漆の壱/翡翠堂たそがれ奇譚
朝餉の用意をしていると、寺の小僧共が騒がしい。
何かと思って庭へ下り、声をかけると、なかの一人が青ざめた顔でやってくる。
翡翠堂のオオミズアオが、昨夜亡くなったという。
そんな馬鹿なことがあるわけがない。
あれは妖。
そうそう簡単に死ぬわけがない。
たちの悪い冗談を言うものではない。そう嗜めたが、皆きかぬ。
昨夜の台風並みの強風で、オオミズアオが宿っている桜の樹が、根元からばっさり倒れたというのだ。その後。翡翠堂の主が嵐もかまわず半狂乱で桜へ取りすがり、声を限りと呼びかけているにも関わらず、今だ応えはないという。
どうにも桜と共に、オオミズアオの寿命も散ってしまったのではないか。そう言うのだ。
成る程。
それはあり得ない話しではない。憑り代を失った妖が消えるという事態は、たまさかある。
翡翠堂の主といえば、我が良人の兄弟子である。
私は世話になった覚えはないが、良人はとかくあの男を兄い、あにいと慕っていた。ここはひとつ知らぬ仲でもなし。様子を見てくるにこした事はなかろう。
「誰か。この話し、どこまで本当なのか探っておいで。但し宮地圭介が荒れていたら、近づかないことだ。分かったね」
宮地は確か、還暦を過ぎているはずなのだが、未だ血気盛んだと風の噂で聞いている。
蛙と鮒頭の小僧がふたり。
おっかなびっくり素っ飛んで行く。
庭に立ち、仰いだ空は、どこまでも高く澄んでいる。
昨夜の風など夢のように、穏やかな秋空だ。
もし。本当の話しならば。
宮地圭介は最愛の妻の死に顔を、見られなかったということになる。
見渡す風景のなかで、秋の落葉を始めた樹々が目に止まる。この世界のどこにも、もはやあのおんながいないなど、宮地がすんなりと受け入れるはずがない。
それは予感ではなく、確信であった。
※ ※ ※
宮地圭介と私は、浅からぬ縁がある。
我が良人。
当時は恋人であった鈴木 浩平がかつて勤めていた「六角窯」の兄弟子にあたるのが宮地である。
私と出会ったばかりの頃、恋人はとかくこの宮地なる男に懐き、相談を持ちかけていた。
お人好しで、ちと抜けている恋人と比べ、宮地圭介は良く言えば職人気質。
悪く言えば傍若無人であった。
あまり付き合いやすい性格ではない。
だがあくまでも恋人の友人。それ以上の付き合いはない。それが宮地であった。
そのままであったのならば、私と宮地との間に、特別な縁などうまれなかった。
付き合って数ヶ月が過ぎた初夏の頃。
恋人が得体の知れぬ匂いをつけてくる様になった。
うっすらと躯にまとわりつく、怪しくもかぐわしい香りであった。
すわ浮気かと疑った。
だがここで正面きって問いつめて、逃げられるわけにはいかない。
当時私と恋人の仲は、長きにわたった意見の相違がやっと納まり結婚話しへと向かっていた。多少情けないところはあるものの、私は心底恋人を好いていた。
丸く可愛い頭の形も。単純明快で馬鹿で御し易いところも好ましい。
だからこそ慎重にいくことにした。
寺の小僧共に、見張らせること数日。
すぐにも匂いの出所は分かった。
宮地が追いかけ回している、おんなのものであった。匂いは宮地からの移り香であったのだ。
これには正直驚いた。
なに、宮地がおんなに熱をあげているのに驚いたわけではない。
宮地は恋人より一回り年上。当時すでに四十ちかい。おんなを欲しがったところで、何ら不思議ではない。おどろいたのは、かのおんなが人ではなかったからだ。
翡翠色の羽をもつ、蛾の化身。
桜の樹に宿るオオミズアオ。そのおんなの発する花の匂いが宮地を通して、恋人に移っていたのだ。
浮気よりは良い。だからといって、余り面白い事ではなかった。
我ら妖のなかには己の意中の相手に匂いをつける者がいる。
いわば周囲への無言のアピールのようなもの。
この者は己の所有物。何人なれど近づくなという独占欲を見せつけているわけだ。
いくら移り香といっても、それを恋人がまとうのは腹が立つ。
私は件のおんなに会ってみる事にした。おんなに文句のひとつも言ってやりたかったのだ。
チャンスは婚約の祝賀会で作った。
会のどさくさに紛れ、宮地の持ち物を、こっそりと拝借したのだ。「忘れ物です」と、宮地のかまえる「翡翠堂」へと届けると、件のおんながいた。
同性から見ても、華奢な躯つきをした愛くるしいおんなであった。
ましてや宮地のような無骨な男から見たら、さぞ庇護欲をそそる事であろう。
おんなの宮地への独占欲。私へ向ける悋気。
そのどちらもがおんなは意識してやっていない。
私は一目見て、気に喰わない。そう感じた。
私と違い生粋の妖であるというのに、まるで女学生の如く純情で、宮地との間に線をひいている。その態度が。諦めの色をのせている瞳が。何もかもが私と違っていた。
これは私とは相容れないものだ。そう確信した。
欲しい男がいるのならば、迷わず手を伸ばし、己のものにすれば良い。
ましてや宮地は望んでいるのにしないとは。
気が知れぬ。
文句を言うのも馬鹿馬鹿しくなった。
このおんなと会うことはもうあるまい。
そう思って背を向けた。だがあにはからん。
オオミズアオは、この後。私の人生に無くてはならぬ者となったのだ。
※ ※ ※
「……もう見ていられない」
ソファーのうえで肩を落として呟いているのは、良人である鈴木浩平だ。
あれから一週間。噂は本当であった。
オオミズアオの気配はなくなり、桜の大木は翡翠堂の庭に無惨な姿を晒している。
宮地は飲まず喰わずで、傍目からは意味不明の行動を繰り返しては疲労で倒れ、病院へ担ぎ込まれている。そして病室で目覚めると点滴を勝手に外し、脱走を繰り返す。
「それはなんとも、剛毅なものだな」
わたしの感想に、良人が更に項垂れる。
「宮地さん。もう六十を超えているっていうのに、何やってんだか……あの人」
近しい親族のいない宮地の為に、良人は入院の保証人をしてやっている。
それにより、一層の気苦労を背負い込んでいる。
金品の問題ではない。宮地の勝手気侭な行動によっておこる医師からのおしかりを、全て請け負って疲れ果てているのである。
お人好しの良人らしい。
宮地圭介といえば、今や美術愛好家のなかではそこそこ名が売れている陶芸家だ。
豪放磊落。
それでいて繊細。作品と作者像が見事に合わさった男で、それなりにファンもついている。
さらには年齢を感じさせない若さが、一部のご婦人方から人気であるらしいのだが、これは宮地の努力の賜物ではない。それでいったら、我が良人の若さも同様なのだ。
「いいんだよ。医者から嫌み言われるくらい。檀家さんの小言に比べたら、ちょろいもんさ。けど宮地さんの落胆を目の当たりにしていると……正直何と言ってよいのか、分からない。情けないけど、声もかけられない」
想定通り。良人の落ち込みようといったらない。
良人に陶芸の特別な才はなかった。
今は寺の事務を仕切りながら、ほとんど趣味の域で土を捏ねているにすぎない。
己が道なかばで諦めた陶芸の世界で名をなしている宮地は、良人にとっては憧れとでも言うべき存在だ。その兄弟子の不幸に胸を痛めて、更には不甲斐ない己に苦しんでいるのだろう。
全くもってひとが良い。
「親爺の方が、まいっているんじゃないの?」
いつの間に戻っていたのか。居間にのっそりと現れたのは、学生服姿の息子であった。
八田 一路。
結婚十年目でやっと授かった一粒種の息子も、もう高校生である。
私が鈴木の姓にはいったので、息子には実家の八田姓を継いでもらっている。結婚の時の約束だ。
顔立ちは母親である私に似ているが、おっとりして優しい性格は良人似だ。
いや、それ以上に。ひととしての性しか持っていない息子は、良人そのものだ。
生まれた当初はサンショウウオの化身。八田家の跡取りをと熱望していた父も、孫可愛らしさで今では口にもしない。
寺さえ継いでもらえたらと。孫の機嫌をとっては、ねこ可愛がりをする迷惑な爺である。
「父さんも大変だね」
腹ごしらえに、檀家さんからの差し入れの菓子を食べながら息子が言う。
息子は宮地家とは面識がない。
良人の話しから、父親の若かりし頃の友人としか知らない。
宮地はともかく。オオミズアオがいなければ、今ここに息子はいなかったのかもしれない。
その事実を、息子も。良人も。
宮地さえ知らないはずだ。
これは私とオオミズアオだけの秘密であった。