伍の壱/翡翠堂はくせん奇譚
恋をした。
恋愛になんの期待もしていなかったのに。
上手くいく事なんてなかったのに。
また、恋におちてしまった。
※ ※ ※
「実は、僕は河童です」
そう言うと、彼女はきょとんとした顔で僕を見つめた。
驚いている。
そりゃあそうだ。
ただ驚いているだけならまだ良い。奇人変人。下手をしたら、もう同じ業務をするのは無理だと、町内会長に訴えられる可能性だってある。
けれど言わないわけにはいかなった。
これは僕の譲れない信条だ。
今迄だってそうだ。
これで離れていってしまう人ならば、それまでなのだ。
午後八時。
僕と彼女は公民会の、がらんとした侘しい和室で、机を挟んで向い合っていた。
この春。町内会の籤で、僕は経理係りを引いた。もう一人。同じ経理になったのが、彼女であった。
すらりと背が高く、短く整えられた髪が知的な印象の女性であった。
多分僕より二、三歳年上であろう。落ち着いた雰囲気の人だった。
「よろしくお願いします」
僕が頭を下げると、「あ、よろしく」そっけなく言われた。
誰だって町内会の役なんて、積極的にやりたいわけではない。
なったものの一年間ほぼさぼるだけの人だっている。もしかしたら彼女もそのタイプかもしれない。咄嗟にそう思った。だとしたら一人で、一年間頑張るしかないな。
暗澹たる気持ちになっていたのだが、彼女はきちんと業務を負担してくれた。
決して前向きに頑張るタイプではないけれど、さぼりはしない。愚痴も言わない。噂話しもしない。
彼女は、淡々と与えられた仕事をこなしていった。
僕は少しだけ。彼女に好意を持った。
けれどそこに恋情は含まれていなかった。あくまで知人レベルでの好意であった。
そんな浅い付き合いでの、突然のカミングアウト。
余りにも唐突であったかもしれない。
彼女だって迷惑なはずだ。何でいつもこうなんだ。
信条はともかく、場所とタイミングを考えろ。僕の馬鹿ばか、ばか。内心焦りながら自分を叱咤していると、彼女が落ち着いた声で呟いた。
「そうなんですか」
そこに特別嫌悪の色はない。僕は取りあえずその事に安心した。
「はい。ひとの姿をしておりますが、本質は河童です」
「そうですか」
「はい」
「了承しました」
まるで業務連絡のごとく平坦な声でそう言うと、彼女は再び帳簿と伝票の付け合わせに戻った。
その姿は僕の決死のカミングアウトなど眼中にない。そんな態度であった。
まさか彼女も妖なのだろうか。
彼女の内側の気配をさぐってみたが、全くの人である。と言う事は、妖に寛容なのか、僕に全然興味がないか。どちらかだ。
何だか肩すかしを喰らったような気分だった。
自業自得とはいえ、脱力感が半端ない。
領収書を整理し、内容を確認し、帳簿とつけ合わせていく。
最後に確認印を押し、彼女へと差し出した。これで完了。彼女が確認印を押せば、後は帰るだけだ。
「……清水さん。何ですね?」
印鑑の名を確かめるように、彼女が言った。
挨拶は済ませていたはずなのだが、名を覚えていない。矢張り僕に興味がないのだろう。
「え? ええ。はい。そうです。清水清彦です」
手近にあったメモ用紙にフルネームを書く。
「シミズ。キヨヒコ……」
彼女は口中でゆっくりと、僕の名前を発音した。
まるで僕の名前に味があって、それを確かめているような。そんなしゃべり方であった。
「良い名ですね」
唐突に彼女が、にこりと微笑んだ。
そうすると落ち着いた雰囲気が解かれ、子供っぽい表情になる。
「そうですか?」
名前を褒められたことなどない。僕は若干顔を赤らめた。
「ええ。河童にぴったりの名前です」
そう言う彼女の名前も帳簿にある。
僕は町内会で役決めをした時に、彼女の名を覚えていた。だが彼女の真似をする様に言ってみた。
「品川さん。ですね?」
「はい」
「品川さん。たいへん良い名です」
「普通の苗字ですよ?」
「ええ。けれど川がつきます」
川は僕ら河童の命の源だ。
「しかも品のある川です。とても良い名です」
本心からの賛辞であった。
「ありがとうございます」
僕の言葉に、彼女が再び微笑む。
僕を河童だと知って尚。距離をとるわけではなく、普通に話してくれる。しかも話しを合わせてくれる。そんな単純な事が嬉しくて仕方がない。
品川さんは、にこにこと僕を見つめている。
いや、単に向い合っているのだから、意識して僕を見つめているわけではない。流石にそれくらい分かっている。けれど、どうにも心臓が早鐘を打つ。急激に顔が赤らむ。僕は思わず顔をふせた。
これは、あれだ。
非常にまずい。
僕は久方ぶりに、恋に落ちる音を聞いた気がした。
音は不思議なことに心臓の脈打つ音でも、劇的なファンファーレでもなかった。
商売柄。季節になると必ず耳にする、涼やかな風鈴の音であった。
その時。幾多もの風鈴が、僕の頭のなかで鳴り響いていた。
※ ※ ※
風鈴は僕にとっては、特別なものであった。
正確にいえば、宮地夫妻を知る僕にとっては、と言うべきだ。
僕は宮地夫妻と風鈴にまつわる光景を、偶然目にしてしまっていた。
あれは昨年の夏だった。僕は約束をせずに、宮地家の玄関先に立っていた。
突然の訪問は、今までもたまさかあった。
得に夏が多い。夏は粋さんのいる季節で、僕はよく粋さんを訪ねていた。
宮地 粋さんは、桜の樹に宿るオオミズアオの化身だ。
僕と同じ妖だ。妖としての力は、小僧っこの僕などより余程強い。
人に変化をしている粋さんの姿は、河童である僕から見ても美しい。
小柄な、か細い躯。艶やかな長い黒髪と、はにかむような微笑みを浮かべる小さな唇。
しかし最も美しいのは、何と言ってもその瞳だ。番として選んだ宮地圭介を虜にした瞳は、子供のように無邪気でありながら、全てを見透かしている老女のような諦めの色をも含んでいる。
甘いものを好んで食する彼女に、僕は度々差し入れをしていた。
その日も同様の理由で訪れたのだが、呼び鈴を押しても誰も出てこない。
二人揃って留守というのは珍しい。基本粋さんは生粋の家虫だ。滅多に外出をしない。
うたた寝でもしているのか。料理中で気がつかないのか。
時刻はもうすぐ七時半で、辺りはゆっくりと暮れなずんできている。夕飯の準備中は考えられた。ならば縁側からお邪魔して、硝子戸を叩いてみよう。そう考えて僕は庭へまわった。
そこで見てしまったのだ。
縁側の窓をがらりと開け放ち、二人が居た。
何をするともなく、互いにぴたりと寄り添っていた。まるで生まれた落ちた時から、くっつき合っている彫像のようだった。
唯一ゆるゆると、動いているもの。
それが粋さんの手だった。
彼女の手には、一枚の団扇が握られていた。
夏の宵だ。団扇など、珍しいものでも何でも無い。
ただ団扇の風が向かう先は、粋さんでも、傍らの圭介さんでもなかった。団扇は二人の頭上に向かって扇がれている。そこに吊るされているのは、圭介さんが造った陶器の風鈴であった。
僕はその風鈴を知っていた。
圭介さんが粋さんの為に。粋さんを思い。会えない時間に造った風鈴だ。
風鈴が鳴る。
粋さんの団扇の風を受けて鳴る。
すると途端。その空間のみが、日常から切り離された幻影のように僕の目には映った。
それほど二人を囲む光景は幻想的であり、立ち入りがたいものであった。
結局僕は差し入れの菓子を持って帰って、家でひとり食べた記憶がある。
菓子はプリンで、いつもより、ずっと甘く感じた。