伍の参/翡翠堂はくせん奇譚
季節は巡り夏になった。
春のうららかな日差しはなりをひそめ、うんと強い日光が容赦なく僕を焼く。いっそそのまま、炭になってしまいたい気分であった。
しな子さんが、会ってくれなくなった。
正面きってキツい事は、言われていない。
しな子さんの勤める事務所が忙しい。そう言われると引っ込むしかなかった。
電話越しのしな子さんの拒絶の声を聞きながら、僕は足元を見つめている。
線だ。
ほら、やっぱり。
油断していると、すぐ忘れてしまう。けれどやっぱり線はある。
僕をぐるりと丸く取り囲んでいる。
僕はそこから外に出て行けない。
※ ※ ※
随分ぼんやりしていたのかもしれない。いつの間にか、通話は終わっていた。
僕はとっくに切れていた携帯電話の、終了ボタンを押す。
先月までは、きった後さえ浮き立つ気持ちであった。なぜなら次の約束があったからだ。今はない。かけるといつも、「ごめんなさい」と言われる。
「ごめんなさい。残業で」
「ごめんなさい。疲れていて」
「ごめんなさい。その日はちょっと……」
いつ言われるんだろう。「ごめんなさい。貴方は河童で、わたしは人間なの」
それともアレかな? そういうのを女性に言わせたらいけないのかな。
しな子さんはしっかりした大人の女性だ。
最後には情け容赦なく、僕を振ってくれるはずだ。
そういう優しさを、きちんと持っている人だ。けれど好きでそうするわけじゃあない。
今後町内会で顔を会わせたら、気まずい思いもするだろう。
ここは僕から距離を置くべきなんだろうか。きっとそれが最善策だ。
付き合っていたわけじゃあないけれど、自然消滅が最もしこりが残らない。
今日の線はいつもより、白々とより一層浮かんで見える。
白線の内側は僕ひとり。
誰も入って来ないし、このなかでは風鈴の音も聞こえない。
むなしいだけの気持ちを抱えて、僕は店のカウンターに戻った。仕事中だ。
お客さんが呼んでいる。
「このお皿見せていただけますか?」
「はい。どうぞ」
僕はお客さんの言葉に、愛想よく微笑む。
今の僕には仕事がある。やるべき事があるって言うのは、至極有り難い。ひとつの事だけに囚われたら駄目だ。
自分で自分の首を絞めてしまう。
※ ※ ※
圭介さんの陶器が、隣町のショッピングモールで行なわれる展示会に、出品される事になった。
二週間に渡って開催される展示会は「新進気鋭の作家展」と銘打ったものだ。
なんだか凄い題名だ。
「先生と呼んだ方がいいですね!」
僕が揶揄うと、圭介さんは大いに照れて、後ろ頭を掻いた。
僕は圭介さんの家に来ていた。夕間暮れで、翡翠堂の庭では、盛んに蝉が大合唱を繰り広げている。圭介さんはこざっぱりとした姿で、玄関に立ったまま缶麦酒を飲んでいた。
「お前も飲んでいけ」
誘われたけど、僕は断った。
車で来ているし、今日は粋さんにお土産を持って来ただけだ。
粋さんの好物の桃。店の常連さんからもらった物だが、僕一人では食べきれない。お裾分けです。そう言って玄関先で渡すと、粋さんは、「まあ、嬉しい」と目を細めた。
そこで圭介さんの展示会の話しを聞いたのだ。
粋さんが案内の葉書を、「どうぞ」と渡してくれる。
その表情はとても誇らしげだ。隣に立つ圭介さんは、そんな粋さんを見下ろして、顔を綻ばせている。二人は人間と妖の壁を乗り越えて夫婦になった。
僕にとっては眩しすぎる程、強い絆で結ばれた二人だ。
「見に来いよ!」
圭介さんが言う。
僕は、「勿論です」と快活に応えた。
なにせ僕の休日のスケジュールは、真っ白なままだ。
「俺も会場にいるからよ。例のしな子さん。連れて来ていいんだぜ」
圭介さんの笑顔が、僅かばかり憎たらしい。
僕は「はは」と乾いた笑いをもらした。
「しな子さんは、ちょっと無理だと思います」
来週も。
多分再来週も。
確かめる勇気はもうないけれど。電話口での「ごめんなさい」を聞くよりか、連絡をとらない方がずっとましだ。
「なんだ。出し惜しみすんなよ」
「いえ、本当に。今仕事が滅茶苦茶忙しいらしくて」
「なんだ。残念」
これ以上圭介さんに傷口を突かれるのは、御免だった。
傷口はひろがっても、縮まる可能性はまずない。そこから僕の恋心が、ぽたぽたとこぼれ落ちていく。
僕は二人からの夕飯の誘いを辞退して、帰ることとした。
※ ※ ※
しな子さんの態度が変わった原因は、多分僕の余計な一言だ。
僕はしな子さんを、川辺の夏祭りに誘った。
僕の故郷の祭りで、河童が多く現れる事で、一部では有名な祭りであった。
圭介さん夫婦と行った事もある。今年はしな子さんと二人っきりで行った。
河童祭りと言われるだけあって、やたらときゅうりの出店が多い。しな子さんの好き嫌いは知らないので、きゅうりが苦手な事を考慮して、一応おにぎりも作って行った。
しな子さんは缶麦酒を飲み、終始ご機嫌であった。
冷やしきゅうりも気に入ってくれた。
おにぎりも、美味しいおいしいと食べてくれた。好いた人が、美味しそうにご飯を食べてくれる。ささやかだけど、嬉しかった。
僕は祭りの雰囲気と相まって、舞い上がっていた。
川にはたくさんの河童がいた。
河童だけの集団が多いけれど、なかには人間の伴侶や恋人。友人連れの河童もいた。その姿は僕に希望を与えてくれた。だから気が大きくなっていたのかもしれない。
最後のさいご。
帰る間際になって、余計な一言をもらした。
しな子さんは麦酒で酔って、帰るのが面倒だともらした。
だからつい言ってしまったのだ。「ならここで僕と暮らしてみませんか」
今考えると酷い台詞だ。言うべきなんかじゃなかった。
あの一言が、しな子さんの態度が変わった原因だ。
きっとそうだ。
僕は自分の立場も忘れて、踏み込み過ぎたんだ。
※ ※ ※
休日のショッピングモールは酷い人混みだった。
展示会は入場者も多く、華やかな雰囲気に包まれていた。
圭介さんを含めて、六名の若手作家が名を連ねている。
彫金。版画。油画と陶芸が二名ずつという構成だ。
居ると言っていたものの、圭介さんの姿は会場のどこにもなかった。
圭介さんは大抵の場合、頭にタオルを巻いて、作業着になっている色褪せたジーンズを履いている。六角先生が嘆く程、身なりに無頓着だ。スーツ姿で会場に居ることなんてない。おまけにあの長身だ。居たら嫌でも目につく。
残念に思う反面、僕はどこかほっとしていた。
またぞろ。しな子さんの名をだされるのに、疲れていた。
時計回りに会場をゆっくりと回る。どれもこれも選ばれるだけあって素晴らしい。けれど若干の贔屓目があったとしても、僕は宮地圭介の作品が一番好きだ。
会場には圭介さんの代表作「ひすいの球」が五点並んでいた。
いつもは翡翠堂の居間の棚に、無造作に置かれているので、僕はよく目にしている。けれど一般の宮地ファンにとっては違う。
県展出品後は作家が外にださない幻の品として、垂涎の的なのだ。
熱心に見つめている人が一際多い。
「素敵ねえ」
有閑マダム然とした、ご婦人方が目を輝かせて見つめている。
「ひとつで良いから欲しいわあ」
「お花を飾ったら、さぞ奇麗でしょうねえ」
ひすいの球は確かに花器だ。
けれど花を生けているところを、僕は目にした覚えがない。
花器という名目の、圭介さんの粋さんへの恋文なのだ。
ひすいの球には全て、オオミズアオの意匠がほどこされている。櫛上の触覚まで精密な意匠は、普段の圭介さんを知る人からしたら、信じられぬ程の繊細な作業を要する。
あの人は、粋さんと会えない時間の全てを使って、作品を造り上げる。そこにはどんなちいさな妥協も入り込めない。
宮地圭介の恥ずかしい程の愛の叫びだ。
だからこれからも、ひすいの球は誰の手にも渡らない。
全て粋さんの元へと運ばれる。
結局会場に圭介さんが現れることはなかった。二週間に及ぶ長丁場のうえ、圭介さんは愛想が良い社交家ではない。
夏の間は粋さんと、一秒だって離れたくない人だ。きっとどこかで油をうって、最後にちょろっと顔をだすくらいだろう。
僕は無料の薄いパンフレットを手に、会場を後にした。
そこで。僕は彼女の姿を見つけた。