21話 誰がために
涙で前が見えない。
わたしは止めどなく溢れ出る涙を拭うことも忘れ、薄暗くなり始めた森の中を、ただ闇雲に走っていた。
もうすでに2回も転んでいて、服も顔も土で茶色く汚れている。
「はぁ……ぐっ…うっぐっ……はぁ…はぁ……ふぐっ……はぁ…ぐっ……」
嗚咽のせいでまともに呼吸ができず、倒れこむように近くの木にもたれかかった。
ママに捨てられた!
もうあの家の子じゃいられない!
そう思うと、溢れる涙が勢いを増し、ボタボタと垂れて地面を湿らせる。
呼吸が整っても嗚咽が止まず、走り出してもまたすぐに息が乱れて倒れ込んでしまう。
まるでわたしの心が、わたしを家から離れないように引き止めているようだった。
心では家の方に帰りたいのに、現実が逆方向にわたしを向かわせる。
何度も走って倒れ込みを繰り返していると、中が空洞になっている朽ちた巨木を発見した。
わたしは何を思うでもなく、自然とその中に座り込んだ。
呼吸が落ち着くのを待っていると、一日の疲れがどっと押し寄せ、わたしは気を失うように眠りに落ちてしまった。
* * * *
「ねー! エレナちゃん! 見て!」
わたしはたった今描いた自信作の絵を、エレナちゃんに向けて見せた。
「わー…すごい色……。何の絵?」
すごいって! 誉められてうれしいな!
「お皿!」
えっへん!
「あー……。お皿ね。そんな色のお皿うちにあったっけ?」
「ほら! あれ!」
わたしは描いたお皿を指さして、エレナちゃんに教えた。
「ふつうのお皿じゃない?」
「違うよ! ホヤホヤーってしてるもん!」
「ホヤホヤー? わかんないなー。」
わたしがお皿の色についてエレナちゃんに説明していると、玄関の方からエレナちゃんのママの声が聞こえてきた。
「レアちゃーん! お母さんが迎えに来てるわよー!」
ママが来た!
まだエレナちゃんに説明できてないのに!
わたしが玄関に歩いていくと、こっちを見てママが手を出してきた。
「レア。迎えにきたわよ。エレナちゃんにさよならしなさい」
まだエレナちゃんと遊び足りない。
「もっと遊ぶ!」
「だーめ! エレナちゃん家もこれからご飯食べるんだから、邪魔しちゃダメでしょ?」
「エレナちゃん家で食べる!」
「わがまま言わないの。お家帰ったらご飯用意してあるんだから、レアのお家に帰ろ?」
「やだ! エレナちゃんと遊ぶ!」
「レア! いい加減にしないとママ怒るわよ!」
ママはもう、ちょっと怒ってる。
「エレナちゃんと遊ぶ!」
ちょっとこれ以上はまずいかもと思ったけど、エレナちゃんと遊びたいんだもん!
「じゃあ今日からエレナちゃん家の子になりなさい! もうママって呼ばないでね。レアの部屋の物も全部捨てとくからね!」
「えっ…あっ!」
大変なことになった!
「さようなら。よその家のレアさん」
そう言ってママは出ていった。
ど、どうしよう!
ママに捨てられた!
もうあの家の子じゃいられない!
胸がぎゅっとなり、息が苦しくなった。
足をじたばたさせて、あわあわしていると、エレナちゃんが半笑いでわたしに言った。
「ほら、ママを追いかけな。レアならホントにうちの子になってもいいけど」
少しだけいいかもと思ったけど、ママの子じゃなくなるなんてイヤだ!
わたしが玄関からとびだして、家の方に走り出すと、少し進んだ所で後ろから声がした。
「レア!」
後ろを振り返ると、エレナちゃんの家の扉の横にママがいた。
「ママ!」
わたしはママの方に走って飛び付いた。
「ほら、家に帰りたくなったでしょ? うちが一番!」
ママが悪い大人の笑顔でそう言った。
悔しいけどその通りだと思った。
「じゃあ今日はありがとうございました」
「いーえー。レアちゃん、うちの子になるのが嫌でも、いつでも遊びに来ていいからね」
「うん! エレナちゃんもおばさんも、またね!」
「うん! また明日ね。レア!」
さよならのあいさつが済むと、わたしはママと手をつないで家の方に歩き出した。
「じゃあ帰ってご飯食べよ!」
「うん!」
「今日はねー大トカゲの卵だよ!」
「ヤッター!」
そんな話をしながら、二人で家への道をゆっくり歩いた。
* * * *
ハッと目が覚めると、わたしは辺りの状況を確認した。
朽ちた巨木の虚の中。
ズタボロに汚れた服と体。
空の様子を見ると、わたしが家を出てから、そんなに時間は経っていないようだった。
夢か……。
いつかの記憶だった。
ママに置いていかれた時の感情は確かに本物だったし、本当に捨てられたと、心から不安を感じたのを思い出す。
だけど今のわたしとは決定的に違う……。
なんて幸せな夢だったろう……。
わたしは本当に捨てられたんだ……。
いや……捨てられたどころじゃない。
もしかしたら"本当のレア"を取り返すために自警団が組織されているかもしれない。
わたしは討伐対象なっているかもしれなかった。
夢が感情を整理してくれたおかげで、わたしは少し冷静さを取り戻していた。
哀しみや不安を記憶に変えて、人は精神の安定を保つ。少しさびしいけど、今はそれが心底ありがたかった。
わたしは巨木の虚から抜け出ると、辺りを見回した。
木々の間から村の灯りがうっすらと見える。
一生懸命走ったと思ったのに、まだこんなに村の近くだったんだ……。
わたしはいつ爆発してもおかしくない不安と哀しみを必死に押さえつけ、村と反対方向に歩き出した。
その時だった。
村の方角から「ごぉん」という地響きのような音が鳴り響いた。
何の音だろう?
村でこんな音がなるのは祭りの時ぐらいだった。
今日は違う。
村の灯りだってそうだ。
さっきは気にしなかったけど、玄関の魔石にしては明るすぎる気がした。
漠然とした不安だった……。
戻って何事もなかったら、わたしは見つかって捕らえられるかもしれない。
でももし何かあったのなら……。
そう思った時、もうわたしは村の方へ走り出していた。
わたしは捕まってもいい!
村に何かあったら……わたしは……。
村からは地響きとも雷鳴ともつかない音がなり続けていた。