弐の弐/翡翠堂あやかし奇譚
俺がオオミズアオのおんなを初めて見かけたのは三年前。
爺さんの家に遊びに行った夏の事だった。
あの日。
絢子さんは躯の調子が思わしくなかった。
絢子さんに手伝いを申し出て、十を越す朝顔の鉢を軒下に運んでいた時だ。
縁側におんながいた。
ぽつねんとひとりで座って、真っ青なソーダアイスを齧っていた。
全体的に細っこい。こどもみたいな体型のおんなだった。
爺さんの親族だろうか。俺はそう思って、朝顔の鉢を運びながら気軽に「コンチワッ」と声をかけた。
途端。
おんなが驚いたように、振り返った。
目と目が合った。でっけえ目玉が俺を映した。俺は鉢を軒下に置くこともできずに、金縛りにあったみたいに、おんなの目ん玉を見つめた。
とろりとした釉薬をかけられた、磁器みたいな目ん玉だった。
長い時間を持ちこたえた奇跡的なしぶとさと、すぐにも壊れちまいそうな繊細さを併せ持った、器みてえな奇麗な目に、俺は一瞬で囚われた。
どれだけそうしていたんだろう。
家を囲むようにして生い茂っている樹々のひとつで、蝉がじじじと鳴きだした。一匹が鳴くと、つられるように他の奴らも歌い出す。
うるせぇったらない。
突然の蝉時雨に、俺は頭上の樹々を見上げた。
ほんの一瞬だ。
だが次に縁側に視線を向けた時には、おんなの姿は消えていた。
縁側のすぐ側の真っ黒い地面に、食べかけのアイスがべたりと落とされていた。今そこにいたはずの、細っこい躯も。魅惑的な目ん玉も、どこにもない。
おんなは蝉時雨の残響に吸い込まれるように、消えちまったんだ。
俺は慌てて家のなかに引き返して、爺さんを取っ捕まえた。
あのおんなは、どこの誰だと問いただした。
爺さんは最初すっとぼけて、「白昼夢だろう」「熱中症か」と、俺をからかった。だが俺の、「一目惚れだ」の一言に態度が変わった。
「お前さん。おんなの為に人生捨てる覚悟はあるか?」
そう言った時の爺さんの顔は、人の良い好好爺なんかじゃなかった。
俺を試すような。
挑むような目つきであった。
※ ※ ※
「義務なら止めて下さいな」
おんなが言う。
おんなは毎回同じ台詞を口にする。
「義務なんかじゃねえ」
俺の返答も毎回同じだ。
ふたり揃って、台本を読み合っているように、毎回同じ状況。同じ台詞が繰り返される。
ただ今までの年月の間で変わったものもある。おんなの表情だ。
おんなは同じ台詞を口にしても、迷っている顔をするようになった。卓上の封筒に手を伸ばしゃあしないが、両の指先を落ち着かなく弄っている。
最初の時なんざ酷かった。鼻で笑われて、軽くあしらわれた。
俺は樹から落っこちて、地面でのたくる毛虫にでもなった気分で、おんなにふられ続けていた。
「俺は米代の爺さんから、ここの管理を任されている。だけど仕事を受けたのは、あんたに惚れた後だ。あんたに惚れたから、ここに居る」
そうだ。
この家も。窯も。俺のもんじゃねえ。
それを言うなら、おんなもまだ俺のもんじゃねえ。
俺は爺さんとの約束で、ここの管理を任されている。住み込みで働いている管理人にすぎねえ。
※ ※ ※
「お前さん。六角窯を抜けて、一人立ちする気概はあるかい?」
爺さんはあの三年前の夏の日。俺にそう聞いた。
当時の俺には、まだ自分の名だけで喰っていける程の腕も人脈もなかった。
師匠の弟子でいるっていうことは、俺の器は「六角窯」の品として取り扱われる。
窯をでるっていうのは、師匠の名。
ひいては六角窯の名を手放すってことだ。
名のない俺の器に、世間的な価値はねえ。六角窯を抜ける。それは当時の俺には、即死活問題にもつながる決断だった。
「一人立ちしたら、あのおんなを紹介してもらえるんすか?」
「紹介なんてしないよ」
俺の質問に、爺さんはそう答えると意地の悪い顔で笑った。俺に初めてみせる顔だった。
「お前さんは、あの娘を見守るここの管理人になるんだ」
「管理人?」
爺さんの言葉に首を傾げた俺に、爺さんが説明した。
「勿論今すぐじゃあない。お前さんにだって都合があるだろうし、こっちにだって都合がある」
「……」
「絢子がね。実はあんまりよくないんだよ」
沈んだ声で爺さんが俺に告げた。
「えっ! 大丈夫なんすか?」
そんなの初耳だ。
料理上手で優しい絢子さんは、爺さんにはもったいねえくれえ良い奥さんだ。俺は絢子さんに世話になりっぱなしだ。まだ何にも恩を返せていねえ。
「そんなに驚く程じゃあない。大丈夫。今すぐぽっくり逝くってわけじゃあないから。けど夫婦揃って年をとれば、あっちこっちと悪くなっていくばかりだ。年寄り二人にこの家は広すぎる。窯も庭も。手入れが大変だ。ここらでひとつ、妻孝行しようかと計画しているんだ」
俺は安堵の息をついた。なんだ。脅かすなよ、じじい。
「穏やかな土地に介護医療つきの高級マンションがあってね。そこを検討しているってわけだ。だがうつってしまうと、問題がひとつ残るんだな」
「……はあ」
「そんな気のない返事をしなさんな。そこでだ。問題っていうのが、あの娘なんだ。あの娘は、儂の可愛い娘だ」
「……爺さん! 浮気したのかよっ!」
俺は声を張り上げた。途端爺さんに、「ばか」と頭を叩かれた。
「儂が絢子以外に、うつつを抜かすものか」
「だって爺さん、息子さんしかいねえじゃないすか」
「娘のように可愛がっているという意味だ」
「ちぇっ。まぎらわしい」
「儂の話しが嫌なら、いいんだ。娘は諦めな」
「いえ、全然イヤじゃねえ」
「お前さん本当に現金だね。まあ、いい。あの娘は、ここの桜の樹に宿るオオミズアオっていう蛾の化身だ。そう言ったら。お前さん、信じるかい?」
爺さんが俺を覗き込むようにして、素っ頓狂な事を聞いてきた。
言葉は素っ頓狂だが、表情は真剣だ。
多分。今ここで返答を間違えちまったら、俺とおんなの縁は無くなる。そう思った。
俺は眼を閉じて、おんなの様子を思い浮かべた。
俺を一瞬で囚えた、あの目の玉。
言われてみりゃあ、あれは単なるひとの目の玉じゃあねえ。妖って言われた方が納得できる。人ならざる者だからこそ、俺はすぐにも囚われちまったのかもしんねえ。
俺は根が単純だ。頭もさして良くはねえ。
おんなに惚れた。惚れたおんなが、オオミズアオの化身だと、爺さんは言う。
惚れたのが全ての始まりだ。ならその後の意味付けなんざ、なんだっていい。
俺は俺の気持ちに従うだけだ。
器。そしてーー
オオミズアオだというおんな。
このふたつは、これからの俺の人生に欠いてはいけねえもんだ。根拠なんざねえ。けど俺は自分の勘を信じる。俺が自由に息をする為に、必要なもんだ。
おんなの為に、人生捨てる気があるかと爺さんは聞いた。
それとはちっと違う。
俺らしい人生を過ごす為に、俺は手を伸ばすんだ。
「信じます」
俺は爺さんに頷いた。