参の肆/翡翠堂じゅんじょう奇譚
まずはじめに押し寄せたのは、水であった。
翡翠堂へと続く路地からまっすぐに。ひたひたと水が流れてきた。
水といっても、普通の雨水ではない。それは濃い藍色をして、路地の幅いっぱいを生き物のように盛り上がり、蠕動しながらやって来た。
但し入って来られたは、翡翠堂の門までだ。
そこでぴたりと止まると、水は鎌首を持ち上げる蛇の如くゆるゆると揺れだした。
ひとの世に暮らしている妖者の大半は、礼儀を重んじる。不必要な縄張り争いはしない。
わたしは裸足のまま地面へと降りた。激しい雨が、躯を痛いくらい叩く。
門柱前。
仁王立ちで迎えてやれば、水のうえを流れるようにやって来る、一艘の舟がみえた。
屋形船だ。
なんとも大業な、お出ましであった。
舳先につるされた灯りは、カンテラであろうか。ゆらゆらと仄かな橙色が揺れている。
櫂を握るは、作務衣姿の六名の小童共だ。
躯はひとの形をしているが、顔が違う。
首からうえが、鮒だの鯉の顔をしている。
抹香の匂いが雨にのって漂ってくる。それでも消せぬ、生臭い魚の匂いがある。
不快であった。水のものと懇意にしたことなど、今までなかった。
誰であろうか。
屋形船は鎌首を持ち上げている水の流れを境に、ぴたりと止まった。
小童のひとりが、「おつううきいいい」と、耳障りな甲高い声で叫んだ。
ぎぎぎと軋んだ音をたて、屋形船の戸が開く。現れたのはひとの形をした、美しい女であった。
「お初にお目もじ致します」
出て来た女が頭を下げる。
ワンピース姿の若い女であった。奇麗な顔立ちをしているが、目元に険がある。
雨は激しさを増す。
小童の一人がすかさず女へ、まっ赤な番傘をさそうとするが無駄であった。なにせ揃いも揃って小童共の背丈は、百センチといったところ。女の頭上に傘が届くわけがない。
するともう一人がやって来て、背に上れと四つん這いになる。
上って傘を広げるが、なにせ魚である。妖であっても力が弱い。立っている姿は、見ているだけで心もとない。
ぐらぐら揺れる傘は邪魔なだけだ。女も同じ思いなのか、「いりません」そっけなく言うと、傘もろとも小童を軽く押した。
押された小童は、べしゃりと倒れた。そのまま二人揃って溶けだし、水のごとく流れていく。
女は気にする素振りもない。
「こちら。宮地圭介殿の翡翠堂でよろしいでしょうか?」
唇の端に笑みを浮かべているが、女の目は笑っていない。
わたしを見る切れ長の瞳は、まるで値踏みをするようであった。
いきなりこの様に現れて、何だというのだ。わたしは腹がたった。
「どこのどなた様でしょうか?」
わたしの問いかけに、女がおやという顔をする。
「私の用事があるのは宮地殿。あなた様へご用件はございません」
「宮地はここの間借り。間借り人へ用があるのならば、まずはわたくしへ話しを通していただくのが筋というもの」
「ああ……これはとんだ失礼を」
とってつけた様に女が言う。
白々しい態度であった。互いに妖者だということは、一目見れば分かることを。
女は改まって背筋を伸ばすと朗々とした声で、おのが名を唱えた。
「ここより東。はんざき沼が主の娘。八田みやこと申します」
「……はんざき沼といえば、確かサンショウウオ殿が収めている水場。あの方は流光寺の住職ではなかったですか?」
「父をご存知で?」
「名だけは聞き及んでおります」
はんざきの主は妖の身で、ひとの女を娶っていたはずだ。
つまり目の前の女は、妖とひとの混ざりもの。これは珍しい存在だ。
たまさかひとと婚姻を結ぶ妖は現れるが、なかなかに子までつくる者は少ない。
わたしの好奇の目に気づいているのか、いないのか。女はすました様子で、「で、宮地殿は?」と再度尋ねる。
「……宮地はただ今留守です」
「まだお帰りではございませんか。それではこれを」
女が手をかろく打ち鳴らす。
すかさず小童が、風呂敷包みを持ってくる。
うやうやしい動作であるが、どうにも魚臭くてやりきれない。
「これは……?」
「宮地殿の忘れ物です」
「宮地の?」
わたしは包みを受け取った。
軽い。
何をあの男は忘れたというのだ。忌々しい。こんな女の元に忘れ物などするから、わたしが不愉快な思いをするのではないか。
「宮地殿がお留守ならば、貴女様からお渡し下さい。きっとです」
それだけ言うと、女は再度頭を下げて舟の座敷へと戻って行く。
途端いつの間に戻ったのか、小童共が六人揃って、「そおおれえええ」と声をかけつつ、櫂を漕ぐ。
「やかたあぁぶねは、かわをいく」
「どこまでいっても、みずまたみずの」
「みなもを、ちゃくちゃくあわだてて」
「はんざきめざして、つきすすむ」
「えっこら、えっこら、えっこらせ」
奇妙な節回しで歌いながら去って行く。
舟は路地の向こうへと、ゆっくりとした動作で進み、曲がり角のあたりで、ぱたりと消えた。
気がつくと雨が止んでいる。
藍色の水の流れもない。
舟を見送って、しばしぼうとしていると見知った影がこちらへ向かってやって来る。
宮地である。
ご機嫌な様子で鼻歌など歌っている。
まだ夕刻だというのに、飲んで来たのか顔がうっすらと紅い。その様子が妙に腹立たしい。
宮地はわたしの不機嫌な様子など気にもせずに、「おう、出迎えか?」と、嬉しそうに声をはりあげる。
見当違いも甚だしい。
「違います」
わたしは風呂敷包みを、宮地の顔めがけて投げつけてやった。
「あなたへ荷物が届いていたのです」
「荷物? これか。何だかえらい辛気くさい匂いだな」
宮地は風呂敷に顔を近づけると、鼻を蠢かす。
「抹香の匂いでしょう。目に険のある女の方が持ってきました」
奇麗なひととは、告げたくなかった。
「まっこう? くじらか?」
わたしの葛藤に気づきもせずに、宮地は頓珍漢な事を言う。
「くじらではありません。抹香。お線香の匂いです」
「おお、言われてみりゃあそうだ。ところで、あんた。すげえびしょ濡れだぞ。風邪ひいちまう」
そう言ってわたしへ手を伸ばしてくるので、思わず躯をひいた。
「わたしは風邪などひきません」
「そうか?」
「そうですとも。それより中身を確認して下さい。あなたへ、きっと渡せと言われたのです」
「ふーん」
宮地が風呂敷を開けていく。
「忘れ物と言っていました」
「へえ」
どこで。
何をして。忘れて来たのです。
聞きたい言葉は、素直には出てこない。わたしは唇をとがらせた。
出てきたのは、宮地がいつも頭に巻いているタオルであった。言われてみれば、今の宮地はぼさぼさ頭がそのままだ。ではあの女の居る場所でタオルをとって、寛いでいたのか。しかも酒まで飲んで。
「お、丁度いい」
そう言って宮地は、タオルでわたしの濡れた髪の毛を拭こうとした。
その手を思わず払いのける。
「くさい。嫌です」
わたしの剣幕にぽかんとした顔の宮地をその場に残し、わたしは家へと駆け出した。
今思えば。この時すでにわたしは、宮地圭介を意識していたのだ。
だが当時のわたしは気づいていなかった。
そもそもひとの男と恋仲になるなど、考えもしていなかったのだ。
しかも相手は、あの粗野な宮地である。
おかげでその夜。
わたしは悶々とした得体の知れぬ胸の苦しみに、おおいに手を焼いた。
サイドストーリー「ひえた毒」が八田みやこさんの物語りがあります。