10.憧れの人
『好き嫌いなんて、あって当たり前だよ』
彼が作ってくれた野菜を頑張って料理してみたものの、やっぱり苦手なものは箸が進まなくて、簡単に見破られてしまった。けれどそんな私を笑う彼の笑顔には、呆れとか軽蔑なんてちっとも入っていない。
『僕だってこの年まで苦手なピーマンを克服できてないんだから。だけど畑ではたくさん作っているしね。農家だからって理由で野菜好きとは限らないんだから』
小学生の頃はさんざんからかわれたと言いつつも、今ではいい思い出なのだと彼は言う。
彼と半同棲のように過ごし始めてから、彼が自分の収穫した野菜にこだわらない理由が分かった。収穫が始まったら、ただひたすらにその野菜の出荷に追われる。その間、来る日も来る日も収穫した野菜を家庭でも食べ続けていれば、誰でも飽きる。どんなに美味しいものであったとしても。
だから彼らは物々交換をするのだと、教えてくれた。
自分たちが持て余している野菜が、お隣さんはそうではない。逆もまたしかり。お互い様の助け合いで、豊かに暮らすための知恵なんだって。
『でもこれはさすがに、予想外だと思うの』
私が抱える袋には、色々な部位の肉がどっさり入っている。それが二袋。
数日前に、彼が手伝いと修行をかねて出入りしている農家で、稲刈りがあるというので私もついて行った。働き手としては役に立てなかったけれど、若いお嫁さんが身重というので、彼女の代わりに子守を引き受けた。あとはせいぜい、作業をする大人たちにお茶を出したくらい。
どうやらそのお礼らしいのだが、とてもこの量に見合った働きをしたとは思えない。なのに相手からは『婚約者さんにぜひ食べてもらって』だとか。
冷蔵庫どころか冷凍庫行きのお肉たちを前に、かえって気を遣わせたことを悔やんでいると。
『あのね、感謝はすれど悪いと思わなくてもいいんだよ。君が来てくれたことを、みんな喜んでいるんだ。だから君にも喜んでもらおうとたくさんくれたの』
『親戚でもないのに?』
『うん、そう』
『こんなにたくさん買ったらすごい金額よ?』
『そうかもね、でも豚一頭を安く買って、加工してもらってるって言ってたから、そんなに高くないらしいよ。それにお嫁さんと楽しそうにしてたじゃない、何を話してたの?』
『ええと、どこのメーカーの日焼け止めクリームが使いやすいとか?』
私の正直な返事に、彼の笑い声が続く。
『君も、楽しかった?』
『うん、すごく。生まれたらぜひお祝いに私も行きたい』
『そうだね。だったらそれは貰っておいて、余る分はきみのご両親にも届けようか。また僕の畑で野菜が採れたら、こっちからもお裾分けしたらいい。そうやってずっと過ごしていこう』
『うん』
それが普通になる未来を想像して、私は照れながら頷いた。
彼と彼にかかわる人たちは、驚くほど優しくて、居心地がいい。こんな無条件の優しさに接したのは、彼に出会ってから。
だから自然と、私もいつかそうなりたいと願うようになった。
彼のように、優しく。彼のように、寛容で。彼のように働き者でありたい。
そしてなにより、そんな彼の横に立つのに相応しくありたい。
こめかみに伝う涙の感触で、目を覚ました。
夢で見る彼の姿は、記憶を思い出してからこの十六年間、いつだって同じあの頃のまま。
きっと彼は、私でない誰かと人生を歩んでいるに違いない。むしろそうであって欲しい、あの優しい彼が、悲しみに暮れて辛い日々を送るだなんてことになっていたら、私は自分を許せなくなるから。
罰を受けなければならないなら、彼を一人にしてしまった私にこそ与えられるべき。
ゆっくりと起き上がりながら、シーツで涙を拭き取る。
窓からは日の出前の柔らかな明りが差し込んできている。
以前もそういえば、カールが来ていた時に夢を見た。最近は夢で見ることが少なくなってきていたのに、どうしたことかしら。
もう私はライラなのだから、そう思い直して着替えに立った。
自分の部屋を出て中庭を眺めながら食堂に向かおうとしていた時だった。いよいよ日差しが差し込み、眩しい朝日に照らされて、香り立つ金木犀の向こうに、人の影を見た気がした。
足を止めて、手の平で日差しを遮り目をこらせば、影は木の向こうに消えてしまう。
誰かしら……。今日は確か、庭師が入る予定ではないと記憶している。広い庭の反対側なせいか、顔はよく見えないものの影と木の比較から、かなりの長身。
「ライラ様、おはようございます」
廊下で立ち止まる私に気づき、声をかけてきたのは我が家の執事。男爵家に来てから十七年、天然お母様のお相手をしながら田舎領地で年季を重ねたせいか、滅多に動じない彼が、珍しく慌てている様子だった。
「おはよう、どうかしたの?」
「朝食の支度ができましたと、カール様にお知らせしに部屋を訪ねたのですが、いらっしゃいませんでした。どこかでお会いになられませんでしたか?」
もしかして……
中庭に見た影は、カールだったのかもしれない。彼は好奇心旺盛だから、中庭の花たちに誘われて寄り道をしたとしても、不思議じゃない。
「人影を見た気がするの、カールかもしれないから探してくるわ」
「ライラ様、では私が参りましょう」
「いいのよ、ちょうど外の空気を吸いたい気分だったから。今日も使用人が少ないから、あなたが抜けると大変でしょう?」
「……そうでございますか、ではお言葉に甘えましてお願いいたします」
執事に頷き、テラス口から中庭に出た。
早朝の空気は思っていたよりもひんやりとしていた。おだやかに吹く風が、開いたばかりの金木犀のみずみずしい香りを運んでくる。
芝を踏みしめながら庭の真ん中を通り、枝を丸く茂らせたひときわ大きな金木犀の木を目指す。
すると金木犀の奥、中庭と敷地の外側にある崖との境界に植えられた糸杉の方から、人の話し声らしきものが聴こえてきた。
「……そんなに気に入ったのなら、多少強引にでも事を運ばせればいい」
「そういうのはしたくない」
「なぜ? あの逞しさなら充分耐えられると思うけれど」
「俺は逆にそうは思わない。あれはこの土地でこそ咲く花だ。都の毒で枯れたとしても、一度決めてしまえばもう戻すことは出来なくなる。そうなったら……」
花?
男爵領でしか咲かない珍しい花のことを、教えたかしら。
姿は見えないけれど、一つはカールの声。もう一つは……ケビ? どうしてこんなところで話なんてしているのだろう。せっかく来てくれたのなら、彼にも朝食をごちそうしなくては。
もっと近づいて声をかけようとしたところで、私は足を止めた。
「ライラ嬢に、嫌われたくない?」
「……そんなんじゃない。今回の件は本人のみならず男爵からも正式に断りを入れられている。それなのに例のことでは協力を得ている。だから全部承知したうえで振られたんだよ王子様は。もういいだろう、そんなことを聞くためにわざわざ来たんじゃないのだろう?」
「ああ、そうだった。少し不味い状況になりそうだから、カールは急いで戻って来いという命令だ」
黙って聞いていた話が、いつの間にか私のことにすり替わっていて、よく理解できずにいると。
金木犀のそばで足音が聞こえ、あっと思った瞬間に目の前の枝を払われて、彼らに見つかってしまう。
「やあ、おはようライラ。君も散歩かい?」
「お、おはようございます、カール……それと、ケビ?」
金色の花をかきわけて私をのぞき込むカールと、その後ろには予想通り、苦笑いを浮かべたケビ=ルンベックの姿。
聞き耳をたてていたことがバレていないはずがないのに、彼らは何も言わなかった。
「ここまで探しに来てくれたのかい?」
「え、ええ。朝食にお誘いしたいと、執事がカールを探しておりました。ケビもよろしかったらどうぞ」
「いや、彼は急ぎの伝言を届けに来てくれたんだ、すぐに発つ」
答えたのはケビではなく、カールだった。
「すぐに? でもお疲れでしょう、馬も休ませないと……」
「いやライラ嬢、途中で仲間も待たせてありますから、ご心配に及びません」
「本当?」
「ええ、ご心配ありがとうございますライラ嬢」
ケビ本人からの言葉なら、引くしかなかった。
「分かりました、どうか道中お気をつけて。それでは先に戻っておりますので」
「ああ、すぐに俺も行く」
彼らの仕事は王子様の護衛。お休みを取ったとカールは言っていたけれど、そうそうゆっくり不在にしてはいられないのかもしれない。
そのような重い役目の話を、私ごときが聞き耳を立てていいはずがない。
話の途中に失礼したことを詫びて、私は早々にその場から退散することにした。
来た道を戻りながら、芝の広場の中ほどで、ふと後ろを振り返る。
再び木陰に入ったのか、二人の姿はもう見えない。もしかしたら、カールはもう戻らなくてはならないのだろうか。温室を案内できなくなるのは残念だけれど、そうなったのなら、それは仕方がないことなのだろう。
残念ではあるけれど。
「カールは都に急いでお戻りになられなくて、よろしいのですか?」
朝食を終えていつも通り動きやすい格好に着替え終わり、ヨアキムの迎えの馬車を待つ私の隣に立つカール。
「俺が? どうして」
「だって、ケビから急ぎの伝言をもらうくらいですもの」
「大丈夫、ライラとの約束が優先だから」
「……私からお願いしたような言い方は、やめてもらえますか」
「誘ってくれたのはライラじゃないか」
それはそうですけれど!
頬を膨らませて憮然としていると、カールは「冗談だよ」と笑った。
「昼には本当に発たなければならないけれど、大丈夫」
「それならいいですけれど、私のせいで叱られないでくださいね」
「分かっている、ところで今日は何を?」
「薬草の収穫と交配の……あ、ヨアキム!」
ちょうど屋敷の前にやってきた古びた馬車。御者のヨアキムに手を振ると、荷台からもう一人の男性が顔を出してこちらに手を振り返してくる。
その顔を見て、私は驚きと喜びで名を叫ぶ。
「イクセル様!」
呼ぶと同時に玄関を飛び出した。
ヨアキムが馬車を止め終わらないうちに駆け寄り、荷台から姿を現した銀髪の男性に、思い切り飛びかかる。
「ライラ、いきなり飛びついたら危ないじゃいか」
「だって、とっても久しぶりですもの、嬉しくてつい」
危ないといいつつも、しっかりと受け止めてくれた彼イクセル様は、ストークマン男爵家が長くお世話になっているお医者様。
お父様よりも少し若いくらいの年なのに、見た目はとても精悍で、逞しい風貌をしている。背も高く長い髪をひとつに束ね、整った顔立ちにいつも優しい微笑みをたたえていて、一見するとお医者様というより、物語に出て来る冒険者のよう。
彼は私が生まれる前からお母様の主治医として、ずっとここの屋敷に住み込んでいた。お母様の健康が安定した三年前には都に移り住んでしまったけれど、今でも私にとっては家族同然。
医師として都に拠点をかまえてからも、こうして数カ月に一度はお母様の診療と、薬草園を見にきてくれている。
「元気そうだね、ライラ。この先でヨアキムに会って、ここに向かう途中というので馬車に拾ってもらったんだ」
「まあ、まさかまた歩いていらしたの?」
「途中で少し馬車に乗せてもらったりしたけれど、森で新しい野草を探したくて」
徒歩での旅と野宿が好きな、医者としては代わり種のイクセル様は、いつもマイペース。こんな調子で高山に登ったりふらりと出かけて周囲を心配させる。
だけど患者にはとても優しく、愛情深い人。
「……ライラ、その人は?」
つい再会を喜び、彼の存在を忘れてしまっていた。
イクセル様に言われて振り向けば、怪訝な表情で私たちを眺めるカール。
「カール、放っておいてごめんなさい。この方はお母様の主治医でらっしゃる、イクセル=セーデルステーン様。今は都でも開業されているんです」
「カール=アレニウスだ」
「アレニウス? かの伯爵家にご縁のある方ですか、こちらへは男爵とのご縁で?」
イクセル様は彼の家名に心当たりがあったのか、言葉を選ぶようにして聞いてきた。
「当主の三男だ。ここには個人的にライラの友人として、休暇を利用して世話になっている」
「ご子息様ですか、それは失礼をいたしました。初めてお目にかかります、イクセル=セーデルステーンと申します」
「ああ、はじめまして」
カールの方から握手を求め、二人は挨拶をかわす。
カールからは、花嫁候補のことで検分役として来た経緯は説明する気がないようで、そもそも男爵領に来ることになった経緯について触れることはなかった。でもイクセル様は家族同然、ここに滞在するのならば自然と耳に入るのに。
むしろ都の事情に詳しいイクセル様に、今度のことを相談したいくらい。
しかしここで話せば長くなる。また今日もヨアキムを待たせては申し訳ないから、私も思いとどまる。
「それにしても、若い主治医だったんだな」
「あら、偏見はよくないわカール。イクセル様は若く見えても、努力家で天才なのよ、医療の腕に歳は比例しないわ」
「……ずいぶん信頼が厚いんだな」
「当然よ、私が生まれてこれたのも、イクセル様が助けてくれたおかげですから」
「なるほど、彼が……」
カールの意味ありげな視線に、イクセル様は謙遜して首を横に振る。
「運がよく体に合った薬草を見つけることができたのです、私だけでなく男爵の努力が実った結果でしょう」
「また謙遜なさって」
彼の良いところは腕の良さに加えて、謙虚なところ。いつだって慢心することなく、研究を続けて病と闘っている。そんな後ろ姿を、私は小さな頃から見てきた。いわば憧れの人。
イクセル様のように、人々の役に立てる人間になることが、私の目標。
馬車の脇で立ったままだった私たちに、ヨアキムがしびれを切らしたのか声をかけてくる。
「お嬢さん、今日は中止にするんですか?」
「ああごめんなさいヨアキム、もちろん行くわ。イクセル様、これからカールを温室に案内するつもりなんです、ご一緒にどうですか?」
「それは嬉しい誘いですが、よろしいのですか?」
イクセル様は私とカールを見比べながら、そう聞いてきた。
「どうして遠慮なさるの? イクセル様の助言あっての薬草園ですもの。ぜひ同行願います。ねえカール、あなたもお話聞きたいわよね!」
仰ぎ見た彼は、一拍おいてから頷いてくれた。
けれど視線は私を飛び越えて、イクセル様へ向けられていて……そのイクセル様が苦笑いを浮かべている。
すると同時に少し離れた御者台から、ヨアキムのため息が聞こえてくる。
「あーあ」
ヨアキム、その呟きはどういうこと?




