20.波乱は突然やってくる
ストークスマン男爵家に新書が届いたのと同時期に、貴族院を通じてジークフリート王子の花嫁候補の名が公表されたらしい。
花嫁候補が五人にまで絞られるに至ったこの期に及んでも、のんきに構えていたお父様だったけれど、相次いで届く夜会やお茶会への招待状を前にして、ようやく頭を抱える。そもそも私の名が公表されていることを知ったのは、隣の領主であるアンドレ―子爵が手土産を持って訪れたから。
まさかそれが波乱の日々の始まりとなろうとは、この時は夢にも思ってはいなかったのだけれど……。
現アンドレ―子爵は、宰相補佐となったヘンリク=ノルダール侯爵の実のお兄さん。昔からストークマン男爵家とは付き合いがあり、とても気さくな方。お父様とはよく領地ではなく都で会っているそうで、都に滞在していた間に貴族院からの通達を聞きつけ、お祝いに訪れたという。
お祝いってなに。まだ決定したわけでもなく、候補に残っただけですから。
「いやあ、よく知るライラ嬢が名誉ある花嫁候補に上がるなんて、鼻が高い」
他の花嫁候補の名を知らされ、私は眩暈を覚える。
公爵家に始まり、公爵、伯爵と続き、私のような男爵家からは他に名は上がっていない。針の筵とはこのこと。
「名前が上がっただけでそんな、きっと人数合わせにしかたなくですわよ」
私が苦笑いを浮かべながらそう言えば、アンドレ―子爵は大げさに驚いてみせて言った。
「そんなことはない、もっと喜ぶべきだ、色々と恩恵があるんだからな。いいかライラ嬢、よく考えてごらん。万が一花嫁候補から落ちたとしても、王子妃にふさわしい令嬢の証となり、その後の縁談は引く手あまただ。それだけの令嬢と婚姻が結べるとなれば、多少貧乏であろうが領地が貧相だろうが、二番目三番目の子息を婿に出す理由として悪くない。腐っても貴族、長子に何かあっても子を跡継ぎにできるからな。いやあ、エーランドの奴もなかなか考えたものだ」
「……そう、でしょうか、ふふふ」
貧乏で貧相な領地で悪うございましたわね。
有力貴族との繋がりを大事にする、アンドレ―子爵らしい意見だった。彼自身はやぼったい田舎貴族そのもので、本人もそれは分かっている。優秀な弟がいてくれたからこそ、侯爵家への養子に出すことができて、今の子爵家があるからだ。だからこそ、友人である男爵家のことを心配してのことだろうとは、よく分かる。
よく分かるのだけれど、本当に痛い所をストレートに言ってくれる。
そう、花嫁候補でないかぎり、良い婿になかなか来てもらえない現状があったということ。それがストークマン男爵家の現実なのだ。
「とにかく、これからがシーズンの本番。今期こそ都に出ねばなるまいよ、それを伝えにきたんだライラ嬢。それがきみと男爵家のためだよ」
「……ありがとうございます、前向きに考えておりましたところですの」
「そうか、それは良かった」
ほっと安堵した様子のアンドレ―子爵。彼もまた、私がどんな人間なのか嫌と言うほどに知っている。だからこそ本心から心配してくれているのは分かっていて、どんなに朴訥な人であろうと嫌いにはなれなかった。それに隣あっているだけあり、持ちつ持たれつという部分があるから。
「ところで、エーランドは留守と聞いたが、どうしているんだい?」
「水路と溜め池の工事が始まったので、今日はそちらに」
「ああ、助かるよ、うちも一昨年は酷い目にあった」
今回の工事では、増水した河川の水を貯水池に一時的に流すことが出来るようになる。その河川の下流に位置するのがアンドレ―子爵の領地であり、男爵領で既に増水すると下流ではさらに被害が大きくなる。元々森と山を抱える男爵領はいくつかの河川の水源となる場所がある。ここの森と水を守ることは、子爵領だけでなく他の領地へ恩恵をもたらす。そういう理由もあり、土地が狭く丘陵が多い男爵領で不作が出たときには、周囲の領主たちは無下にすることはない。無償の援助とまではいかないけれど、借金の申し入れをしても快く融通してくれていた。
「そんなことより、ウルリーカ様の御加減がよろしくないと執事から聞いたが、そんなにお悪いのか?」
「いいえ、今の時期はいつものことです。夜はもうかなり冷え込むでしょう、寒暖差がこたえて風邪をひいただけです。それよりもせっかくいらしてくださったのに、顔も見せず申し訳ありません」
「いやいや、いいんだそんな事、ウルリーカ様が心穏やかに療養されるのが一番」
照れたように頬を染めるアンドレ―子爵。彼はお母様をどこかの女神と勘違いしているかのように、崇め奉っている。不貞とか横恋慕とかそういうのではなく、本当に女神だと思っているふしがあり、私には全く理解できない。
「そういえばウルリーカ様の御父上であるメシュヴィッツ伯爵を、先日お見かけしてね。六十もかなり前に越えたとお聞きしているのだが、まったく年齢を感じさせない威厳だったよ。さすがグレンヘルムの獅子と言われた御仁だけある」
「そうですか、もうしばらくお会いしておりませんから」
「彼もきっと今回のことは喜んでいるさ、今シーズンで久しぶりに都でお会いしたらいい」
「ええ、そうですね」
そう言ってアンドレ―子爵は慌ただしく帰っていった。
子爵の言葉には逐一同意した風に受け応えていたものの、今の私にはどれもこれも、決めかねていることばかりだった。
独りになってすることといえば、山と積まれた手紙の宛先を確認して、より分ける作業。
しばらくすると、執事のシュテファンが、新しいお茶を淹れて差し出してくれた。
「お求めのものは、見つかりましたかお嬢様」
執事は何をとは言葉にしない。
「別に探してなんていないわ、来るはずないもの、手紙なんて」
誰の名を探しているかなんて、執事に分からないはずはない。だけど嘘でもついて誤魔化さないと、私は不安でやり切れなかった。
私の名がいまだ王子の花嫁候補から外れていないことを、側近である彼が知らない訳がない。
なのに、あれから一切連絡はない。
代わりとばかりに次々と届くのは、会ったこともない相手からのお茶会の招待状や、社交シーズンでの夜会の誘い。そんなものを望んだ覚えはないのに、欲しいものはこの手に何もない。
告白……されたつもりでいたのは、気のせいだったのかしら。
あの晩の出来事は、月夜が見せた、幻?
いっそ幻で終わらせた方が良かったのかもしれないと、ため息をもらす。
こうして王子殿下の花嫁候補から外れてもいないくせに、私は彼の好意を受け入れてしまっている。どう考えたって、不誠実であり、受け入れてはいけないものだった。
そう頭では分かっているはずなのに、心にあるのは後悔ばかりではなく、こうしていまだ彼の気配を求めてやまないのだから。
……恋とはなんと厄介なものなのか。
再び漏れるため息とともに、積んだ封筒に手を伸ばして、今度は開封していく。
交流のある令嬢もいないわけではない。主に手紙のやり取りばかりになるけれど、子供のころからの付き合いだから、私の変人ぶりにも寛容でいてくれる。
そんな心優しい令嬢の一人の名前に目が留まった。エルザ=ホルムグレン子爵令嬢、彼女とは身分が近いこともあり、幼いころに遊んで以来手紙のやり取りを続けてきた。
真っ先に彼女からの手紙を読もうとして手に取ると、いつもとは違う良い花の香りが封筒から漂う。素朴で飾らないエルザにも、身を飾り香で装う転機がやってきたのだろうか。そんな期待を込めて封を切った。
「痛いっ……」
「どうなさいましたか、ライラ様?」
封を開けた拍子に指に刺さるような痛みを感じた。指を開いて見れば、血がぷくりと膨らみ、つつと指を伝って落ちた。
それを見て執事が慌ててポケットからハンカチを取り出し、これ以上血が垂れないよう私の指を覆う。
「紙で切ったのかしら」
「いいえ、そのような傷には見えません」
執事はすぐにそばにあった水差しを取り、傷口を洗ってくれた。その傷はとても小さなものだった。
「どの手紙を開けてらしたんですか?」
「エルザ=ホルムグレンからの手紙よ、そこに」
床に落ちていた封筒を拾い上げて中を確認した執事が、顔色を変える。
「どうしたの、シュテファン?」
「お嬢様、他の手紙にも一切手を触れないようお願いいたします、旦那様に至急連絡を入れますので」
「だから、どうしたっていうの、いったい?」
執事は、封を切った封筒の内側を私に見せられた。
そこには何本もの針が糊付けられていて、とても異様としか言いようがない。
「どういうことなの、これって……」
動揺する私から封筒を遠のけて、執事は中にある紙を注意深く取り出してみせた。
『花嫁候補を辞退せよ』
そう書かれた紙が一枚きり。これらの状況からどう考えても、嫌がらせをするために、針を仕込んだというほかない。
しかし疑問は募るばかり。
「エルザが、こんな事をするなんて……信じられないのだけれど」
「それは私も同意見です、お嬢様。恐らくは名を騙った何者かではないでしょうか。ライラお嬢様の交友関係は狭く、調べようと思えばすぐにエルザ様の存在は知れるでしょう。手紙も、令嬢同士でのやり取りでしたら、封蝋を押さない場合が多いですし……」
「じゃあ、誰がこんなことをしたの?」
「さあ……ライラ様の名前が公表されてから、一週間ほどでしたか」
「ええ、アンドレ―子爵からそう聞いているわ。当事者の私がそれを知ったのは、つい先ほどですけれど」
私と執事は、ともに押し黙ってしまう。
もしかしなくても、低い身分の私が王子の花嫁候補となったことを、良く思わない人がいるということなのだろう。
その気持ちは分かる、それはもう痛いほどよく分かっている。王子の花嫁候補のそうそうたる面子のなかに、ライラ=ストークスマンの名前があることを、私こそが最も許容できないのだから。
こんな脅しを使われるまでもなく、お断り上等なのに。
どうして誰も分かってくれないのだろうか。
「とにかく、手紙は全て私が預かります。旦那様がお帰りになるまで、ライラ様は屋敷からお出にならないように」
「……え、どうして? これから泥畑の様子を見に……」
「どうしてって……外出は禁止です。これはお嬢様を害するつもりで送られてきたのですよ、何かあったらどうするのですか」
「何かって、男爵領な僻地で?」
「対策を講じるまでです。それに傷口からばい菌が入りますから、泥など触らず、治るまではしばらく大人しくなさっていてください」
執事のシュテファンが強い口調でそう締めくくった。
彼がこう断言してしまったら、そうそう譲るものではない。お父様が留守の間は、特にそう。当主とその家族を守るのは自分なのだという自負があるのだろう。
私は諦めるしかなかった。




