参の弐/翡翠堂じゅんじょう奇譚
宮地に出会ったはじめての夏が過ぎ。
わたしは桜の樹のなかでの微睡みの時間のなかにいた。
外の季節は冬がすぎ、春の始めであった。桜の芽吹きはまだであったが、空気には梅の香りが漂っていた。
賑やかな気配に、ふと目が覚めた。
縁側に面した居間の窓を開け放し、ご隠居さまがいた。
絢子さんの気配は近くにはない。
絢子さんが徐徐にうすくなってきているのを、わたしは桜のなかで感じていた。きっともうすぐご隠居さまは、お別れを告げなければならなくなるだろう。
その日を思うと、わたしは胸が軋む思いがしていた。
部屋にはご隠居さまの他に、二人の男がいた。
ご隠居さまと年のちかい老年の男がひとり。もうひとりは久しぶりに姿を現した宮地であった。
ご隠居さまを真ん中に、三人は昼からお酒を飲んでいるようであった。
酒宴は朗らかな声に彩られている。
どうやらご隠居さまを喜ばす出来事があったらしい。祝杯なのだろう。
ひとの世に哀しみや怒りは多い。ささやかな喜びを積み重ねていくことは、存外生きていくうえで大切なものだ。ご隠居さまが楽しいのは結構なことである。
夏の間せっせと通いつめていた宮地は、わたしが桜のなかに姿を消してからは、とんと音沙汰がなかった。どうやら諦めたらしい。いかにも猪突猛進の男らしいではないか。わたしは内心で宮地の心変わりを、冷笑していた。
目に見えぬ。手で触れぬ。
そんな存在に熱情を抱き続けるのは難しい。宮地の早い心変わりは、ひとの性であり、ある意味賢い選択だ。
その宮地は相変わらず髪を肩まで伸ばし、うす汚れた格好をしている。もう少ししゃんとした格好をすれば、少しは見栄えも良くなろうに。全くだらしがない。
わたしへの恋情がなくなった今。もうこの男がここへ越して来る理由もなかろう。しばらくは又、静かな生活が続けられそうだ。
わたしが再び微睡みに戻ろうとした時だ。
酒をあおっていたはずの宮地の視線が、まっすぐにわたしを射抜いた。
なんら特別な力をもたぬひとの男に、今のわたしの姿を見ることは叶わぬはずだ。
見えているはずがない。
頭では分かっていても、わたしは男の視線の鋭さに胆が冷えた思いをした。
宮地が唐突に席を立った。
ご隠居さまへ声をかけ、慌てた様子で縁側から外へ出る。つっかけを履くのももどかしそうに、こちらへと向かって小走りでやって来るではないか。
迷いのない歩みであった。
近くまで来ると、宮地は桜の樹を見上げた。宮地の焦点はわたしから僅かにずれていた。それで全ては偶然であったのだと理解し、わたしは知らぬまに止めていた息を吐き出した。
「これを」
宮地が腕をたかく掲げる。
見下ろすと、手には桐の四角の箱がある。男には似つかわしくない、立派なものであった。
「あんたに会えなくなってから造った」
そう言うと根元にどっかと胡座をかき、箱の蓋を開ける。
中から慎重な動作で取り出したのは、不思議な形をした陶器であった。
見た感じ、食器ではなさそうだ。
両の掌ですっぽりと包めそうな、球体にちかい形をしている。
底は転がらぬように平らになり、上部二カ所に切り口の荒い、まるい穴が空いている。
一方が大きく。もう一方はやや小さい。外側は奇麗な深みのある薄緑色。一方穴から覗く内側は、白の勝ったうす茶色をしているのが見て取れた。
「俺の造った花器だ」
見えていないはずなのに、わたしへ説明するかのように宮地が言う。
「あんたに会えない時間に、あんたを思って造ったものだ」
そう言うと、抱え込んでいた面をこちらへくるりと向けた。
そこには一匹の虫がとまっていた。
蝶とは違う、特徴的な櫛状の触覚。
とまる時に閉じずに広げる大きな羽。
そしてこの緑色。間違いない。この虫は蛾。オオミズアオだ。
立体的な蛾の意匠は、羽を広げて花器にとまる、わたしのもう一つの姿であった。
「あんたを初めて見た時、俺は器みてえな目の玉だと思った。ほら、これだ。見てくれ。白を地に、そこにうす茶をいれて釉薬をたっぷり垂らした。しろ地ものは六角窯じゃあほとんど造られねえ。これは六角窯としての器じゃあねえ。宮地圭介の作として、初めて世にだしたもんだ」
宮地は器を桜の根元へそっと置くと、立ちあがった。そうして桜の幹を右手でゆっくりと撫でる。
大きな。
肉の厚い掌であった。決して美しい形の掌ではない。無骨な、大柄な男の掌だ。
だがこの掌が、今目の前にある繊細な器を無から造りあげたのだ。
そう思うと、なんとも不思議な気持ちになった。
「これはあんたに惚れたから造れたもんだ。あんたのおかげだ。よければもらってくれ」
それだけを言い残すと、宮地はくるりと背を向けた。
ご隠居さまが戻って来た男を、なにやら揶揄っている。けれどわたしの耳は、その言葉を拾わなかった。わたしは地面にぽつねんと残された器から、目が離せなかった。
ご隠居さまはお好きであったが、わたしに器の価値など分からぬ。
だが美しい。そう素直に思える品であった。
男の造った器は、初春のまだ冷たさの残る陽光を跳ね返し輝いていた。
つい先ほどまで宮地を嘲っていた事も忘れ、しばしわたしは花器に見惚れていた。
ーー会えない時間にあんたを思って造ったものだ。
男は確かにそう言った。
今までそんな事をわたしへ言う者などいなかった。
物を貢ぐ者は、たまさかにはいた。しかし手ずから造りだす者などいなかった。
心のなかを満たしていく不可解な気持ちに、わたしの思考は乱れた。
だからかもしれない。箱に墨で黒々と書かれた文字に気がついたのは、夕刻が迫った頃。宮地も。もう一人の初老の男も、とっくに去った後であった。
県展 優秀賞
宮地圭介作「花器/ひすいの球」
後日。ご隠居さまから、わたしは男が展覧会で賞をとったと聞かされた。
「これであいつも、一人前の窯もちだ」
あの日。酒杯をあげに来ていたもう一人が、宮地の師匠であった。
「今までは荒削りの素朴なものばかり造っていたのが、今回はがらりと作風を変えたらしい。器に色気がでてきたと、六角が言っていた。弟子に厳しいあいつにしては、ベタ褒めだ。宮地は一人だちをもぎとったぞ」
高額で買い取りたいという申し出もあったらしい。金まわりの良い蒐集家に気にいられるのも、陶芸家には必要なことだ。
だというのに男は申し出をあっさりと断った。妖のわたしへ差し出しても、男の元には一円もはいらないというのに、器をわたしへ差し出した。
「あんたがいるからこそ造れた俺の器だ」
そう言って、これから先。男は展覧会に出品をする度に、作品をわたしへ捧げる。
男の造る「ひすいの球」は、ある意味宮地圭介そのものであった。
粗野で、口が悪くて、取っ付きずらい内側の、純粋なまでの恋情を具象化したものだ。微かなひかりを宿したような、宮地にしか造れない器であった。
※ ※ ※
絢子さんが、夏を待たずに亡くなった。
雨の続く。梅雨の頃であった。
庭では絢子さんの育てていた紫陽花の株が、色とりどりの花を咲かせていた。
絢子さんのお葬式の最中。ご隠居さまは常に気丈に振る舞っていた。
宮地があらたまった黒の礼服でやって来た。
桜の樹には一瞥もくれず、終始うなだれたまま式に参列し、霊柩車を見送るとひっそりと帰って行った。
わたしは桜のなかに囚われたまま、一連の作業が終わるのを眺めているばかりであった。
葬儀が過ぎ。ひとりになった途端、ご隠居さまはちいさくなってしまった。
背が縮んだわけではない。なのに時折見せるその姿は、一回りちいさく見えた。
ご隠居さまは昼夜を問わず、楽しくない様子でお酒を飲むようになった。それは初めて見る、打ち拉がれた姿であった。
庭へは滅多に出て来なくなり、窓さえ開けないのでお顔も見えない。家の中からはご隠居さまの発する哀しみの感情が、わたしの元まで流れてくるのだった。
「とうとう、妻孝行が間に合わなかった……」
ご隠居さまは深夜になると、よくそう呟いては嘆いていた。
「それは違います」
夏であったならば、わたしは直接ご隠居さまへそう伝えられた。
励まし、寄りそえられた。なのにできない。あんなに可愛がってもらったのに、ご隠居さまをひとりにしてしまっている。
ひとの何倍もの時を生きながら、わたしにできる事は少ない。
桜のなかのわたしは、ご隠居さまの哀しみを、癒してあげる事さえ叶わない。会社を継いだご長男が休みの度に顔をだしたが、ご隠居さまの気分は優れないままだった。
「ひとりにしておいてくれ」
誰彼かまわずそう言っては、部屋に閉じこもった。
「それは違げえだろう」
わたしの言わんする言葉を、ご隠居さまへ届けてくれた者がいた。
「絢子さんは、ここで最後を迎えられて喜んでいたんじゃねえのか」
わたしの変わりに、ご隠居さまを慰めたのは宮地であった。
「最後をここで過ごせて良かったと、俺は思う」
ぞんざいな言い方であったが、目には慈愛のひかりを浮かべていた。
ご隠居さまが「ひとりにしてくれ」と言っても、宮地は聞く耳を持たなかった。
宮地は好き勝手に家の中を歩き回っては、荒れた室内を整理していった。
宮地によって、居間の窓がおおきく開けられた。澱んだ空気を、追い出すような仕草であった。
久しぶりに目にできたご隠居さまの顔色は悪く、大層やつれていた。ご隠居さまは宮地に背を向けたままだ。顔を合わせようともしない。
男の言葉は、ご隠居さまの耳に届かないのだろうか。ご隠居さまは表情を剥ぎ取られたかのように、うつろな顔つきをしている。
「一人でこんな高い酒飲んでいたって、面白くもねえだろう」
そう言うと宮地が、一升瓶から湯のみに酒をついだ。
宮地が用意した湯のみは、盆のうえに三個あった。
ひとつをご隠居さまへ渡し、自分もひとつ手に取る。
残るひとつは、絢子さんの花模様の湯のみであった。