陸の壱/翡翠堂あらまし奇譚
風鈴が鳴っている。
風に鳴っている。
桜の樹の枝に、貴方が吊るした陶器の風鈴が鳴る。
こいしい。恋しいと、鳴る音はどこまでも甘く哀しい。
圭介さん。
どこにいても、わたしは貴方を恋しく思っています。
※ ※ ※
縁側で涼んでいると、いつの間にやら隣にでた。
随分久しい。
もうずっと涅槃にいったきりだと思っていたので、驚いた。
「久しぶりだのう」
先に会った時と変わらぬ姿で目を細め、にこやかにそう言うのはご隠居さまだ。
「はい。お久しぶりです」
ご隠居さまは、翡翠堂の以前の持ち主だ。
もう滅多に会えぬと思っていたので、嬉しさが声に滲む。
わたしはご隠居さまに大層可愛がられた。圭介さんをこの家に招いたのも、ご隠居さまだ。
「お前元気でやっとたか?」
「はい」
「絢子も気にしておった」
「はい。圭介さんから名をもらい、夫婦となりました」
「そうか。そうか」
わたしの報告にご隠居さまが深く頷く。
「宮地は良い男だろう」
「はい」
「儂が見込んだ男だからな」
「はい。そうだ、ご隠居さま。麦酒が冷えています。今持って来ますね」
腰を浮かしかけると、「よい。よい」と、制される。
「ご遠慮しないで下さい」
「遠慮ではない。もうな、そういうものに惹かれなくなったんだ」
「そうなんですか?」
あれだけお好きだったのに。
しばらく会わないうちに変わられたご隠居さまの様子に、一抹の寂しさを覚えてしまう。よくよく見ると、躯の線もぼやけて見える。
するとわたしの心情が伝わったのか、ご隠居さまが、「気にするな。皆そういうものだ」
そう言いながらわたしの腕を軽くさする。
「ものに対する執着がうすくなるのは、自然の流れ。そうならないと、逆に困ることとなる」
「そうなんですか?」
「おお、そうだ。意識がな、すうとしないと転生が難しい。それでなくとも時間がかかる。だがな、お前さんを可愛いと思う気持ちはちゃんとある」
「はい」
「宮地も可愛い。息子も孫も可愛い」
「はい」
「絢子は愛おしい」
「はい」
絢子さんを愛おしいという、ご隠居さまは昔のままだ。
わたしの知っているご隠居さまだ。わたしは安心して、ご隠居さまの隣に腰を落ち着けた。
「誰かを大切に思っていた気持ちは、いつまでも残る。大切にされた気持ちも残る」
「はい」
「それはとても心地よい。向こうにいっても、暖かな心持ちにしてくれる。逆に憎んだり、妬んだりする気持ちも残る。それらは余り役にはたたぬ。あるとあるだけ、重たくなっていく」
「はい」
「それはそうと……」
言葉を濁すと、ご隠居さまが天をあおぐ。
わたしもつられて上を向く。
軒には圭介さんの造った風鈴が吊るされ、夏の日差しを浴びている。
風がないので、ちりとも鳴かぬ。
「お前、この頃。夢を見るんじゃあないか?」
そう尋ねると、ご隠居さまがこちらを向いた。
お顔は微笑んでいるのに、目元は笑っていない。
ご隠居さまにしては、随分中途半端な表情であった。そこで初めてわたしは、ああ、この方は気がついているのだと合点がいった。
「夢……」
「おお。夢だ」
「夢は、よく見ます」
「うん」
「良い夢も、うなされる夢も見ます」
「そうか」
「はい」
「お前の夢は特別だ。夢はいずれ此処へもやって来る」
「……はい」
「わかっているな」
「はい」
「なら、問題ない。儂に解決方法は分からぬが、お前が自覚しているのならば、それで良い。粋」
ご隠居さまが名を呼んだ。
初めてわたしはご隠居さまから名を呼ばれた。しかし涌き上がってくる喜びはなく、うっすらとした不安が覆いかぶさってくるようであった。
「はい」
「宮地と仲良くやっていきなさい」
「はい」
それならきっと約束できる。
圭介さんは、今のわたしにとって最も大切なものだ。
躯と心の奥のおく。ひっそりと仕舞い込まれた宝ものだ。
わたし達は、しばらく無言で庭を眺めていた。
ご隠居さまの今いる場所が、どんな感じだとか。
絢子さんはどんな風かとか。
圭介さんの面白可笑しい話しとか。こちらで友人となった河童のキヨちゃんの話しとか。
積もる話しは山程あるはずなのに、どれひとつとして言葉として、でてくる事はなかった。
あえて言葉にしなくとも、今のご隠居さまは全てを見据えている。そう思えた。
ざざっと東から風がでて、風鈴が揺れた。
ちりりと鳴った音に、わたしは頤をあげた。
雲が流れていく様が目に映る。
せいせいとした風が気持ち良いですね。
そう言おうとして横を向くと、既にそこには誰もいなかった。ぽかりと空いた空間があるばかり。つい先ほどまで、確かにご隠居さまが居たはずなのに。
板張りの縁側にいくら手を這わせても、人のぬくもりの跡はどこにもなかった。
※ ※ ※
「おい。粋。スーパーに買いだし行くけど、お前どうする?」
わたしに与えられている小部屋で団扇の布を張っていると、圭介さんがのっそりと現れた。
土で汚れたいつもの出で立ち。夫婦になってから八年。
彼は全く変わらない。逆に変わったのはわたしの方だ。
「行きます」
「おう、じゃあ下だけ着替えてくる」
「はい」
人混みは苦手だったのに、近所のスーパーに二人で買い物に行くようになった。
夏以外の季節は桜のなかで眠ってばかりいたのに、布を織るようになった。
夏になると、その布を使って団扇を造るようになった。
何もせず。
誰にも強く心を動かされず。澱んだ水のように生きてきた。
それが今や、圭介さんを真似てものを造る。圭介さんを思って手を動かす。圭介さんの為に食事をつくる。彼の側に一時でも長く留まりたいと願う。
「車だすか?」
「いいえ。歩いて行きたい」
外は夏。
圭介さんには悪いけど、わたしは夏の暑さなど平気なオオミズアオ。ならば彼と手をからめ、ゆっくりと歩いて行きたい。
「おう」
圭介さんが若干顔を赤らめて、頷く。
彼はわたしの幼稚な願いを知っている。その証拠に、左腕を伸ばしてくれる。長く堅い、逞しい腕にわたしは縋り付くように自分の腕をからめる。
「水曜だから、肉が安いぞ、肉」
「では今晩はお肉ですね」
「おお、粋は何がいい?」
「桃か水瓜が食べたいです」
「いいな。帰りにはフードコートでかき氷喰うか?」
「食べます! 練乳をいっぱいかけてもらいましょう。圭介さんは?」
「俺は麦酒」
「お酒は駄目です。どうせ夕飯に飲むんですから」
「ちぇっ。粋のケチ」
「ケチです」
腕から伝わってくる圭介さんの体温が愛おしい。
わたしは浮き立つ気持ちのままサンダルに足を通し、外へと出かけた。