米も栽培できるようにしなくちゃ。
そんな妄想をしながらカールとともに間引きを終わらせた頃、ロリが戻ってきたようだ。
だけど地面に膝をついて新芽を睨むカールと、その横でただ眺めているだけの私を見るなり、固まって言葉を失っている様子。
「……ロリ、人手の手配は済みましたか?」
私が苦笑いでそう聞いて、ようやくハッとしたロリが正気に戻る。
「はい、父が午後には人手と道具を用意して来てくれることになりました」
「ありがとう、せっかくだから早く土に戻してあげたいものね」
「……ライラ様、ちょっと」
ロリが私の袖を引っ張って、わざわざカールから少し離れてから、声をひそめて聞いてきた。
「なに、してたんですかライラ様! あの人、お偉いさんなんじゃなかったんですか?」
「うん、そうなんだけどねぇ」
それは私のほうが聞きたいくらい。
「仲良くなってどうするんですか、むしろ嫌われるくらいじゃないと」
「ええまあ……でもほら、仲良くなってこちらの希望を聞いてもらうってのも」
「甘いですよ、ライラ様。たかが三十分程度の間に、すっかり絆されてるんじゃないですか。ライラ様ってばしっかりしているようで、意外と流されやすいんですから」
「そ、そうかしら……」
「そうですよ、栽培のことには頑として譲らない頑固さがあるのに、私たちの要望には甘くて情に流されやすいんだから。でも今回だけは、絶対に負けちゃダメです。ライラ様にはずっとここにいてもらわなくちゃ困るんですから」
うん、ロリ。ここは流されちゃいけないところだって、私にも分かっているの。
でも気づいたら彼のペースに嵌められてしまっているんですもの。
……こんなはずじゃ、なかったのよ?