陸の弐/翡翠堂あらまし奇譚
その夢を見るようになったのは、いつからだったろうか。
秋から冬。
そして花開く春。たくさんの季節を、わたしは桜のなかで過ごしてきた。
夏以外のわたしは、微睡みの時間にいるのがほとんどだ。
時には長い間意識がしっかりしている時もある。だが大抵は何もせず、夢も見ず、こんこんと眠っていた。
それなのに時折奇妙な夢が、微睡みの時間に忍びこむようになったのだ。
夢のなかでは、いつも遠く。
トンネルのようなものがある。しっかりとした形のものではない。薄墨で描かれた筒のようであり、全体的に曖昧模糊としている。
その口から、時折生あたたかい風がわたしの居る場所まで吹き付ける。
湿った風はどこか黴くさく、わたしの胸はざらざらとした嫌な予感に震えた。
そういう時は、一刻も早く圭介さんに会いたくなった。
だが願っても叶いはしない。わたしは会えない彼を思って、布を織る。
わたしの事を考えていてくれる?
忘れていない? わたしは貴方に会える日を、指折り数えながら待っている。
手を動かしていると、少しだけトンネルから吹きつける風を忘れられた。
わたしの見る夢は、時として未来の欠片を伝えてくる。
ご隠居さまがわざわざ伝えにきたのは、多分この夢の事だ。
不吉な夢に気をつけるように。そう言いたかったに違いない。
だが今迄わたしは知り得た未来を、どうこうできた試しがない。
絢子さんが徐徐にうすくなっていくのも、手をこまねいて見ていただけ。
ちかい将来を見ることができるのに、わたしにできる事は黙って受け入れる。それだけなのだ。
※ ※ ※
この夏。圭介さんを、連日訪ねて来る人がいた。
小柄な男性で、彼はいつも一人でひっそりとやって来る。
顔立ちを見ると賑やかそうであるのに、口は重い。表情も暗い。
圭介さんを訪ねて来ているというのに、二人の間にほとんど会話はない。
いつも工房の隅で、彼はひっそりと圭介さんの作業を眺めている。お昼や夕飯に誘っても、ただ首を横に振り帰って行く。
帰り際。わたしに強い視線をよこす時もある。だが口は開かない。疲れた様子で黙って帰る。
圭介さんは何も言わない。引き止めもしない。
黙って彼の行動に付き合っている感じだ。
これは元来世話焼きで、口より先に手がでやすい圭介さんには珍しい行動であった。
そしてもうひとつ不可思議なことがあった。
彼が来る日。
決まってわたしは彼の歩いた先に落ちる、乾いた土塊をみつけた。
最初は不思議に思っていた。
随分だらしのない人なのだろうか。だがその割に、彼は清潔な身なりをしている。いつもアイロンのあたったぱりっとしたシャツを着ている姿は、圭介さんよりよほどきちんとしている。
「浩平」
圭介さんは、彼をそう呼ぶ。
聞くと浩平さんは、六角窯の弟弟子であったという。
それでかと、わたしは合点がいった。圭介さんのジーンズはいつも土で汚れる。では浩平さんから落ちるこれも、陶芸の土塊なのだろう。
浩平さんも、圭介さん同様に六角窯から独立している。
陶芸家を目指し、窯の扉を叩く若者は多いという。だが陶芸を生業にできる者は、僅かだ。そのなかで独立までこぎつける者は、滅多にいない。
だというのに浩平さんは、陶芸家としてこの頃ゆき詰まっているという。
「あいつ、恵まれすぎちまったんだ」
夕飯の席で、圭介さんが苦々しくそう言っていた事がある。
「そうなの?」
わたしの何気ない質問に圭介さんは頷いた。
「俺が独立するまで十年以上かかっている。遅くはねえ。もっとかかる人だって大勢いる。それをあいつは窯にはいって、素人同然の時期にしちまったんだ」
痛ましそうに目を細め、並々とつがれたお酒を圭介さんは一気にあおった。
浩平さんが帰った日は決まって、お酒の量が増える。
何か悩み事があれば、打ち明けて欲しかった。
夫婦として過ごしてきて、そうして二人で乗り越えてきた事もある。なのに圭介さんは何も語らない。
わたしは歯痒さを感じていた。終いには少しばかり、浩平さんを疎ましく思った。
わたしが圭介さんと共に過ごせるのは夏の間だけ。
一年にたったひとつの季節だけ。
その貴重な逢瀬の時間に、暗い顔をしてやって来る浩平さんは、わたしとっては邪魔者でさえあった。
※ ※ ※
「その人なら知っていますよ」
河童のキヨちゃんが遊びに来た日、わたしはキヨちゃんに思い切って聞いてみた。
キヨちゃんは隣町で小間物屋を営んでいる。
陶器も多く扱っている。愛想の良いキヨちゃんは職人仲間の間でも付き合いが広く、そつなくこなす。
「圭介さんの弟弟子で、鈴木浩平さん。確か六角窯を出たのは、鈴木さんの方が早かったはずです。圭介さんより一回り以上の若さでの独立は、異例の早さでした」
「そうなの」
圭介さんの言葉を思いだす。
それなのにもう陶器はほとんど造っていないと、キヨちゃんも言う。
「その鈴木さんが悩み事で圭介さんを頼りにするとしたら、陶芸の事じゃあないですかね」
「そう思う? すごく暗い顔でやって来ては、じっと圭介さんを見つめているだけなの」
「圭介さんは着実に賞を取り、業界で名も売れてきています。スランプで造れなくなった後輩としては、頼りにしたい気持ちがあるんじゃないですか。それに、他に圭介さんに相談する悩みなんてなさそうだし」
「そう?」
「ええ。だって圭介さんですよ。大抵の事なら、てめえがしっかりしねえからだろうが、アホンダラ。で終わってしまいます」
キヨちゃんが圭介さんの声色を、おどけながら真似てみせる。
「あら……そうかしら。そんな酷いこと言う?」
「言いますよ」
キヨちゃんが重々しく頷く。
「けど、圭介さんああ見えて、とても気長に親身になってくれるのよ」
「それは粋さん限定だと思います。宮地圭介といえば、口も手も両方一気にでてくる人物として通っています」
「まあ、それは……そうかもね」
確かに。それは否定できかねる真実だ。
「そうなんですよ、粋さん。そんな圭介さんが小難しい顔でだんまりを決めるなんて、陶芸の他にはちょっと思いつかないです」
「そう……そうね。それならわたしに打ち明けないのも、分からないではないわ。なにせ陶芸の事。ちっとも分からないもの」
キヨちゃんと話しをして、少しだけ気が楽になった思いがした。
浩平さんがやって来ても、なるたけ気にしないようにしよう。
第一彼は圭介さんの仕事を眺めているだけだ。冷静に考えれば、そんなに二人の時間を邪魔されているわけではない。
「もう少ししたら、しな子さんの実家から食べきれないだけの葡萄が送られてきますよ」
キヨちゃんが弾んだ声をあげる。
しな子さんはキヨちゃんの恋人だ。
ずっと一人で生きていくんだと思っていました。だから途方もなく幸せです。
キヨちゃんは時々惚気ては相好をくずす。
送られてくるのは、庭で作っている無農薬の葡萄だそうだ。
「届いたら、連絡します。食べきれない葡萄でコンポートを作りましょう」
キヨちゃんは夏の間。努めて楽しい提案をしてくれる。
「しな子さんも来るでしょう?」
「もちろんです! 生クリームをいっぱいつけて食べる、冷えひえのコンポートです」
「すっごく美味しそう」
「しな子さんはタルトも作れるそうです」
「楽しみね」
「たのしみです」
わたしは気持ちが軽く明るくなった思いで、キヨちゃんとの約束に頷いた。
浩平さんの事は気にすまい。
そう思うようにしたのに、事態はわたしが思っていた以上に暗い方向へと転がっていった。
今回。河童のキヨちゃんが「しな子」さん呼びをしております。
「こいし恋し」の読者の方ですと、(ここって、もうくっついた後で本名呼びなんじゃね?)と思われかもしれません。え? そんな熱心なカラスウリ読者いないって? そうかもしれませんが、以下説明。
時系列では本名呼びが正解です。
ですが本作は一般文芸公募へだしたまま掲載しています。応募に際して、ちょい役の河童の彼女の呼び名が変わるまでの描写は不要と判断して、「しな子」さん呼びを通しております。気になる方は(いないと思いますが)本名で脳内変換して下さい。