伍の弐/翡翠堂はくせん奇譚
「で? そんでもって、その女に惚れたっていうのかよ?」
そう言うと、圭介さんはカラリと揚がったげそを噛み切った。
食べ物を咀嚼する圭介さんは、妙に動物めいている。顔に凄みがあるせいか、とてつもなく男性的だ。
僕等は週末の居酒屋に二人で居た。
僕の営んでいる小間物屋「しみず夜」の並びにある、魚介類が美味しいと評判の居酒屋だ。
「晩生のキヨちゃんにも春かよ」
生麦酒のジョッキをあけながら、鼻歌混じりに圭介さんが言う。
今夜の圭介さんはご機嫌だ。
僕の恋ばなを聞いて、機嫌が良いわけではない。
季節はもうすぐ梅雨開けとなる。鬱陶しい雨の季節が過ぎれば、圭介さんの愛する粋さんが、この世に戻って来るからだ。
圭介さん曰く、いくつになっても遠足前の小学生並みにわくわくするらしい。
「で、告白すんのか?」
圭介さんの無遠慮な質問に、僕は首を横に振った。
「……そんなんじゃあ、ありません。友達ですから」
「嘘つけ」
けっ、と短く奇声を吐いて、圭介さんが肩をすくませる。
「俺の誘いを散々断って、女にかまけていたくせに」
「だからそれは、町内会の役が……」
「毎週か? 週末に? 休日もかよ。けっ!」
確かに。圭介さんの言う通りだ。
毎週町内会の仕事なんてない。そんな事をしていたら、役を引き受ける人なんていやしない。
僕が帳簿付けにかこつけては、あの人と会っていたからだ。
「女のこと考えていたろう」
「えっ!?」
圭介さんは言うなり、僕の頬を力任せに引っぱった。
圭介さんは力が強い。遠慮もない。思いっきり引っぱられて、僕は悲鳴をあげた。慣れたもんで店主は無視だ。圭介さんはここの常連だ。
「痛い、いたい、痛いですって!」
「じゃあ白状しろ」
「はい、そうです。考えていました」
やけくそで叫ぶと、圭介さんがやっと指を放してくれる。
「なんて女だ?」
圭介さんは僕の肩に腕をまわすと、顔を覗き込んでくる。質の悪い目つきをしている。何だか僕は、ぬれぎぬの罪で、刑事さんに尋問を受けているような心境になってきた。
「しな子さんです」
「……随分古風な名だな、そりゃあ。まさか婆さんじゃなかろうな?」
「馬鹿言わないで下さい。しな子さんは若くて奇麗な女性です」
「へええ」
「しな子さんというのは、僕がつけた愛称です。苗字が品川さんでしたので、そう呼んでいるんです」
「苗字が品川?」
「はい」
「で、愛称がしな子?」
「呼び捨てにしないで下さい! 僕だってした事ないんですから」
「へえへえ。で、名前は何ていうんだ?」
「……さあ? 何でしょう?」
僕の返答に、圭介さんの笑みが悪い方向に深くなる。
「お前ちょっと待てよ。名前も聞けてねえのかよ?」
「はい。けれど不便はありません」
「そういう問題じゃあねえだろう!!」
「はあ……」
「キヨ。お前もいい年だし、俺もあんま言いたかあないんだが」
「では結構です」
「いんや、言う」
こういう圭介さんは、割と面倒くさい。
しかも逃れられない。僕は垂れて、圭介さんのお説教を聞く姿勢をとった。
「おめえ等が、まだ付き合っていねえのは分かった。お前さんの片思い中だってことも理解した。けどその割にはちょくちょく、デートしてるよな?」
「デートって、わけでもないんですけど。デートなんでしょうか? へへ。だったら僕としては嬉しいんですけど」
確かにしな子さんとは、割と出かけている。
先月は城跡公園に、二人で藤棚を見に行った。僕が誘ったんだ。
紫色の藤の花が、風にはらはらと落ちていく。そのなかに佇むしな子さんは、すごく可愛らしかった。はしゃいで調子に乗った僕が公園のお堀に飛び込んで、鯉を捕まえてみせると騒いでも、しな子さんはその場から逃げ出さなかった。
そんな事をしたら警察が来るからと僕を諭して、無理矢理引きずって帰ってくれた。引きずられながら、僕は自分の顔がだらしなくたわむのを感じていた。
何でこの人は、こんなにも優しいんだろう。
はしゃいで騒がしい河童なんて、放って置いて帰って良いんだ。
なのにしな子さんはそんな風にはしない。最後まで僕につき合ってくれる。
申し訳なく思いながら、嬉しくって仕方がない。それにしな子さんは、僕が日傘をさしても平気だ。
河童にとって、変化しているといっても、直射日光は結構きつい。
頭が乾くと、気が遠くなる。
だがなかなか男の日傘は、理解してもらえない。あからさまに嫌な顔をする女性もいた。
過去の話しだ。
当時の僕は、まだ女性の趣味がよろしくなかったのだ。告白されると嬉しくて、とりあえず付き合っていた。そうしてすぐふられる。この繰り返しであった。
けれど学習した今となっては大丈夫だ。
僕も大人になった。過去の苦い経験を生かし、今の僕がいる。
しな子さんは、男の日傘に偏見は持ち合わせていない。心が広い。
なにせ河童である僕といてくれるのだ。河童と日傘であれば、明らかに日傘の方がハードルは低い。こうしてしな子さんの事を考えていると、どんどん会いたくなってくる。困ったものである。
「いいか? キヨヒコ。よく聞け。お前はちっと押しが弱い。だが面はいい」
僕は、はっとして顔をあげた。
いけない。しな子さんの事を考えて、頭がお留守になっていた。
「えへへ。そうですか?」
「そうだ。そのしな子が」
「しな子さんです」
「しな子さんがどんだけ面くいなのか、俺にゃあ分からねえ。だが良い面と、そうでもねえ面がありゃあ、大抵の女は見てくれの良い方が好きだ」
そうであろうか?
僕は圭介さんの説に内心で首を傾げた。
世間一般では、僕はイケメンの部類にはいるらしい。
一方の圭介さんは、かなりの強面だ。間違ってもイケメンとは呼ばれない。せいぜいいって精悍な顔立ちだ。だが男の僕から見ても、四十路の圭介さんは格好いい。かなりいけている。第一あの粋さんが惚れた人なのだ。
「だから、押せ。まずは押せ。心底惚れているんなら、諦めずに押しまくれ。そんでもってものにすんだ」
僕は圭介さんのご高説を、有り難く拝聴した。
僕は圭介さんを、友人として好いている。作家として尊敬している。
なので速攻で、「河童です」といつものカミングアウトをした。圭介さんは平気の平座であった。
きちんと仕事をして、互いに信頼できれば、河童だろうがオカマだろうが、果てはドラゴンだろうが、かまやしないと言ってくれる。
そんな圭介さんを僕は信頼している。
けれどこういう時。僕は圭介さんとの間に、決して交われない線をみつけてしまう。
線といっても鋼鉄製とか、鉄条網とか、そんな無骨なものじゃあない。子供がアスファルトに書いた、チョークの白線の様なものだ。
線は指でこすったら、消えてしまいそうなほど、脆弱な代物だ。いつもは忘れてしまう程に、線の存在感はうすい。けど何かの拍子に、それはぱっと僕の周りに浮かんでくる。僕だけをまるく囲んで、離さない。
今がまさにそういう時であった。
居酒屋の床に線はゆらゆらと浮かんできた。まるで水面を通して見ているようだ。
マスターが厨房で煙草に火をつけて、小窓を開ける。闇のなか。しとしとと街を濡らす雨が視界に映った。雨があたっても、きっと白線は消えない。誰にも見えない。これは僕がつくりだした。僕が僕を縛る輪だ。
僕は河童で。圭介さんは人間だ。
例え圭介さんの愛する奥さんが、僕と同じ妖であったとしても、圭介さんは人間の社会で生きている人間だ。しな子さんもそうだ。僕がしな子さんと上手くいく確立は、果てしなく低い。圭介さんの言う程単純にいくわけがない。
僕は「うん。うん」「はい」と、しかめつらしく返事をしながら、見えないはずの線を見つめている。
口では良い子ちゃんの返事をして、腹のなかでは違う風に考えているんだ。
要は圭介さんではなく、僕が僕を区別している。
嫌な奴だと自分でも思う。
仕事上のパートナーで。僕の惚れ込んだ器の作者で。尊敬できる人生の先輩で。憧れる男性で。それでいながら、僕は最後の最後で、宮地 圭介という人間を信頼していない。できていない。
僕は全く卑怯な河童なのだった。