参の参/翡翠堂じゅんじょう奇譚
「絢子さんの冥福に」
静かにそう言うと、宮地は高く湯のみを掲げ、中の酒を一気に飲み干した。
ご隠居さまはひとつだけ盆に置かれたままの、絢子さんの湯のみを無言で眺めている。
しばらくは何の会話もなく。宮地ひとりが黙々と酒を口にしているばかりであった。
「……そうか?」
やがて。自信無さげにご隠居さまが呟いた。
「お前さんは本当に、そう思うか?」
「そうだろ」
宮地が即答する。
「そうか?」
ご隠居さまがもう一度尋ねる。
宮地がふかく頷いた。ご隠居さまの視線が、ちらと宮地へ注がれた。
「俺だったら、見知らぬ高級マンションよりもこっちがいい。爺さんと暮らした、こっちの家の方がいい」
「……そうか」
「ああ。桜と梅の樹があって。絢子さんの丹精こめた鉢植えがあって。春には金魚草。夏には朝顔。秋には秋桜。冬になったら、パンジー。庭には他にも、ごっそりと球根が埋まっている。雨がおさまった途端、次々に芽吹いてくる。これから雑草の始末も一仕事だ」
「お前。柄にもなく花に詳しいな」
ご隠居さまが宮地の方へ向き直った。
俯いていた顔をあげ、視線を交えた。
「おおよ」
宮地がにやりと笑った。いつものふてぶてしい笑みであった。
「あんたは年がら年中酒飲んでいるか、窯を覗いているかだったからな。絢子さんの鉢植えの手入れを手伝ったのは、俺だ」
「……絢子は、お前さんがお気に入りだった」
「おおよ。俺は女には、結構もてるんだ」
「儂の若い頃に、ちと雰囲気が似ているって、言ってたなあ」
「やめろよ。爺さんと似ていたって、嬉しくもねえ」
「そうか?」
「そうだ」
「儂も、これでかなりもてたんだぞ」
「爺さん、絢子さんひとすじだろう」
「ああ。ああ、そうだとも」
そう言うとご隠居さまは静かに泣き出した。
ご隠居さまの背に、宮地のおおきな掌が慰めるかのようにそえられた。
「絢子は幸せだったと思うか?」
「おおよ」
「儂は絢子が好きだった。もっと一緒にいたかった」
「知ってる。絢子さんもあんたを好いていた。仕方ねえから今日だけ惚気聞いてやらあ」
そのまま二人は飲み続けた。
もう自棄のような飲み方ではなかった。
ご隠居さまはしみじみと盃を重ねては、絢子さんの思い出を宮地へ語った。
わたしは桜のなかから眺めるばかりの二人に、羨ましさを感じた。それは唐突にわき上がってきた感情であった。
ご隠居さまの哀しみを分ちあう宮地が。
宮地の優しさを享受できるご隠居さまが、羨ましくてたまらなかった。できる事ならば、わたしはすぐさま二人の元へ駆けて行きたかった。
夜のしじまが開ける頃。
二人は床のうえで、倒れるように眠りについていた。
ご隠居さまは、胸に絢子さんとのアルバムを抱えていた。目のしたの隈が痛々しい。髭も伸び、いっぺんに年をとって見えた。
なのに寝顔は落ち着いている。きっと。うんと悪い状態は昨夜で越したのだ。
一方の宮地は、空になった一升瓶を手にして寝ていた。
暑いのだろうか。寝苦しそうに眉間に皺をよせている。寝ている時でさえ、不機嫌な顔つきであった。
これから程なくして。ご隠居さまはご長男家族のたっての希望で、彼等の家へと引っ越して行った。
米代の表札が外され、家具が次々と運ばれて行った。
絢子さんの鉢物は残された。宮地がここで世話をするという。
庭ではご隠居さまのお孫さん達が、はしゃぎながら追いかけっこをしては、大人たちに注意をされていた。
まだ頑是無い男の子が二人。
彼等は半世紀以上をさかのぼった、ご隠居さまの残影のようにわたしの瞳には映った。
わたしは桜の樹のなかから、一連の流れを見つめているばかりだ。
世界は常に流れていく。
わたしだけがこの狭い場所、限定された時間のなかで、見つめるしかできない存在なのだ。
ご隠居さまはご長男家族に囲まれながら、屋敷を後にした。
最後に桜の樹に向かって、ちいさく手をあげた。
その腕にお孫さんの一人が巫山戯てぶら下がり、朗らかな笑い声をあげた。
にぎやかな。良いお別れであった。
わたしは黙って桜のなかから頭を下げた。
ご隠居さまの躯の線が、ぼやけて見えた。「ご隠居さま」そう言いたくて。けれどわたしは口をつぐんでいた。先見の未来はひとには告げない。それが人間界にいる妖としてのわたしの決め事であった。
ご隠居さまが去り、屋敷には「翡翠堂」の看板として、大皿が掲げられた。
宮地 圭介。
粗にして野だが卑ではない。ご隠居さまがそう称した男が、新たな主となった。
※ ※ ※
宮地が翡翠堂の主となった初めての夏。
珍客がやって来たことがあった。
その日は午後から雨の匂いが漂っていた。
からりと晴れた夏空は朝だけで、お昼すぎには空はどんどんしろく。灰がかってきた。
夏の夕立がやってくるのを、わたしは居間の床に寝転びながら、窓越しに待っていた。
その頃のわたしは、宮地の世話など全くしていなかった。
家事や家の手入れなどというものは、管理者たる宮地のすべき事であって、わたしの与り知らぬことであった。わたしはご隠居さまがいた時同様、気侭に現れては好き勝手していた。
宮地とは顔をなるべく合わせないようにと、気は使っていた。
顔を合わせると、名をもらってくれと宮地はしつこく迫ってくる。
成る程。
宮地圭介なる男は、当初感じていたよりは、随分マシな輩ではあった。だからと言って、はいそうですかと男のものになるつもりなど、さらさらなかった。そのつもりだった。
わたしは自分のゆるやかに変化していた気持ちに、この時なんら気づいていなかったのだ。
灰色の雲は、空をすっかり覆っていた。
蒸し暑い大気が辺りを支配していた。
いつもであれば十分明るい時間だというのに、しめやかに空は翳ってきている。
天空で、鋭い光りがはしった。
雷だ。
一拍遅れて轟音が鳴り響く。
それが合図だったかのように、雨がざざざと降り出した。
わたしは寝転がっている床から起き上がると、窓辺に手をおいて空を見上げた。
庭の光景が、けぶって見えるほどに雨脚が強い。
それだけではない。
雨の向こう側に、なにかいる。
こちらへ向かってやって来る。
雨に混じってやって来る。
わたしは窓から身を乗り出した。目を凝らした。まだ見えぬが気配はある。
ひとりではない。
大勢の気がある。だが強い気はひとつだけ。後は有象無象ばかりだ。
一抹の不安と、久しぶりの高揚感がわきあがってくる。
宮地が居なくて良かった。
くるのはひとではない。
わたしと同じ。妖だ。