参の壱/翡翠堂じゅんじょう奇譚
宮地さんを初めて見かけた時。
あまりの人相の悪さにわたしは驚いた。わたしは彼の視線が外れた隙に、これ幸いとすぐさま姿を消した。それなのに、まさかその男がここに越して来るなんて。考えもしなかった。
「なに。すぐってわけじゃあないさ」
ご隠居さまはそう言うと、縁側で足の爪を切りだした。
ご隠居さまの爪はわたしと比べ、大変厚い。厚くて、黄色く濁った爪が、ご隠居さまのひととしての老いを示している。
この世界で生き物は、生まれ、成長し、やがて老いていく。
わたしには到底手が届かない流れの中に、ひとはいる。
わたしは口を尖らせた。
「酷い。よりによって、あんな怖そうな男の人がここに住むなんて」
「怖そうか?」
「怖そうです。すごく怖そうです」
そうか。そうかと、ご隠居さまは、はしゃいだ声で笑い出した。
「あら。どうしたの、あなた」
ご隠居さまの明るい声につられるように、自室で横になっていたはずの絢子さんが起きだして来た。この頃の絢子さんは気分が良ければ、起きてお料理をしたり、お散歩ができていた。
「おお。宮地がいずれはここへ越して来ると知ったら、オオミズアオが嫌な顔をしてな」
「まあ、圭介君が! そうなの。それはそれは」
絢子さんまで嬉しそうにすると、まるで少女のように手を打ち鳴らす。
ご隠居さまは今まで自分が使っていた座布団をひっくり返すと、絢子さんに差し出した。絢子さんがそこへ柔らかな動作で座る。
本当にこのご夫婦は仲が良い。端で見ていると、心にほっこりと暖かなものが流れ込んでくるようだ。
「オオミズアオは、宮地が気に入らないんだ」
「あら。圭介君、良い子よ。とても」
「ほら。儂が言った通りだろう。絢子のお墨付きだ」
「……そうですか」
わたしは不承不承うなずいてみせた。
ご隠居さまには言える我が儘も、絢子さんが心配する事を思えば、途端言えなくなってしまう。
わたしには、絢子さんの体調も。残された年月も。うっすらとではあるけど、見えてしまう。
したくなくとも、先見はわたしへ未来へ告げる。
だからこそ、この優しい女性に少しの憂いも持たせたくなかった。
お二人が納得してこの家を任せられると判断したのならば、わたしが口をだすべきではない。
そう割り切ることにした。
ご隠居さまがいらっしゃる随分前から、わたしの宿る桜の樹は、色々な人間の手を経てきた。
この姿をみせる時もあったけれど、見せない時の方が多かった。
ご隠居さまの様に、ご夫婦でわたしを受け入れてくれた方々は稀有なのだ。
ならば、又。寂しさはあっても、沈黙を守れば良いだけだ。
「粗野なれど、卑に非ず」
おもむろにご隠居さまが口にした。
そう言ってわたしの顔をじっと見つめる瞳は、いたずらを考えているこどもの様であった。
「なんですか? それ」
「本の題名になっている言葉だ。まさに宮地圭介の人となり。あいつの本質だ。粗にして野だが、卑ではない。安心しなさい」
そう言うと、ご隠居さまは子供をあやすようにわたしの頭を優しく撫でた。
※ ※ ※
その男が今、わたしへ向かって封筒を差し出している。
男と出会って三回目の夏が訪れた。
男はもう何十編も。もしかしたら何百編も、同じ言葉を紡いでくれる。
「俺の気持ちだ。受け取ってくれ」
いつも不機嫌そうに寄せられた眉。睨んでいるように見える眼差し。不満げに結ばれた唇は、開けば口の悪さばかりが目につく人だ。
あんなにも器用に。繊細に。土を捏ねて器を造る人だというのに、人間関係においては、とことん不器用になる。
育ち過ぎてしまった、こどもの様な危なっかさを、愛おしく感じるようになったのはいつの頃であったろう。
封筒へ手を伸ばさないわたしへ、挑むような口調で男が言う。
「俺はあんたを諦めねえ」
男の不遜な自信が好ましいと感じるようになったのは、どこでだったろう。
わたしの淡い気持ちに気づいているのか。男はいつだって、まっすぐに向かってくる。
だからこそわたしは、簡単に男の愛情をもらうわけにはいかない。
わたしの内側に期しせずに育ってしまった感情を押し込めて、わたしは男を見つめるばかりだ。
一本の桜に宿るオオミズアオの化身としてこの世に生を受けて、幾つもの夏を過ごした。
わたしがひとの形をとれるのは、夏の間だけだ。
残りの季節を、わたしは桜のなかで過ごす。
もしわたしが男の手をとっても、共に過ごせる時間は僅かだ。
夏が過ぎれば、男をひとりにさせなければならない。
本来ひとである男の寿命は、わたしとは比べ物にならぬ程短い。
しかしわたしが男の手をとれば、男の時間はかたちを変えるだろう。この男の人生を歪める事となる。ならば安易にすべきではない。分かっている。分かっているのに、こころは揺れ動く。
「あんたが好きだ」
男が言う。
頬が火照る。胸がくるしい。
封筒が誘うように、わたしの方へとさらに差し出される。
※ ※ ※
はじめは違った。
男に恋情など、これっぽっちも持てなかった。
男はただただやかましく、厚かましいだけであった。わたしは男がやって来ると、見つかる前に姿を消したものだ。
一夏をやり過ごせば、男の浮かれたような熱もさがるであろうと高をくくっていた。
今までもわたしに恋情をもつ男たちはいた。
だが皆がみな、ひとと妖との壁を前に、消えていく。そんな一過性の男達の熱に、自らを差し出すことなど考えもしなかった。
わたしがひとに望むのは、男女の浮かれた熱ではなかった。
わたしの望みは互いを尊重し、認め合う穏やかな時間であった。
宮地のわたしへ向ける眼差しに、穏やかさは微塵も無い。あるのは激しい熱だ。
わたしと彼では望む時間を共有できないと、この時のわたしは男に見切りをつけていた。