漆の参/翡翠堂たそがれ奇譚
数十年ぶりに訪れた門構えを見上げた。
路地のどん詰まりの家。
「翡翠堂」と書かれた大皿は、年を経てところどころ縁が欠けている。
今日はここまで、車を運転して一人でやって来た。
さて。宮地はどうしているものか。思案していると、奥から一組の男女が出て来た。
夕まぐれではあるが、男が宮地圭介ではないのは一目瞭然であった。体の線が細いし、小綺麗だ。
女は顔を伏せ、連れの男がその肩を抱いている。
項垂れていて尚、女の顔色が優れないのが見てとれる。男の顔も強張っている。不穏な様子に眉をひそめると、男と目が合った。
整った顔立ちに見覚えがあった。
それは向こうも同じと見えて、軽く頭をさげてすれ違う。女はすすり泣いていた。
門から続く砂利を踏みしめて行く。
庭へと回ると、地面にどっかと胡座をかいている背中がある。
記憶のものより、数段ちいさく見えるのは気のせいではなさそうだ。
「しつけえ!」
足音が耳に届いたのだろう。胡座をかいている男が声を張り上げた。
口からでた言葉は勇ましいが、普段の覇気がない。
これは心身共に相当まいっているのだろう。私はかまわず歩を進めた。
「しつけえぞ! キヨヒコ!」
男が再度怒鳴った。
「河童ならば、先ほど帰って行ったぞ」
私の言葉に、男がぎょっとした顔で振り返る。
乱れた髪の下。落ち窪んだ目は血走っている。
寝不足か、気が立っている為か。多分両方であろう。
「情けないぞ。醜態を晒すな、宮地圭介」
私の言葉に男が言下に、「うるせえ」と悪態をつく。
全くもって、変わらぬ。少しは品良くできぬものか。
オオミズアオの男の趣味が理解できぬ。
そこに居たのは翡翠堂の主。オオミズアオの番の相手。
やつれた宮地圭介であった。
座ったままの男の隣に立った。
見下ろす男の前には、小ぶりの重箱が置かれている。
男が用意したものとは思えぬ。先ほどすれ違った河童であろうか。
私の視線の先に気がついた男が、舌打ちをする。失礼な奴である。
見下ろした男の頭に、今日はタオルがない。六十過ぎとは思えぬ程豊かな頭髪が、乱れている。
生粋の妖の番だからか。混ざりものの私と番った良人よりも、若々しい。
出会った時と変わらぬくらいだ。
先ほどの河童の妻といい、宮地といい。妖と番った人間は、特別な時間を生きる。無限ではないが、時間のながれが周囲と違う。
「何の用だ。八田みやこ」
「八田ではない。とうに鈴木の姓にはいっている」
「……何の用だ」
「良人が胸を痛めている」
「……そうか」
多少は思うところがあるのか。宮地は、ばつの悪い顔をする。
「河童もそうであろう。周りの者は、皆心配している。性格の割にお前は、好かれているらしいな」
「性格の悪さなら、あんたよりはマシだ」
全くもって失礼きわまりない。
「オオミズアオも草葉の陰で嘆くぞ」
「粋は死んじゃいねえ!」
私の言葉に、宮地が吼えた。
「スイ。そうか、オオミズアオは、スイといったか。名を与えたお前ならば、絆はふかい。我らよりも、一層オオミズアオの気配は分かるはずだ。ここにはもう、いないであろう」
見下ろした桜の大木は無惨にも、根元から倒れている。
聞いていた通りだ。かがんで手を這わすと、ぼろぼろと木っ端がこぼれ落ちる。
腐っていたのだ。空洞もある。黴くさい。
「確かに」
宮地は食いしばった歯の間から、絞り出すように言葉を発した。
「確かにこの桜に、粋の気配はもう感じねえ。けど、どこかにあるんだ。ほそく、頼りねえけど。まだ俺は感じるんだ」
「そうか」
「ああ! そうだ。どっかに居るはずだ。桜じゃなければ、梅だって。紅葉だって、庭にはある。そのどっかにいるはずなんだ」
「そうか」
「そうだ!」
縋る様な声であった。普段の宮地からは、想像もつかぬ声であった。
「……その弁当食べてみろ」
顎でしゃくって、地べたに置かれた重箱を指し示す。
宮地が、「はあ?」と言うなり顔をしかめた。
「ずいぶん衰弱しているようだ。私も爺さん相手に鬼じゃあないからな。全部喰えとは言わぬ。喰えるだけでも喰ってみろ」
「何でだよ!」
「喰ったら、良い事を教えてやる」
「良いこと?」
「そうだ。スイの伝言をお前に教えてやる」
「粋の?」
「そうだ」
「……嘘言うんじゃねえ」
吐き出すように宮地が言う。
「失礼な奴だな」
「お前、粋と別段仲良くなかったじゃねえか。どうせ嘘っぱちだ」
「お前が知らんだけだ。まあ、いい。喰えないなら、時間の無駄だから、私は帰る」
踵を返そうとすると、宮地が「おい」と声をはりあげる。
嘘だと言っておきながら、未練たっぷりの声色だ。何でも良いから、心のより所が欲しいのだろう。
面倒くさい爺さんだ。
これだから芸術家肌は、扱いずらい。
「本当に。……粋の言葉を、お前が預かっているのか?」
「わざわざ今のお前を揶揄う為に、でまかせを言うものか。ちっとはその出来の悪そうな頭をつかって、ものを考えてみろ」
「……分かった。じゃあ喰ってやる」
恩着せがましく言うのは気に喰わぬが、まあいい。
観念したのか、宮地は箸を持つと律儀に両手を合わせた。
「いただきます」
海苔で巻かれた握り飯を頬ばりながら、宮地が顔を歪める。
「不味いのか」と聞くと、「うまい」と言う。
ならば何故に、そんな景気の悪い顔で食するのだ。作り手にも悪かろう。
「粋の握り飯だ。粋のと同じだ」
「気のせいではないか? 握り飯など、どれも似たようなもんだろう」
「粋のつけた梅干しだ。俺が間違えるかよ、畜生……」
握り飯を飲み込んで、次にだし巻卵を齧る。
「粋の味付けだ」
そう言いながら、左手で目元をさかんにこする。
「畜生。ちくしょう」
悪態をつきながら、喰らう。
こすっても、こすっても。こみ上げてくるものがあるらしい。眦は、すぐにも赤く染まっていく。
「喰いながら、悪態をつくな。見苦しいぞ」
「うるせえっ。くそっ」
ついに一粒涙が頬をながれ落ちた。私は知らぬふりをした。
「粋は……キヨが独り身の時。散々料理を教えていたんだ」
「そうなのか?」
「おお。夏が終われば、俺の世話をやけぬからと。……時々俺に作ってくれって。粋はキヨに頼んでいた」
「オオミズアオも。河童も。良い奴じゃあないか」
「……おお」
だし巻卵を噛みながら、宮地が目をうるませる。堪えるが如く、歯を食いしばって飯を食み、その合間あいまに、むせび泣く。
爺が泣いても、特別奇麗な絵づらではない。
宮地も後々気まずいであろう。私は視線をずらした。
そうすると桜の倒木が、自然視界にはいってくる。うろの内部が、夕なずむ時刻に一層暗く翳ってみえる。
オオミズアオは河童の清水清彦に料理を教えながら、何を考えていたのだろう。
自分がいない時間。宮地が少しでも過ごしやすいようにと、心をくだいていたのだろうか。
もし。私がそう先でもない未来に逝ったのなら。
気の弱い良人は。まだ若い息子はどうするだろう。
もし。良人が逝ったなら、残された私は日常をどうやって過ごすのだろう。
分かってはいる。どちらかが、いつかは先に逝く。
どちらかが、ひとり残される。
分かっていても、いざその時になれば、どうなるのかが想像もつかない。考えるだけで息苦しい。胸がきしむ。
「粋。……粋」
恋女房の名を呟きながら、宮地がおうおうと泣き出した。
視線を向けると酷い有様だ。泣きながら食べているせいであろう。上手く飲み込めないのか、花形に切られた人参が口からのぞいている。
「おい、喰うか。泣くかどちらかにしろ」
「くそっ、だから……キヨの飯は喰いたくなかった。嫌でも思い出しちまう。粋、粋。粋」
もはやこらえようも何もないのだろう。宮地は箸を置くと、地面に大きな躯を突っ伏した。
私は宮地を残して、翡翠堂を後にした。
夕まぐれはとうに過ぎ、秋の澄んだ夜風がしめやかに吹きすさぶ。
風に飛ばぬようにして、手紙を置いてきた。今夜は明るい月夜だ。泣き疲れたら、宮地も気がつくだろう。
手紙はオオミズアオが書いたものだ。
どんな内容なのかは知らぬ。平皿を手に我が家を訪れた日。自分に今後なにかあったなら、宮地へ渡して欲しいと預かったものだ。
翡翠堂の門を抜け、狭い路地を車までひとり歩く。
そうしていると、自然おんなの言葉を思いだした。
口はよろしくないが、結構律儀で良い方なのがみやこさん。
河童といたのは、勿論しな子さんです。河童が「こいし恋し」で料理が上手。という設定は、ここへつながる予定でした。つながって良かったよかった。