弐の壱/翡翠堂あやかし奇譚
驚いた。
戸を開けた途端、胸のなかに飛び込んで来やがった。
慌てて抱きとめたものの、ぐらりと来た。
相手は力を込めれば折れちまいそうな、細っこいおんなだ。抱きとめるくらいわけでもない。それなのに力を込めるのが怖くて、このざまだ。
「ただいまです、宮地さん」
俺の動揺を知ってか知らずか、腕のなかのおんなは頓珍漢な挨拶をする。俺はぐらつく躯でなんとか体勢をととのえると、おんなの様子を確認した。
まっすぐの、なげえ髪。
ちいさな躯。
子供みたいな。けれど俺よりずっと老成しているような、不思議な眼差し。このでっけえ目ん玉で見つめられると、俺は途端にどうしていいのか分からなくなる。
この一年で、おんなに変わったところはなさそうだ。
良かった。元気そうなら、それが何よりだ。
「ただいまは、俺の台詞だろう」
たった今商品を納入して、外から戻って来たところだ。
「だって、一年ぶりにこちらへ帰って来たんですもの。わたしもただいまです」
そう言っておんなが、にこりと微笑む。その笑顔を間近で見ると、俺の背筋がざわわと震える。
「お、おお。そうだな。昨年の夏以来だな」
「おかえりと言って下さい」
「おお。おかえり」
「はい。宮地さんもおかえりなさい」
「おお。戻ったぞ」
なんだよ。これ。俺はもうすぐ四十だぞ。
この年で、こんなままごとみたいな恋に落ちるとは思ってもいなかった。焦る俺を尻目に、おんなは俺の腕のなかで無邪気な様子で微笑んでいる。
※ ※ ※
おんなが、台所にたっている。
冷蔵庫を開けると空っぽだったので、俺はそのまま買い物へ行った。おんなは余り外出はしない。街中の人混みが苦手なのだ。
「なに作ってんだ」
「ラタトゥイユです」
舌を噛みそうな料理名を言う。
「ラタ? ……なんだそりゃあ?」
「夏野菜のトマト煮込みです」
「おお……そうか」
おんなは料理ができる。意外だが家事全般をこなす。
この家の以前の住人。絢子夫人から習っていたらしい。そのせいなのか。蛾の化身の割には、やたらハイカラなもんばかりを作る。
初めて食った時には、驚いた。
まあ。俺は食えれば、じゃがいもだろうが、トマトだろうがかまやしない。一人の時なんざ、一食抜かして酒飲んで寝ることだってある。
そう言えば、爺さんの残した麦酒が見当たらねえ。
「なあ、爺さん麦酒飲んだか」
「飲みました。ご隠居さま、喜んでいらっしゃいました」
「おお、そうか。で、麦酒どこだ?」
爺さんは今や幽霊だ。
流石にはっきりとは目にできない。だがなんとなく。いるな、と気配は感じる。
夏至の今日。おんなが現れる確率は高い。
するってえと、爺さんもやって来る。せっかく出張って来るんだ。爺さんに麦酒を用意した。言ってみりゃあ、お供えものだ。
幽霊の爺さんは、麦酒を飲み干すことはできねえ。まるまる残る。気が抜けていたって、かまやしねえ。なにせエビスだ。もう一回冷やしゃあいい。飲む気でいたら、あにはからん。
「もうありません」と、おんなが答えた。
「捨てちまったのか?もったいねえ。温くったって、かまやしねえんだぞ」
「いえ」
「じゃあ、お前飲んだの?」
「いえ。お肉を煮込むのに使わせてもらいました」
ほら。これです。
そう言って、おんなが深鍋の蓋をとる。肉がぐつぐつと煮込まれている。茶色の汁のなかには、肉の他にも玉ねぎだの人参だのが浮かんでいる。どうやらこれがエビスの成れの果てらしい。
「駄目でした?」
おんなが心配気に聞いてくる。
「いや。残したら、もったいねえだけだ。使ってくれたら、それでいい」
「よかったです」
そう言うと、安心した様子で鍋にむかう。
換気扇をまわしていても、コンロの辺りはえらい熱気だ。
側に立っているだけなのに、暑い。なのに当の本人はけろりとしている。汗をかいている様子はねえ。
俯きかげんの、おんなのしろい首筋から目が離せねえ。
いつもは長い髪に隠れている首が、髪をひとつにまとめているせいで丸見えだ。あの白いうなじに掌を這わせたら、さらりとしているんだろうか。それとも。しっとりしているんだろうか。
こうやって見ていると、どんどん怪しい気分になってくる。
好いたおんなが、エプロンをして飯作ってんだ。大抵の男なら当然の反応だ。俺が特別怪しいってわけでは、ねえだろう。
もしもだ。
もしも今。
俺がおんなを抱きすくめて、あの首筋を舐めたとする。どんな味がするんだろう。汗をかいていないなら、塩っからく、ねえんだろうな。
ああ。いいな。舐めてみてえ。トマトの煮込みより美味そうだ。
しかし残念なことに、俺等は恋人同士でも夫婦でもない。無断で舐めたら、いくらなんでも怒るだろう。
怒られるのはまだしも、嫌われたくねえ。おんなが悲しんだり、俺を怖がるのもイヤだ。
しかしなんだな。
汗をかかねえところとか。こういうふとした時に、このおんなは、ひとじゃあねえんだと実感する。じゃあ、ひとじゃあねえから気持ち悪いかといえば、全然そうは思わねえ。
俺はこいつに会った時から、どうしようもなく惹かれている。
※ ※ ※
おんなの作ったトマトの煮込みと、エビス麦酒の成れの果てを食い終わった俺は、すぐにも椅子のうえで居住まいを正した。俺の様子に、食後の茶をいれに行こうとしたおんなが、同じように背筋を伸ばす。
俺等は互いに。まるで離婚調停にのぞむ者みたいに、真剣な面持ちで見つめ合った。
もっとも俺は、離婚とはかけ離れた心理状態だ。
俺は粗野な愛情しか、こいつに持ち合わせていねえ。
片付けられたテーブルのうえに、何の変哲もねえ茶封筒を差し出した。
「受け取ってくれ」
封筒は疲れた犬みたいに、皺がよっちまっている。封をして、もう幾度もおんなに差し出しているからだ。
「俺の気持ちは変わっちゃいねえ。だから受け取ってくれ」
真ん中に置いた封筒を、心もちおんなの方へと押し出す。
おんなは無言だ。黙ってじいいっと、封筒を見つめている。
今日断られても、俺はきっと明日も同じことをする。明後日も。その次も。夏の間中、おんなは俺から封筒を差し出される。
だから今日。これを突っ返されても、俺はへこまねえ。無論がっかりするが、引く気はねえ。
初めて会った夏からずっと。俺はおんなにプロポーズを繰り返している。
「俺に、あんたの名をつけさせてくれ」
俺の言葉に、おんなの肩が微かに揺れた。
オオミズアオの化身であるおんなと俺は、書類上の婚姻は結べねえ。けど俺がおんなに名を与えることで、それ以上の繋がりをもてるはずだ。
爺さんが俺にそう教えてくれた。
※ ※ ※
ーーお前さんが、あの娘を口説き落として、名を与えられたら。あの娘はお前さんから、離れられなくなるだろう。
生前。爺さんは、俺にそう言った。
ーーだが、逆に。お前さんは、あの娘に生涯、囚われる。もしかしたら、あの世でも。いやいっそ、来世までも、あの娘のものになるかもしれない。
望むところだ。
ーーそれでもよければ、儂等の後に、ここに住まわしてやろう。そしてあの娘と桜の樹を守ってもらおう。
お前に、俺の全部をくれてやる。
ーーお前さんが一番に守るものは、家でも窯でも、ましてや、お前さんの作品でもない。あの娘と、桜の樹だ。どうだ宮地。やれるか?
俺は爺さんの条件に笑って頷いた。
※ ※ ※
爺さんの名は、米代重太郎という。
いやに時代がかった名前だ。
好好爺然としてその実、外食産業を手広く展開している会社の元オーナーであった。俺が懇意になった時には、すでに跡目を一人息子に任せ、奥さんとふたり。今の翡翠堂で、悠ゆう自適の生活を送っていた。
爺さんは金と残された自由時間をおおいに使い、趣味の陶芸に勤しむ為に、自宅に窯まで造っていた。
爺さんと俺が出会ったのは、俺の師匠が営む「六角窯」であった。爺さんは、俺の師匠のお得意さんだった。
趣味で窯まで持つなんて、すげえなと。
当時六角窯の仲間たちと、くっちゃべっていたのを覚えている。俺はうだつがあがらねえ職人でありながら、六角窯では一等うえの兄弟子になっちまっていた。
俺が新人の頃の兄弟子達のほとんどは、陶芸の道を諦めて去って行った。
俺は独立して工房を構える程の才覚も資金もねえ。
かといって陶芸の道を諦めて引き返すには、年をとりすぎていた。
昼は六角窯。夜はバイト生活でなんとか食いつなぎながら、それでも陶芸を続けていたのは、器を造ることでしか自由に息ができないと感じていたからだ。
爺さんはどういうわけか、俺の皿を好んで買ってくれる上客でもあった。しかも買うのは一枚二枚じゃねえ。大量注文をだして、爺さんとこの店で使うって寸法だ。
「お前さんの、この色。この蒼がいい」
素人同然の爺さんの言葉であっても、師匠の万年下働きの俺にとっては、身にしみる有り難さだった。
終いには。俺と爺さんは陶芸家の卵と客というだけじゃあなくて、年の離れた飲み友達みたいになっていった。
爺さんの奥さんである絢子さんは、俺が自宅へ顔をだせば美味いもんをつくってくれた。しかも帰り際には、「あまっちゃうから、持って帰って。圭介君」と持たせてくれる。おかず以外にも、貰い物の素麺だの、缶詰だのを包んでくれる時もあった。
親以外で、中途半端な自分を気にかけてくれる人達がいる。
俺は憎まれ口を爺さんに叩きながらも、胸のなかでこっそり感謝していた。