陸の参/翡翠堂あらまし奇譚
夜半。
ぽかりと目が醒めた。
どうしてなのか。
すぐにも分かった。隣の布団が空っぽだ。
寝ているはずの圭介さんがいない。
枕元の時計を手さぐりでたぐり寄せた。蛍光文字は夜の一時過ぎを指している。
そのまましばらくの間黙って仰向けになっていた。けれど圭介さんは戻って来ない。お手洗いではなさそうだ。耳をすますと、ぽつぽつと聞こえてくるものがある。
人声なのか。
テレビの音か。とにかく声がする。
わたしはそっと起き上がると、寝室に使っている和室から廊下へと出た。
締め切った窓の向こうから、虫の音が聞こえてくる。空気は日中の暑さの余韻で湿って感じる。足音を忍ばせて廊下を行くと、居間の扉の隙間から、うっすらと灯りがもれている。
もしかして。
圭介さんは暑くて眠れないのだろうか。
居間の扉に手をかけて。そこでわたしは圭介さん以外の声に気がついた。
そっと。僅かばかり扉を開ける。
うすい隙間から、こちらに背を向けて座る男ふたりの後ろ姿が見えた。
圭介さんと浩平さんだ。
いつの間に来ていたのだろう。サイドテーブルの上には、グラスとお酒の瓶がある。
「おめえの言い分も分かる」
圭介さんのひそめた声が夜の居間に響いた。
「けどな。今更そんな事言い出したってしょうがねえだろう」
「今更だからです」
浩平さんが腹の奥から絞り出すような声をだす。
「俺は知らなかった。宮地さんは良いですよ、はなから知って結婚したんだ」
結婚。わたしの事?
扉にかけた拳が、緊張でさっと強張る。
「知ってたら、おめえは結婚しなかったって言うのかよ」
「……そんなの、分かりません」
「まあ、そうだろうな。そん時知ってどうするか、なんて想像でしかない。けどあの当時すったもんだはあったとしても、おめえが惚れていたのは事実だろうが」
「そりゃあ……」
「散々俺らに惚気ていたんだ。窯の皆が聞いてる。」
「……」
「迷っていたのも知っている。おめえが寺嫌いで、付き合っている最中に別れそうになった事だって知っている。けど最終的に決めたのはおめえだ。別に騙されて一緒になったわけでもねえだろう。あんだけ盛大に式だってやったんだ」
「そうっすよ」
浩平さんが項垂れた姿勢でぼそぼそと話す。
声は小さいが夜のしじまのなかでは、くっきりと聞こえてくる。
「俺の家族だって皆喜びましたよ。結婚が決まって、逆玉だって親兄弟に言われました。なにせ俺は小せえ時から馬鹿で不器用な奴だったから、それが惚れられて、あんなでっけえ寺の娘さんと結婚するんだ。両親だって安心してました。寺の敷地に窯だってたててもらった。これでお前の将来は安泰だって皆ばんばんざいでした。でもこのごろは……。全然だ。たまに実家に帰ると俺を腫れ物みたいに扱うんす。宮地さん。……俺いくつに見えます?」
「いくつって、おめえ三十三、四じゃねえのか?」
「それは宮地さんが、俺の年を知っているからでしょう」
浩平さんは疲れた顔で、ゆっくりと圭介さんの方を向いた。その横顔がわたしからも見えた。逃げ場のない、追いつめられた動物の様な眼差しだった。
嫌だった。そんな目で圭介さんを見て欲しくなかった。
「俺、二十五で結婚しました。そっからほとんど変わらねえんです。俺だけじゃあねえ。みやこも。みやこの親爺さんも。たまーーに、遠方から戻って来ちゃあ、顔をだすお袋さんも。変わらねえ。年をとらねえ。それで気がつくなって言う方が可笑しいじゃあねえですか。いっくら俺が阿呆だからって、嫌でも気づきます。けどみやこは俺が阿呆のまま、気づいちゃあいねえって思ってるんだ。俺はそれでもいいんすよ。阿呆のこうちゃんでいいんす。けど、時々胸がぐっと苦しくなっちまう。このままずっと本当の事を話してもえなくて、そんで家族っていうんすかね。そう考えると、どっかでこの辺りが」
そう言って浩平さんは、胸のあたりのシャツを掌でぎゅっとつかんだ。
「ひえてくるんすよ。ねえ、宮地さん。宮地さんは奥さんと一緒にいて、怖くなったりしないんすか?」
圭介さんが今どんな表情をしているのか、わたしの位置からは分からない。怖かった。見えない圭介さんがどんな顔をしているのか。どんな言葉を言うのかを想像すると、わたしは怖くてたまらなかった。
駄目だ。この男の言葉は毒になる。
わたしは思わず扉を開けかけた。その時だ。圭介さんの言葉が、わたしを押しとどめた。
「……おっかねえのは、お互いさまだろうが」
圭介さんの言葉に、浩平さんがはっと顔をあげた。
「やっぱ宮地さんだって、怖いんすか? ですよね。宮地さんだって、ちっとも変わらねえ。昔のまんまだ。やっぱ俺の気持ち分かってくれるのは宮地さんだけだ!」
勢いこんで浩平さんは叫んだ。圭介さんが浩平さんに向き合う。つり上がった目元に、わたしは動く事ができなかった。圭介さんの顔にあるのは、怒りだった。
「馬鹿っ!!」
圭介さんが遠慮なく、浩平さんの頭を叩く。
「俺が粋を怖いわけ、ありゃあしねえ。馬鹿かお前は!!」
「でも……」
「おめえが怖がっていたら、相手だって怖がる。そんなもんだ。惚れて一緒になった女と家族を怖がって、どうすんだよ」
「だって。……だって、圭介さん。みやこは人間じゃあ……」
「けど惚れた女房だ」
圭介さんは浩平さんに、みなまで言わせなかった。
浩平さんの両肩をがっしと掴むと、真剣な口調で諭すように言う。
「惚れちまったら、しゃあねえじゃないか。好いて一緒にいるんだ。誰だって喧嘩だってする。いがみ合いにだってなる。けど、そんなもん全部ひっくるめて、もうしゃあねえんだ。腹あくくれ、浩平。おめえは相手が言ってくれないと言ったな。じゃあ、おめえは言ったのかよ? 向い合って話しあったのかよ?」
「俺には……聞けない」
「なんでだ。なんで聞けない」
「聞いたら、もう後戻りできなくなっちまう」
「アホンダラ」
もう一度。圭介さんが叩く。
キヨちゃんの言う通り。圭介さんはなかなか手が早い。
「じゃあ聞かねえで、耳の穴ふさいだまま、てめえ一人で後戻りする気かよ」
「いや……それは」
「するのかよ? できんのかよ?」
「……無理っす」
浩平さんが絞り出すように言った。膝に置かれた彼の拳が、力いっぱい握られ震えている。
「だったら、できもしねえ事でぐだぐだ悩むんじゃあねえ。おめえが不安になってる分、相手だって不安になる。俺ら馬鹿なんだから、グダグダ考えたっていいことなんざ思い浮かぶかよ。器と一緒だ。手を動かさずに、轆轤が廻るかよ。廻すためにゃあ、土を捏ねて、両の手を動かすんだ。器を造るためにゃあ、窯に火をいれるだろうが。動きながら考えろ」
「……」
応えられない浩平さんの肩をたたくと、圭介さんが唇の端をにやりとあげた。そこに怒りはもうなかった。
「年をとらねえなんざ、いいじゃあねえか。医者知らずだ。俺は百になっても二百になっても、粋といるんだ。そんでもって、器を造っている爺になるんだ」
圭介さんが大きく笑う。
「宮地さん、それギネスにのるっすよ」
呆れたように浩平さんが言う。
「いいじゃあねえか。職人は健康第一って、六角師匠も言っていた。お前と違って、俺はかっけえ爺になるぞ」
「俺……宮地さんと話すと元気になるっす」
「おお」
「頭つかって考えるのが、馬鹿ばかしくなるっす」
「浩平。てめえ、兄弟子にナニでけえ口叩いていやがる」
宮地さんが浩平さんを背後から締め上げる。浩平さんは、「痛い。いたい」と悲鳴をあげながらも、どこか朗らかだ。
この家に来て、初めて笑っている浩平さんを目にした。
わたしはそっと扉を閉めた。
廊下を元来た方へと戻る。
妖と結ばれた人間の多くは程度の差こそあれ、時間の流れが他の人とは異なってくる。
妖に連れ添うためなのか。
妖の気を知らずしらずのうちに、体内に取り込んでいるためなのか。
皆総じて長い時を生きることとなる。浩平さんの奥さんはきっと、あのサンショウウオ。
混じりものの八田みやこなのだろう。
部屋へ戻り、わたしは布団に横になった。
目を閉じると、キツい目をした八田みやこの顔がぽっかりと浮かぶ。ずっと思いだしもしなかったのに、女の容姿は鮮明だ。
きつく上がった眦をしていながら、今夜の女の目はたわんで見える。今頃はあの女はひとり。帰って来ない亭主を思って、悶もんとした思いを抱いているのかもしれない。
夜はしんしんとおちてくる。
わたしはひとり。
眠りについた。
※ ※ ※
翌朝。
居間では男ふたりが、床とソファーでだらしなく眠っていた。
朝食の用意をしていると、まず圭介さんがソファーからのっそりと起きてきた。無精髭の生えた顔で、台所に立つわたしの後ろから抱きついてくる。息がお酒臭い。
「粋」
「はい」
「おはよう」
「はい。おはようございます」
「昨日は飲み過ぎた」
「まったくです」
「目が開かねえ」
「顔を洗って来たら、さっぱりします」
「うん」
そうだなと呟くと、わたしのつむじに接吻を落とし洗面所へ消えていく。
戻って来ると、まだ床のうえで寝こけている浩平さんを足蹴で起こす。
「アホンダラ、さっさと起きやがれ!」
「ううう。みやこ。頭が痛い」
「馬鹿。俺だ。嫁さんと間違ってるんじゃあねえ」
がばと起き上がった浩平さんは目をしばたかせ、やがて無断外泊をしてしまったと青ざめた。
「どうしよう! 宮地さん。俺殺されちまう」
「一回殺されろ」
けれどそう言いながら「かけろ」と、電話を差し出すのだから、心根はお節介で優しいのだ。
わたしはそう結論つけた。
朝食を終え、何度も頭を下げて浩平さんは帰って行った、
憑き物が落ちたように、朗らかになった彼は朝食の席で五月蝿いくらいによく話し、その度に圭介さんに、「うるせえ!」と怒鳴られた。
帰り際。
「もう一度。窯に火をいれます」
「おお。おめえ下手なんだから、俺の百倍修行しろ」
「はい。それと」
そう言うと、浩平さんはちらとわたしに視線をよこした。
不安がっている目つきではなかった。
「みやこと、ちゃんと向き合います。お世話になりやした」
深々と頭をさげる。
その彼の足元に、わたしは泥を見つけた。
よく晴れた夏の朝なのに。
泥はつい今しがた時雨が通った後のように、黒くねっとりと濡れていた。