31話 賽は投げられた
何一つ見えない真っ暗闇の中、ズンと響く低い声だけがはっきりと聞こえた。
空気に触れる感覚はないのに、声の振動だけがビリビリと全身に感じられる。
「誰!? どこなの?」
見えはしないけれど、顔を左右に動かし周囲に目をやる。
声の主からの返事は無く、姿はやはり見えない。
再び辺りを静寂が包みこんだ。
わたしの事を贄と呼んだ声……。
この声は聞き覚えがある。
以前、わたしに幻を見せて、ママの危機を教えてくれた精霊だ。
わたしの中にあるママの死の記憶。
間違いなく前世も含めたわたしの人生で、自分が死ぬ瞬間と同じか、それ以上の最悪の体験だった。
あの幻がなければ、あれは実際に起きて現実になっていたはずだ。
あの時の光景を思い出すと、今でも心臓がキュッと締め付けられる。
声の主は積極的に会話してくれる様子じゃないけど、わたしの口からするりと言葉が漏れでた。
「ありがとう。あなたのおかげでママを助けられた」
どれほど高位の精霊があんな力を持ち得るのかわからない。未来の出来事を知ることができて、それをわたしに伝えた謎の術。恐ろしい存在なのかもしれないけど、おかげでママを救えた。
意図はわからない。
わたしを贄と呼ぶ以上は、魂を食べたりするのかもしれない……それでもママの運命を変えることができたのだ。
できれば完全に魔物を掃討し、安全を確保してからが良かったけど、生き残ったみんなが上手くやってくれていることを祈ろう。
ママの魔法は寒村の専業主婦が持ち得るレベルのものじゃなかった。
学校の入り口を守っていた要領で、ママの魔法の発動時間を稼ぎながら連携すれば、逃げるくらいはできるはずだ。
魔王の存在も心残りだけど、ママはわたしのことを『先代の勇者』と言っていたから、おそらく今代の勇者もいるんだろう。
エレナちゃんに聞いておけば良かったな。
その人物が魔王を倒してくれればそれでいい。
そして……ごめん…ニア、もう会えない。
王都には行けなかったよ。
頭の中で整理がつかないさまざまなことを無理やり整理する。
どうせ考えたところで意味はないのだ。
こうしてこの空間に呼ばれて、声の主と対峙しているということは、おそらくこれからわたしは……
複雑な心境だったけど、わたしは口を開いた。
「あなたがどんな存在かは分らないけど……感謝してる。心残りは多いし、捧げられた覚えはないけど、もう現世に対して何もできないのであれば、贄として――」
「礼は不要だ」
話すつもりがないと思っていた相手からの返答で、少し言葉に詰まった。
「あ……いや……ママを助け――」
「あれによって、お前の歩むはずだった道は変わり、世界は混沌に包まれる」
「混……沌?」
い……いったい何を言って……?
「選ぶ機会は与えた。これより起こる全てはお前の選択だ」
覚えてる……あの時確かに『運命の分かれ道』とか『選べ』とか言っていた。
「ママが死ななかった事で、世界が変わるってこと!?」
「変化の中心はお前だ」
「わたし……?」
頭が追い付かず、この精霊の言っていることが理解できない。
そもそもコイツは……。
「偶然か……必然か。捧げられた贄の身でありながら、我が力とつながる道にたどり着いたことは褒めてやろう。我が力を使うがいい。時がくれば道は示されよう」
目的が読めないけど、コイツは味方じゃない。
言葉の端々から感じ取れる歓喜が『混沌』を望んでいることをハッキリと示していた。
「賽は投げられた。面白おかしく踊って見せろ」
「あなたは……精霊じゃ……ないの?」
答えを待つまでもない。間違いない。
コイツは精霊なんかじゃない……じゃあ一体……コイツは……。
「我は――」
その時、突如吹いた風によって闇がかき消され、視界に戻った光で一瞬何かが見えたが、私の意識はそこで消えた。