1話 わたしと俺
長い髪を布でまとめた後ろ姿の女性。
リズミカルにトントンと包丁で野菜を切る音。
時折聞こえてくる鼻歌は、ご馳走を食べる家族の笑顔でも想像して、自然にもれてしまうのだろう。
グツグツと音がなる鍋からはスープの香りが漂ってくる。
開けっぱなしのドアから見える外は夕暮れ。
ママが晩御飯を作っているのだ。
この匂いはわたしの好きなメニューに違いない。
先日までのわたしなら手放しでよろこび、にこにこしながらママに「おてつだいすることない?」と聞いて、つまみ食いのチャンスを窺ったことだろう。
だが今のわたしはそれどころではなかった。
早く行かないと。
この家を出て探しに行かないと。
突如としてわたしの日常を破壊した出来事は、つい先日ママとの買い物の帰りに起こった。
ママは体の不調を心配してくれたけど、
そうじゃない。
わたしに前世の記憶が甦ったのだ。
――いや、正確じゃないな。
前世の記憶には違いないけど、あまりにも濃すぎる。
なにせ体感的には前世の自分の死がつい先日のことなのだ。
わたしの名前はレア、そしてマサト。
より詳しく言うと、8年分のレアと24年分のマサトだ。
もうわたしの中には、わたしの3倍もの量のマサトの記憶が入っている。人格もかなりマサトとまざってしまっていて、わたしの自我がどちらのものか、もうわからなくなっていた。
わたしが自分を「わたし」というのは、わたしのレアとしてのささやかな自己主張だ。
先日までのマサトだった記憶もあるので、少し照れ臭い。
照れ臭いと言えば、記憶が甦ってからもレアとして行動しているので、家族や友達と会話する時なんかは、背中に蕁麻疹が出てるんじゃないかと思うくらいむず痒い。
レアとしての行動は8年の記憶とレアの人格があるので容易いのだけど。マサトの記憶が邪魔してどうもやりづらい。慣れるまで少し時間がかかりそうだ。
とにかくわたしは記憶が甦ってからの数日、レアとして普段通り行動しながら、家を出て使命を全うする手段を考えている。
使命を果たさないと、人間は滅ぶからだ。
わたしは、こことは別の世界から召喚された勇者で、8年前に魔王に挑み、そして殺されたのだ。