伍の伍/翡翠堂はくせん奇譚
「子供の頃から、河童だという事だけで差別されてきました。無論全員からでは、ありません。なかには庇ってくれる人もいました。けれどいつも人の目が怖かった……僕の前でにこにこ笑っているこの人達が、いつ僕に不当な怒りを向けるのか。失望の気持ちを向けるのか。それを考えながら生きていくんです。うんざりだった。だからさっさとカミングアウトするんです。河童が嫌なら、僕に近づかなきゃあいい。それでも側に居るのは、その人達の勝手なんだ。僕の知ったこっちゃない! キライだ! だいっキライなんだ!」
人間も。
人間になれない河童の自分も。
何度も痛い目にあって尚。それでも人とのつながりを求めてしまう自分も。
僕は唇を噛み締め、圭介さんを睨みつけた。
「それでも人の社会で、お前は生きていくんだろう?」
圭介さんが尋ねた。
静かな。それでいて熱のこもった声だった。
「そうですよ! 悪いですか!? 河童の僕が人の社会に居て悪いっていうんですか? 僕はひかない。たとえ疎まれたって、意地でもここで生きてやるんだ」
「そうか。そうだったんだな。お前はそういう了見でいたんだな」
圭介さんが手をあげた。
圭介さんは掌が大きくて分厚い。
年に似合わぬ力強さがある。
だが見た目は負けているが、僕だって河童だ。本気をだせば、人間に負けるわけがない。見下しているのならば、後悔させてやる。
闘志剥き出しの僕を、しかし圭介さんは殴りはしなかった。
下ろした手で、僕は圭介さんに抱き寄せられていた。
圭介さんの掌が、僕の背中をぽんぽんと軽い調子で叩いていく。
何がおきているのか分からずに、僕は抵抗さえできなかった。
「お前、人にカミングアウトするのは、やたら早いくせして、肝心要の腹のうちはなかなかゲロらないからな。スッキリしたか?」
「……え?」
「本当はずっと鬱憤がたまっていたんだろう? 妖だって、人間だって。生きていりゃあ、不平不満がごっそりたまっていくもんだ。それを押さえ込んで。無理して、にこにこしているこたあ、ねえ。もっと愚痴言ったり、泣き言を言やあいい」
優しい声だった。
宮地圭介のこんな声を、僕は初めて聞いた。繊細な器を造る力強い掌が、リズミカルに僕の背なを叩く。そこから心臓まで伝わっていくように、柔らかな熱が僕を満たしていく。
こころが落ち着く。
「圭介さん……」
「おう」
「だって、そんな事言えないよ」
「そうか?」
「だって、河童ってだけでも重いのに。そのうえ不満なんて、言えない。……嫌われる」
「けど我慢すんのは、しんどいだろう」
「……しんどいです」
「嫌う奴には嫌われとけ」
「それも……しんどいです」
「なら、言えよ。俺は愚痴くらいで嫌ったりしねえ。うざったければ、ぶっ飛ばすかもしんねえけどよ」
キヨはホント阿呆だなあ。そう言いながら圭介さんが笑う。
僕も抱き寄せられたまま、泣き笑いを浮かべた。
もうずっと泣いた事がなかった。泣けなかった。
けど僕はもう、仲間はずれにされている幼稚園児じゃない。
上靴を隠されて、当方にくれている十代でもない。
ここにいる。そう決めたのは僕自身だ。誰かに強制されたわけではない。
目元をこすると、僕は圭介さんからそっと離れた。
信頼していないなんて嘘だ。
心底信用できていなくても。隔てられていても。僕は心の底のそこで、この男を信頼したくてたまらないんだ。
「……圭介さん、すみませんでした。もう大丈夫です」
「おう。そうか」
「あの……失礼な事。色々言ってすみませんでした」
「別に謝るほどの事でもねえ」
「でも」
「いいんだ。俺は懐がふけえからな。ひよっこのお前がグダグダぬかしても、どーーんと受け止めてやらあ」
「……圭介さん」
「なんだ?」
「格好良いです」
「おうよ!」
そう言うと、圭介さんはニヤリと唇の端をあげ胸を張った。
「ありがとうございました」
「おう」
「僕、取りあえず行って来ます。これは一旦預かっていて下さい」
僕は粋さんの団扇を、圭介さんへ返した。
「そうか?」
「はい。しな子さんの事、やっぱり好きです。諦めようと思っていましたけど、好きです。なので追いかけて、まずは話してみます」
「ああ」
「それから改めて団扇を頂きに行きます」
「おう。上手くいったら、そん時には俺の風鈴もやるぞ」
「風鈴はしみず夜に、売る程ありますから」
「違げえねえ」
僕らが笑い合ったからだろう。
遠巻きに成り行きを見つめていた野次馬の輪が、ほどけて行く。
今更ながら、衆人に見られていた事実に顔が赤らむ。
真っ昼間のモールで、男二人で何をやっているんだ、僕は。
「では」
僕は頭をさげて、エスカレーターへ向かった。
その後ろで圭介さんが、「キヨ!」声を張り上げた。
「忘れていた! いくら惚れていても、相手の意思は尊重しろよ! 暴走して拉致監禁は犯罪だから、するんじゃあねえぞ! どうしても駄目だった時は、潔く振られる事もありだからな!」
恐ろしい程の大声だった。
周囲の視線が、さっと僕に向けられる。
「変な事言わないで下さい!」
僕は怒号を残し、エスカレーターへ乗った。
全くあの人は! 何て事を叫ぶんだ。
周りのひとが、僕を呆れたように見つめている。人の注目を集めるのは得意じゃない。いたたまれなくなる。なのに何故か、思いっきり笑いだしたいくらい爽快な気分だった。長年の鬱憤が吐き出され、妙に躯が軽く感じる。
しな子さんはまだ居てくれるだろうか。
僕はエスカレーターを降りると、小走りに駆け出した。
うす茶のモカシンが、フロアの床を駆けて行く。そこにもう白線は見つからなかった。圭介さんが滅茶苦茶に乱入してきたせいで、消えてしまったのかもしれない。
また出てくるかな。
出てくるかもしれない。
それでも僕は構わない。そう思えた。
白線があってもなくても、僕は僕だ。変わりはしない。誰かを恋しいと感じるこころも変わりはしない。
僕は軽い足取りで、しな子さんの姿を探した。