肆の参/翡翠堂るいるい奇譚
粋はキヨヒコを、随分気に入ったみたいだった。
キヨヒコも徐々に粋に懐いていった。
暇があれば家に呼んだ。
俺が外から帰ったら、キヨヒコが居て、粋と飯を作っていたこともあった。終いにはキヨヒコ用の箸やら茶碗やらエプロンがおかれ、翡翠堂はなんだか夏中賑やかだった。
無論キヨヒコも一丁前に店を構えている身分。日中からふらふらと遊びに来るわけではない。
店を閉めた後。定休日。そんな時に、ひょいとやって来る。
大抵気の利いた、美味いと評判の菓子を手土産にするもんだから、粋はいつでも大歓迎だった。外の者と接するからだろうか。粋は随分ほがらかに夏を過ごしていた。
「友人ができたのは、初めてかもしれません。夫婦になるのも初めてですし。初めてずくしの夏です」
粋の言葉に、俺は口を尖らせた。
「友人はともかく。旦那は俺が最初で最後でなけりゃあ、困るぞ」
「そうでした」
おどけて肩をすくませた粋は、屈託がなかった。
粋が俺と夫婦になるまでの葛藤を、俺は肌で感じている。
粋は俺の何倍も考え、悩んでいた。
悩んで憂いをおびた横顔が、随分色っぽくなったなあ。なんて、当時の俺はお気楽に考えていたが、上手くいったのは実は奇跡的なんじゃねえのか。
この頃改めてそう思う。そういう時決まって俺は、キヨヒコのあの思い詰めた表情を思いだす。
賑やかに過ごしていたせいだろうか。
夏が終わるのを考えると、段々と気が塞ぐようになっていった。
今迄は嫌なだけだった。粋の顔が見られなくなるのが。声を聞いて、隣にいられなくなるのが、嫌なだけであった。けれど来夏。また粋に会える。単純にそう思っていた。
それが今や秋の到来を考えるだけで身が竦む。
俺の側で笑っている粋が消えちまう。
来夏の粋が、今の粋と同じ気持ちだという保証なんざ、どこにもない。
もし。もう圭介さんに興味なんてありません。そう言われたら?
気の迷いだったんです。そう別れを切り出されたら?
考えだすと俺の胸は、きりきりと痛みだす。こんな弱気になったのは、生まれて初めてかもしんねえ。
まだ夏は始まったばかりだ。だというのに、カレンダーを見るたんびに、次のページが気になって仕方がねえ。粋と離れるのがおっかねえ。
このままずっと、暑い夏が続けばいい。俺はガキみてえに、阿呆な願いを胸に抱くようになっていた。
縁側に寝転んで、入道雲を見上げていた。
粋は庭に降りて、絢子さんの残していった朝顔の鉢に水をやっている。
粋。
おまえの顔が見られなくなるのが。
手を伸ばして触れられなくなるのが、こんなにも辛く思える様になるとは、考えもしなかった。一度手に入れちまうと、あって当然とひとは思ってしまう。無かった時の俺にはもう戻れない。
勿論顔には、ださねえようにした。
分かっていて、粋と一緒になったんだ。
俺がちょっとでも気にしたら、粋はすぐにも不安になったり、申し訳なく思うかもしんねえ。
そんなのは嫌だった。
粋を望んだのは俺だ。だからこそ、粋には堂々と俺の隣にいて欲しかった。
粋はホースを長く伸ばして、庭木にも水やりを始めた。陽光が眩しいんだろう。空いている左手で顔に影をつくりながらも、目を細めている。
紫陽花。雪柳。梅。紅葉。
そんでもって桜へと水をやる。
桜の葉がさやさやと風になびく様は涼しげだ。どこからだろう。風に乗って、微かな風鈴の音が聞こえてきた。
そん時だ。玄関の呼び鈴が鳴った。
「キヨちゃん! きっとキヨちゃんです。圭介さん」
粋が慌てて水を止めると、庭をまわって玄関へと小走りで行く。
今日はキヨヒコと三人で出かける予定だった。粋には珍しい、おでかけだ。
「こんにちは、圭介さん」
二人そろってやって来る。涼やかなクリーム色のワンピース姿の粋と、麻のシャツを来ているキヨヒコは、なんだか姉弟みたいだ。
「おお!」
俺は声を張り上げると、起き上がって胡座をかいた。
「お祭り。行きましょう。圭介さん」
粋がはずんだ声をあげる。
「よし。運転はキヨがしろよ。俺は麦酒を、がんがん飲むんだ」
「了解です」
キヨヒコは苦笑いを浮かべながらも、自分のミニバンのキイを片手に、俺にむかって敬礼をしてみせた。
※ ※ ※
三人で出かけた川辺の祭りは、キヨの生まれ故郷の祭りだった。
川に沿って、多くの出店が並んでいるのだが、きゅうりを扱っている店がやたらと目につく。
キヨは冷やしきゅうりを買っては、すげえ勢いで喰っていく。
「やっぱ河童の祭りだからか?」
俺は大量のきゅうりに、少しだけ辟易しながら聞いた。
「でしょうねえ」
粋がのんびりと応える。
俺と粋は川の浅瀬にある、比較的でかくて平たい岩にそろって腰かけては、キヨの買ってくる味噌こんにゃくだの、かき氷を喰いながら、足先を流れる水に浸している。
キヨヒコはせっせと川と出店を往復する。少しは腰を落ち着けておまえも座れと言うと、一旦は腰をおろす。そうしてきゅうりを喰っちまうと、またぞろ買い出しへ行く。せわしない。
川沿いの道を、何組もの家族や友人同士。恋人同士がそぞろ歩いて行く。
なかには一目で河童だと分かる者もいる。そういう者は、大抵が酔っぱらって、正体をちょろっとだしちまっている。
だが今日は無礼講なんだろう。誰も指差したり、珍しがらない。
川を挟んだ道なりにある樹々は、枝同士を紐で結ばれ、ぼんぼり提灯と風鈴が交互に吊るされている。川を渡る風に、ゆらりゆうらりとふたつが揺れる。
「楽しいですね」
粋は足先で水面を叩いては、ちいさな水しぶきをあげている。
時折トンボが飛んできて、ついついと飛んで行く。
「ああ」
「涼しいし、かき氷は美味しいし」
「ああ」
「風鈴。良い音色ですね」
「ああ」
「とっても楽しいです」
「俺も」
二人そろって顔を見合わせた。
粋は今ここにいる。俺の隣で楽しげに微笑んでいる。
俺は麦酒を片手に、きゅうりとおでんを喰っている。夏のあっちいおでんも、なかなかに美味い。
キヨは忙しなく歩き回っては、きゅうりの出店を冷やかしている。あいつ腹壊さないかと俺が心配すると、粋が、「河童ですもの。大丈夫」そう言って鷹揚に笑う。
ああ。いいなあ。
俺は夏空を仰いだ。
家んなかで、見えねえ不安に凝り固まるより、断然いい。
こうやって何かしてる方が、断然いい。
俺はどうせ、そんなに賢くねえんだ。だったら楽しいことを日々数えてる方が、性に合っている。
頭上で風鈴が揺れる。この音を聞いて涼やかに感じるのは日本人特有らしい。もったいねえ。世界全国の夏に、風鈴はあってしかるべきだ。
「なあ。粋。風鈴好きか?」
俺の唐突な質問に、粋は氷を喰う手を止めると、俺と同じように頭上を仰いだ。
「好きですよ。軽やかで。涼しげで。ああ、夏だなあ。ってそう思いますもの」
「うん」
「風鈴。買うんですか?」
風鈴を扱っている出店もある。けど俺は頭を横に振った。
「いんや」
適度に酔いが回っている頭を、俺は粋の肩に押し付けた。
「酔ってしまったんですか?」
「いんや」
目を瞑る。
川面を渡るせせらぎが。
頭上の風鈴が。
夏の音色が、俺に幸せを運んで来る。
「圭介さーーん。麦酒お代わりいりますかあ?」
キヨヒコの声が遠くで聞こえる。粋の息づかいを近くで感じる。
「しいい」
近づいて来たキヨヒコに、粋はきっと唇の前で人差し指を立てているんだろう。
ああ、想像がつく。
「眠っちゃったみたい」
「え? そうなんですか?」
途端。キヨヒコがひそめた声で話しだす。
「重たくないです? 大丈夫ですか? 粋さん」
「わたし妖ですよ。これくらいへっちゃらです」
粋がくふふと忍び笑いをもらす。
そうか、粋。
お前結構力もちなのかもしれねえな。
まだ夫婦になって僅かだった。
俺はずっと、長い時間お前に惚れていたから、忘れていた。
そうだ。まだまだこれから、ずうっと一緒に夏を過ごすんだ。
だったら辛気くさい事を、考えているなんてもったいねえ。
二人で。時にはキヨヒコもいれて。他の友人をつくったっていい。
皆で。二人で。うんと楽しくやっていくのがいい。きっと、いい。
「圭介さん、笑っていますよ」
キヨヒコの声がした。
「ホント。子供みたいな寝顔」
粋の指先が、そっと俺の右手から麦酒缶を外す。瞼が重い。もうちっとだけ。こうしていよう。
風とさんざめく人々の声が、心地よい。
隣にいる粋の体温が、心地よい。
薄く開けた瞼ごし。水面にちらちらと映る光は弾けて見える。
なんて奇麗な自然のプリズムなんだ。
俺はそのまま、粋の隣で眠りこけていた。