漆の肆/翡翠堂たそがれ奇譚
「これを植えて欲しいんです」
長男誕生のお祝いと称して、オオミズアオがやって来た日。
手紙と共に託されたのは、苗木であった。
「なんだ、これは?」
私の質問にオオミズアオは無言で、まだ脆弱さが残る苗木の幹をさすった。手放すのに迷いがあるような手つきであった。私はおんなが口を開くまで、黙って待っていた。やがてオオミズアオが顔をあげた時、強いひかりがその瞳には浮かんでいた。
「私の宿る桜の樹を、挿し木にしたものです。貴女の実家は、広い境内と庭がある。どこでも良いから植えて欲しい。これがわたしの頼みです」
「翡翠堂の庭では駄目なのか? あそこだって広いだろう」
私は植物の世話など得意ではない。小僧共に頼む手はあるが、枯らしてしまったらまずそうな代物だ。
受け取るのに二の足を踏んだ。
「翡翠堂は駄目」
おんなが頭を振った。
「圭介さんああ見えて、意外とマメに花木の手入れをするから、桜を植えたら気づかれてしまう。息子さんの記念樹だと思って、どうか後生だから植えて頂戴」
オオミズアオの言葉に、私は頭をひねった。
「宮地には内緒で。という事か」
「ええ。そう」
「どうしてだ? 聞いてもよいのか?」
「……そうね」
オオミズアオが口ごもる。
「私もまだ迷っている。こんな事をして、圭介さんの為になるのか。わたしのエゴなんじゃないか。でもしておかなければならない。そんな気がする」
「ーー迷っているなら、した方が良い」
私の言葉におんなが驚いたように目を丸くした。
「貴女に背中を押してもらえるなんて思わなかった」
「私は自分の主義主張を言っただけだ。どう捉えるかは、受けて次第だ。背中など押さん」
「貴女らしい。でも、そうね。ここへ来た時点で、わたしも腹は決まっていた」
おんなはしゃんと背中を伸ばすと、桜の苗木を私へ向かって差し出した。
「圭介さんの人生を照らす道標として。そして圭介さんの一生を、わたしのものにする為に。この桜は貴女へお願いします」
なんだその言い草は。まるで矛盾しているではないか。
男の人生の為と言いながら、己のものにすると言う。
それは又なんとも物騒な愛情だ。しかし気に入った。
「わかった」
私はおんなから苗木を受け取った。実際の重さ以上の重みを感じた。
私は知らず笑みを浮かべた。
おんなも又微笑んだ。おんなの笑みは、迷いをふっきるような力強いものであった。
※ ※ ※
長男誕生前の夏。
私は贔屓にしている和菓子屋で、おんなにばったりと出くわした事がある。
その時から。私が落胆する宮地を訪ねた今日この時までの出来事は、既におんなの頭のなかで、遠大な計画として始まっていたのだろうか。
だとしたら。愛くるしい顔をして、とんだ食わせ者である。
あの当時。
私には人知れず抱えている悩みがあった。
結婚当初から、すぐにも子を望んでいた。だが懐妊の兆しは、いつまで待っても現れない。妖とひとの婚姻で、子に恵まれないケースは多々ある。分かってはいた。
私自身は父がサンショウウオの妖。母がひと。混じりものであるのだから、母よりも妊娠する確率は高いと思っていた。
なのにできない。
正直焦っていた。
父は良人を手放しで、気に入っていたわけではない。
私には同じ妖と、婚姻を結んでもらいたがっていた。もしこのまま子を望めなかったら、父に仲を割かれるのではないか。
不安を抱えながら生活しているせいか。
それまでは、何とも思わなかった良人の様々な点が目に付くようになっていた。不当にイライラしたり、不満に感じた。今考えると八つ当たりだ。そもそも良人に対して、私はフェアでなかった。
自分の正体を偽っているからこそ、きちんと向き合って話せない。
後ろめたさがあるから、焦って当たり散らしてしまう。
良人もまた悩みを抱えていた。
結婚し、寺の所有する敷地に窯をたて独立をはたしたものの、思ったような器を造れぬ。
評価を得られぬ。何をやっても中途半端に終わってしまうと、嘆いていた。
そんな時。寺の用事で立ち寄った和菓子屋で、私はオオミズアオと会ったのだ。
「あら、偶然」
そう言って、和菓子屋の喫茶部から手を振って、私の名を呼んだのがオオミズアオであった。
お盆前の人の多い駅前店。
冷房が効いていても、人いきれで茹だるような日であった。
そのなかにあっても、あのおんなの周りだけは涼やかな風が吹いているような。そんな雰囲気をまとっていた。
「圭介さん、近くのビルの展示会に顔をだしているの。時間があったら、お茶に付き合ってもらえない? なんか、一人じゃ肩身が狭くて」
そう言って誘われた。
宮地の言う通り、仲が良いわけではなかった。
きっと互いに、良い印象はなかったはずだ。
顔を合わせるのも久方ぶりだ。なのにおんなの誘いに乗ったのは、誰でもよいから話しをしたかったからかもしれない。ひとと番っている妖の女など、オオミズアオ以外身近にいなかった。
オオミズアオは、抹茶パフェをご機嫌でくずしていた。
私はアイス珈琲をストローですすりながら、「宮地とうまくいっているのか」
おんなへ聞いた。
互いに接点は、ほぼない。共通の話題など、人間との結婚生活。すなわち伴侶の事しかなかった。
「ええ、なんとか」
はにかみながら答えたおんなの笑顔が眩しかった。
私と違って、まっすぐに宮地へ向き合っているであろうおんなに、一抹の妬みさえ覚えたものだ。
私はおんなのぺたりと平らな腹部を見つめながら、子を望んでいるかと問いかけた。なんとも不躾な質問だ。
おんなは大きな目を、さらに大きく見開いた。
「分からない」
しばし考え、おんなが答えた。
「でも、そうね。わたしは多分無理かもしれない。分かるの。なんとなく」
そう答えたおんなの心中は、どうであったのだろうか。
そこまで考える優しさも寛容さも、当時の私は持ち合わせていなかった。
「でも、貴女はきっと大丈夫」
「適当な事を言うな」
私はむっとしておんなへ言った。
よくある口当たりの良い言葉だ。
話題を振ったのは私だ。怒ることではない。おんなの台詞は、良人が。小僧達が。身近な人々が、私を気遣い自然に口にする類いのものだ。
私が傷つく謂れはない。だのに、「そんな詭弁は結構だ!」強い語気でおんなを責めた。
「違うわ」
おんなは落ち着き払っていた。
幼い子供に言い聞かせるように、ゆっくりと口にした。
「わたしには分かるから。見えるって言うのかしら。うすくなったり。あらわれたり。そういうのが、時々見えるの」
「みえる?」
私はおんなの話しに眉をひそめた。
「ええ。以前お世話になっていたご夫婦の躯の調子とか。徐徐にうすくなっていく気配とか。そういうのが見えるの。あなたの躯はきちんとしている。もう少しだけ焦らず。ゆったりしていれば、きっと上手くいくはずだから」
そう言ったおんなの言葉に、根拠もなく縋った私は、随分まいっていたのだろう。
今となっては、おんなの言葉の真偽は分からぬ。
真実見えていたのか。それとも慰める為のおためごかしだったのか。確かめる術は無い。
だがひとつだけ確信できるとしたら、あの時オオミズアオは、すでに知っていたのではないだろうか。
自分の宿る桜の寿命を。
だからこそ宮地に内緒で、自分が宿る桜から育てた苗木を、長男誕生にかこつけて、託しに来たのではなかろうか。
ここから先は私の想像だ。
おんなは桜を宮地の為の道標だと言った。それでいて、桜は生涯宮地を縛りつける為のものだと。
苗木は育ち、やがては大木となる。
満開の花を咲かせたら。
そうしたらまた現世へ戻ってくると、宮地に思わせる為に。自分への思いを、失くさせないようにする為に。その為の苗木だったのではなかろうか。
だとしたら、酷い話しだ。
酷い希望だ。そんなものを自分の死後に愛する男へ突き付けるおんなは、空恐ろしい。
ぞっとする反面、痛快でさえある。
そうか。
そうまでして、おまえは宮地を縛りつけたかったのか。己がいなくなった後、宮地が少しでも、自分を忘れるのが耐えられなかったのか。
宮地の視線も、思考も、人生も。最後のさいごまで。丸まる己のものとしたかったのか。
儚げに見えて、何という執念。
しかし、それでこそ妖の女だ。宮地も独り残されたとしても、そこまで惚れられていれば、さぞや本望であろう。
それに、もしやの事もある。誰がもう二度と、オオミズアオが蘇らないと断言できよう。
わたしはおんなから、桜の苗木を受け取った。借りを返す為ではない。
初めておんなに共感したからだ。
「わかった。私が責任をもって、育ててやる」
「良かった。みやこさん、責任感強そうだし、これで安心」
帰り際。
おんなは一路の眠るベビーベットを覗いて行った。
愛おしそうにおんなの細い指先が、赤子の頬を撫でていった。
「可愛い。本当に可愛い。ねえ、わたし半分だけあなたが羨ましい」
「半分だけ?」
「そう。お母さんになれた貴女が羨ましい。けれどそれは半分だけ。圭介さんがわたしのものであったら、他は何もいらないから。他の誰の人生もいらないから。それくらい満たされているから。羨ましいのは半分だけ」
そう言っておんなは無垢な、畏れを知らぬ少女のように笑っていた。
※ ※ ※
私は路地を抜け、車に乗り込んだ。キイを差し込み、エンジンをかける。
声にならぬ笑みが、ふと唇の端に浮かぶ。
ミラーに映るのは、こちらへ向かって駆けてくる男の姿だ。
宮地だ。
手には、私が置いてきた手紙が握りしめられている。もう読んだのか。
「おい! 待て!」
宮地が叫ぶ。見た目に反して実際は、相当な年なのだ。そんなに走ると危なくないのか。
足がもつれそうで、ひやりとする。
仕方がない。乗せていってやるか。出血大サービスだ。感謝してもらいたい。
私は助手席のドアを開けてやった。断りもなく宮地は、即座に乗り込んでくる。
「おい、これ! 本当なんだろうな!」
手紙を狭い車内で振り回す。
「私は手紙を読んでいないぞ」
「さくら。桜だ! 粋はお前の所に、桜を植えたと書いてある」
「桜の樹ならある」
「本当かっ!?」
「オオミズアオが宿っているかは知らん。だが同じ桜だ。スイはお前の道標だと言って、私へ託した。お前がほそくともスイの気配を感ずるならば、いずれは宿る可能性が、あるかもしれん」
「ああ! ああ。ああ……」
でかい躯を丸め。手紙を胸に抱き、宮地が震える。
「おい、車をだすからシートベルトをしてくれ。これじゃあいつまでたっても、家に帰られない」
「ああ、ああ」
手が震え、上手くいかないようだ。全く男というものは、手間がかかる。
宮地にシートベルトをさせ、車を発進させる。
おい。オオミズアオ。これもまたみえていたのか。どうなのだ。
どうやらお前の男は、残酷な希望を胸に抱いてしまったぞ。
夜の街をぬけて走る。家々の窓の灯りが、眩く映る。
隣の席ですすり泣く宮地は、酷く五月蝿い。だが不思議と不愉快ではない。
たまらなく、良人と息子の顔が見たい。
早く帰ろう。家族の待つ我が家へと。
何気ない日々のなかで、忘れがちになる幸せを私は噛み締めた。
愛するものの側に、今すぐかえろう。
粋の不吉な夢。「曖昧模糊としたトンネル」とは、桜の根元が腐っていく空洞でした。なので夢のなかでも、黴くさい風がふいていた。という設定になっています。
粋が桜の苗木をどのような気持ちで、八田家に託したのか。
本編の解釈はあくまで、みやこの考えです。作者の考えではありません。
正解があるとしたら、それは読者さまそれぞれの想像の通りだと思っています。