漆の弐/翡翠堂たそがれ奇譚
オオミズアオと会ったのは、覚えている限りで三回。
初めての出会いから四半世紀がたつ事を思うと、僅か三回である。
だがそのどれもが、鮮明に私の脳裏に焼き付いている。
激しい夕立。
蒸し暑い夏の午後の、きんと冷えた冷房。
紺碧の空と入道雲。
咲き誇る夏草の匂いと、けだるい時間。
思いだせる風景はいつも夏だ。
良人が宮地から、風鈴と団扇をもらい受けてきたことがあった。あの不思議な風鈴は、対の団扇の風を受けると、恋の歌を奏でたものだ。一度だけ使い、わたしはそそくさと納戸にしまった。
よくもまあ、中年男があのような気恥ずかしいものを造ったものだ。
私が知っている粗野な男の仕業とは思えなかった。
こうして思い返せば、秋にあのおんなを思うのは初めてかもしれない。それは宮地も同じだ。己が囚われたおんなとの思い出は、常に夏の風景のなかだけであろう。
夏の暑さがやわらぎ実り豊かなこの季節を、オオミズアオは外で過ごした事がない。
厳しい冬も。
己の桜が咲き誇る芽吹きの春も。オオミズアオはこの世にいなかった。
※ ※ ※
良人と息子は饅頭を食べながら、共に茶をすすっている。男二人の背後にあるサイドボードには、深みのある蒼い皿が一枚立てかけてある。
皿には夏の大三角。デネブ。ベガ。アルタイルと共に宮地の筆で、西暦が記されている。
一五年前の夏。
滅多に外を一人では歩かないオオミズアオが持って来たものだ。
「ご長男誕生おめでとうございます」
そう言うと、突然やって来たおんなは、ふわりと微笑んだ。
※ ※ ※
暑い日であった。
日傘をさしたおんなは、長い髪をアップにし、細くしろい項を頼りなげに晒していた。
おんなの着ていた、浴衣の柄をよく覚えている。
うすい翡翠色の地に、桜模様の華やかな浴衣であった。
どこで聞いてきたのか。お祝いですと、風呂敷包みを差し出すおんなを、追い返せるわけがない。
赤子であった息子は丁度眠ったばかり。わたしはおんなを居間へと案内した。
その日。家のなかは私と息子だけであった。
これは普段檀家さんや、妖小僧の出入りの激しい我が家では、珍しいことであった。
まるで狙い定めたかのように、おんなはそんな時間に、するりとやって来たのだ。
「おかまいなく」
私の向かい側に腰をかけて、冷たい緑茶を飲むおんなは美しかった。
初めて会った時にはなかった、艶っぽさがちいさな躯全体を包んでいた。
ああ、宮地と上手くいっているのだな。そう思わせる雰囲気を醸し出していた。
見るとおんなが持ってきた風呂敷は、数年前に宮地のタオルを包んだものではないか。
「こんな物。まだとっておいたのか?」
呆れて問うと、「ええ」とおんなが微笑む。
「お返しできて良かった」
嫌みではなさそうな口調であった。
風呂敷を解くと、出てきたのものが蒼い平皿であった。
黒にちかい深みのある蒼を地に、白い点が散っている。おんなが慣れた調子で点を指差していく。
「琴座のベガ。白鳥座のデネブ。鷲座のアルタイル。ベガが織り姫でアルタイルが彦星。圭介さんの造った夏の星空のイヤープレートです。奇麗でしょう」
「イヤープレート?」
言われてみれば、確かに西暦が書かれている。
県展で賞をとっている作品とは別に、宮地は活計の為にと普段使いの皿も造っている。
我が家にも何枚かあるはずだ。だがこれは、其れらとはかなり違う作風だ。
「宮地の作にしては、ちと可愛いな」
思ったことをつい口にした。
「河童のキヨちゃん。知っています? 清水清彦くん。小間物屋をしています」
「懇意にはしていないが、知っている」
河童とサンショウウオ。
共に水の妖だ。これといった付き合いはないが、人の世に暮らす数の少ない妖同士。互いに顔だけは知っている。そう告げると、おんなが言った。
「キヨちゃんがデザインしたから、可愛いらしく仕上がったのかもしれません」
そういう事か。
河童の清水はまだ若く、宮地よりもよほど優男だ。
この皿も清水が考案したのならば、分かるというもの。
「しかし、わざわざこれを?」
「ええ。だってあなたから、お礼を言われたくって。わたしの言った通りだったでしょう?」
軽やかに。しかし目を光らせて、オオミズアオはそう言った。
そうだ。
気に喰わない事に、私は過去にオオミズアオの世話になっていた。
当時は偶発的だと思っていたが、今日のこの顔付きを見る限り、どうにも怪しい。最初からの謀にも思えてくる。だからといって世話になったのは事実。
「あの時は世話になった。おかげで跡継ぎが無事産まれた」
頭を下げると、「良かった。ではわたしのお願いも聞いてもらえますね」
抜け目なくおんなが言う。
流石は妖。
見た目程単純で純粋無垢というわけではないようだ。だがかえってその方が私としては気が楽だ。受けた恩は、返せる時に返した方が良いに決まっている。
「なんだ? 八田にできることなら、手助けするぞ」
「そう言っていただけると、思っておりました」
確信に満ちた顔でおんなが言った。