陸の肆/翡翠堂あらまし奇譚
暮れていく宵の空。
軒下に吊るされた風鈴が鳴る。
ちりちりと軽やかな音を奏でる。
陶器の風鈴は圭介さんのお手製だ。轆轤を使わぬ手びねりで、一つひとつ丹精こめて毎年造っている。
河童のキヨちゃんの小間物屋「しみず夜」に主に卸しているのだが、その年一番のものは手元にとって置いて、こうして翡翠堂の軒下に吊るされる。
圭介さんが風鈴を造り始めたのは、わたし達が夫婦になって、初めて迎えた別れの季節。
八年前の秋からであった。
※ ※ ※
「どうよ。この出来」
圭介さんが胸をはっていた。
夏の日焼けが残った顔を、子供のように誇らしげに輝かせていた。
八年前の秋。わたしは桜のなかで、じっとその様子を見つめていた。
圭介さんは居間へと続く縁側に座っていた。
隣にはキヨちゃんが座っていた。彼の手土産だろうか。二人の間には、大量のたこ焼きが置かれていた。湯気をたてるたこ焼きを頬ばりながら笑っている圭介さんを見つめていると、彼の側に駆け寄れない自分が、たまらなかくもどかしかった。
「前の奴より小ぶりですね」
キヨちゃんが手に取っているのは、風鈴の試作品だ。
三人で行った川辺の祭りの後。圭介さんは風鈴造りを始めた。
轆轤を使わない手びねりは、久しぶりだと夢中になっていた。その成果なのだろう。様々な形の陶器の風鈴が並んでいる。
「おう。変わりに舌を大きくして、音をより響かせようと思っている」
「ぜつ?」
「これだ」
そう言って圭介さんが取り出したのは、小さな部位であった。
短冊をつけ、舌は風鈴とぶつかる事によって音を奏でる。
丸いもの。
涙型のもの。
長方形。形は多々あるが、どれも短冊を吊るせるように穴が空いている。
「真鍮ですか」
キヨちゃんがひとつ手にとって、重さを確かめるような動作をする。
「おお。真鍮は音がいい。だが全部一から作りてえ気持ちがあるから。舌もいっぺんこしらえて、焼いてみようかと思ってる」
「うーーん。結構な手間隙じゃあないですか?」
「いいんだよ。それで」
大きく両手をあげて伸びをすると、圭介さんはさらにたこ焼きを頬ばる。
きちんと食べていないのだろうか。あの人は仕事にのめり込むと、簡単に食事を忘れてしまう。
「職人なんざ手間隙かけて、なんぼだ。手え抜いてみろ、独立していたって師匠にすぐさまどやされる」
「しかし商売物ですからね。コストは考えなきゃあ」
「そこんとこは、おめえに任せる」
「ええっ? 僕ですか?」
大袈裟に驚くと、キヨちゃんがあからさまに顔をしかめた。
「僕は翡翠堂の経理担当じゃあないです。しみず夜で、仕入れて売るのが仕事です」
「いいじゃねえか。ケチ言うなよ。どうせまだ彼女できなくて、暇持て余してるんだろ」
「……余計なお世話です」
キヨちゃんの仏頂面にお構いなしに、圭介さんがげらげら笑った。
今でこそキヨちゃんには愛おしい人がいる。
端で見ていても、微笑ましい恋人たちだ。けれどこの時は、全くの独り身だったのだ。
「まあ、いいさ。手間はかける。しかし一番に考えるのは、買ってくれるお客さんだ。より良い音色が真鍮製だったら、そっちに切り替える」
「それが良いです。試行錯誤は大事ですが、商売ですから。真鍮製の仕入れルートはあるんですか?」
「任せておけよ。だてに六角窯で長年くすぶっていたわけじゃあねえ。兄弟子としてあっちこっちと、顔だして、地域の職人仲間とは結構馴染みなんだ」
「そうですか」
「おお、そうだ。明後日職人仲間の飲みがあるんだ。お前も来いよ」
「僕、職人じゃあないですよ」
「かまわねえ。職人が仲間うちでわいわい飲んで盛り上がるだけだ。嫁さんや恋人連れてくる奴もいる。しみず夜の仕入れルートも拡大できるぞ」
「それはいいですね!」
弾んだ声で、キヨちゃんが応える。
楽しそうな二人の様子に安心しながらも、わたしの心は乱れていた。
圭介さんが楽しそうで嬉しいはずだった。なのにわたしが居なくても楽しそうな圭介さんの姿に、寂しさを感じていた。
そうだ。この頃からだったのだ。
わたしの夢に、不吉なトンネルが現れ始めたのは。
※ ※ ※
圭介さんは試作品の風鈴ができる度に、桜の枝に吊るすようになった。たくさんの風鈴が、枝で揺れる様は賑やかだった。
「五月蝿いと、そのうちご近所から苦情がでますよ」
キヨちゃんにそう言われ、短冊をつけぬ上ものだけを吊るす事もあった。
うす闇のなかで目をぽっかりと開ける。
するとそこに、ゆらゆら揺れる風鈴がある。風鈴は風に揺れ、ちりちりと音をたてる。
圭介さんは吊るす度に、桜にむかって語りかけてくれた。
「音が奇麗にでるように、鉄分を多く含む土にしてみた」
「素焼きだとあまり響かない」
「釉薬の割合を変えてみた。粋ならどっちが好きだ?」
「金属系の釉薬にした。緑青が強くでるが、良い色だろう」
「もう少し小ぶりの方がいいと思うか?」
「キヨが、音も大事だが形にも特徴をだせと、生意気に俺に指図する」
「粋はどう思う?」
「これが一段落したら、冬の県展の作品造りをしなきゃまずい。師匠にどやされる」
「ひすいの球は俺にとっての粋だから、絶対手抜きなんてしないのにな」
「粋、粋。俺の風鈴気に入ってくれているか? 聞こえるか? お前を思って造っているぞ」
風鈴の音が聞こえると、不思議とわたしの気持ちも落ち着いていった。
彼の気持ちがここにある。そう思えると、わたしの中の乱れる思いは、すっと凪ぎいていく。
風鈴はまるで、よく効くお薬のようだった。
※ ※ ※
わたしが風鈴を見上げていると、圭介さんが工房から出てきて隣に並んだ。
「この頃、なんだかばたばたして悪かったな」
わたしの頭を撫でながら、圭介さんが言う。
撫でる指先からこの人の優しさが滲んで、染み込んでくるようであった。
「浩平さん。上手く仲直りできますよ」
「そう思うか?」
「ええ」
「けどあいつ、ヘタレだからなあ」
「きっと大丈夫。妻の勘です」
「粋の勘なら当たるな! きっと」
圭介さんが快活な笑みをもらす。
ええ、きっと大丈夫。わたしも微笑みを浮かべる。これは勘などではない。妖としての確信だ。
だってあの女はずっと浩平さんを気にかけて、はりついていた。
あの泥。
浩平さんの足元から落ちる土塊は、粘土ではなく乾いた泥だった。
わたしが泥の正体に気がついたのは、朝食後に彼を見送った時だ。
翡翠堂を出て、路地を歩く浩平さんの足元から泥は俄に涌き上がり、彼を包みこむ様に広がっていった。
浩平さんが、夏の乾いた歩道を行く。スニーカーはあるはずのない泥土に埋まる。あれはサンショウウオの女の情念だ。
愛おしくて、離れがたくて、けれど少しだけ憎く思っている。女の思念が具象化したものだ。
ひとである圭介さんや浩平さんには目にできない。できたとしても、すでに渇き土塊と化したものだけだろう。サンショウウオの女は、浩平さんが自分のあずかり知らぬ場所に行くのを妬いたのだ。
浩平さんの己に向けられる恐れに、怯えたのだろう。
全く妖らしい感情だ。
人と番った妖は、人間以上に相方に執着する。
わたし達にとってそれほど番う相手は大切なもの。唯一無二の存在なのだ。
馬鹿な浩平さん。
いくら心配しようが、怖がろうが。離れる事など、もはや叶わないのに。
わたしは圭介さんにそっともたれた。彼の手が、わたしの頭から肩へとまわされる。
「しばらくは二人でゆっくりしていたいです」
「おお。二人でいよう」
「はい」
わたしの眺める世界に、絶望はない。
ただあるがままを受け入れるだけだからだ。しかし寂しさはある。
圭介さんと会えない季節。
わたしは寂しさを常に胸に抱いている。
その寂しさをこめて布を織る。夏になったらその布で団扇を造る。そうして圭介さんの風鈴を鳴らすのだ。
風鈴は団扇の風を受け、恋の歌をうたう。
こいしい。恋しいと唄うのは、わたしの圭介さんへの気持ちだ。
先見のトンネルからは、しんしんと黴びた風が今でも吹込んで来る。
トンネルの向こう側に広がる未来を考えると気が滅入る。
けれど。まだ大丈夫。
まだ時間はあるはずだ。
その間に考えよう。
この人がまっすぐ前を向き生きていける道標を。それがこの人の手をとった、わたしのすべき事なのだから。