肆の壱/翡翠堂るいるい奇譚
真夏の夕刻。
河童に出会った。
河童と言っても、頭のうえに皿はない。背に甲羅もない。
どっからどう見ても、今時の兄ちゃんだった。
※ ※ ※
「ただいま」
と言う。
するってえと、すぐさまおんなが素っ飛んでくる。
それが嬉しくて、ついにやけちまう顔を意識的に引き締める。俺は元が強面だ。なので眉間に皺がよると、顔が怖くなっちまうらしい。
「嫌なこと、あったんですか?」
上がり框に立ったおんなが、小首を傾げて心配気に聞いてくる。
「いんや」
俺は首を降ってから、保冷バックをおんなへ手渡す。
「頼まれた食料品。それとアイスが入ってる」
「お土産ですね!」
「冷凍庫にすぐ入れるか、喰っちまった方がいい」
「すぐ食べます!」
おんなが、はずんだ声をあげる。
生前の絢子さんの言葉通り、おんなは甘いもんが好きだ。自分では滅多に外に出かけないから、土産で渡すとすっげえ喜ぶ。それがまた可愛い。
「粋」
呼ぶと冷蔵庫の前にいたおんなが、「なんですか?」と振り返る。
「いんや。なんでもねえ」
名前を呼ぶだけで嬉しいなんざ、俺のガラじゃあねえ。
「変な圭介さん」
おんなが微笑む。
おんなの名は、宮地 粋。
俺の贈った名オオミズアオの名だ。
出会って三年目の夏。おんなは俺から名を受け取った。
※ ※ ※
俺は夏になると、毎日粋にプロポーズを繰り返していた。
我ながらしつこかった。
一年目は鼻も引っかけてもらえなかった。
二年目。粋の態度は少しずつだが、ほぐれてきた。
それまでは、俺の顔を見ちゃあ逃げだしていた。それが隣に腰かけて、一緒にピアノ曲を聞くまでになった。
「あんたに惚れてる」と告げると、頬がさっと染まるようになった。
そん時俺は確信した。
粋は俺にこころを寄せている。
もしかして。気づいていないかもしれねえが、俺達はきっと両思いだ。
俺の心は躍った。けど粋は、なかなか心のうちを明かしてはくれなかった。
俺はひとで、粋はオオミズアオの化身。
妖だ。
しかも粋がこの世にでてこられるのは、夏の季節だけ。
粋にとって、俺との壁は超えるのを戸惑う程にでかかった。
俺は細けえ事なんざ、気にかけねえ。
そりゃあ、好いたおんなと年がら年中一緒にいられたらいい。
けどできねえっていうんだから、仕方がねえ。仕方がねえ事をぐだぐだ考えたって、無駄ってもんだ。
ただ相手が粋じゃなけりゃあ、早くしてくれって、どやしていたかもしれねえ。
けど伊達に長い間、待っていたわけじゃあねえ。ここまで来たら、粋が納得するまで腰を落ち着けて待つつもりだった。
粋に惚れて三年目。
いつも通りの夜だった。
昨年の夏の終わり頃から、粋は俺に飯を作ってくれる様になっていた。
弟弟子の浩平が、散々俺に惚気た気持ちが、今なら分かるってもんだ。
手料理はいい。何喰ったって感激する。浩平。あん時はやっかみまじりで、どやしてすまなかった。けどまあ、もう水に流してくれるよな。
浩平は、すったもんだの末結婚した。
今やあんだけ嫌がった、寺の義息子だ。人生なにがおこるか、分かんねえもんだ。
その日の夕飯は絢子さん仕込みの洋食じゃなく、肉じゃがだった。それに蘘荷と葱をたっぷりかけた鰹のタタキが、でんと大皿に乗って置かれていた。
俺は缶麦酒を飲みながら、粋の手料理を食べていた。
粋はこういう飯は、作ってもほとんど喰わねえ。変わりに冷やした桃を喰っていた。
居間からは、うす闇のおりた庭が見渡せた。
粋の桜の樹は枝をおおきく張り出して、夜風に葉をしならせていた。
日中はそりゃあもう、蝉の声がうるせえ。それもぱたりと止んでいた。
部屋んなかでは、グレン・グールドの「バッハの六つのパルティータ」が流れていた。粋が結構気に入っているやつだ。
静かな。落ち着く夜だった。
粋の手料理を喰い終わって、俺は背筋を伸ばした。
奇麗に拭かれた卓上に、よれた封筒をすっと置く。もはや食後のルーティンみたいに、「受け取ってくれ」そう切り出そうとした時だ。
「貴方に寄り添っていきたいと思います」
普段では考えられない早口でそう言うなり、粋の手が封筒を手元に寄せた。
俺は何がおこったか分からなかった。そんくらいの不意打ちだった。
「へ?」
間抜けな声をだした俺に構う事なく、粋は封をきる。
よどみの無い動作だった。
「すい」
粋が手紙に書かれた、俺の文字を声にだして読み上げた。
「純粋の粋ですね」
「お、おお」
動揺してたんだ。俺の上擦った応えに、粋がくすりと笑った。
「圭介さん」
粋が俺の目をまっすぐ見てそう呼んだ。
圭介さん。俺の名だ。
けどそう呼ばれたことなんざ一片もなかった。みるみる自分の顔が赤らんでいくのが分かった。
「貴方から名を呼んで下さい。そうして初めて、わたし達夫婦になれるんです」
粋の微笑んでいる口元が、微かに震えていた。
でっけえ目ん玉は真剣なひかりで満ちていた。
粋は今、おっかながっている。自分の決断にびびっている。
途端何とも言えねえ気持ちが、ぐわあっと俺の腹んなかで渦巻いた。
俺は席を立った。
「粋っ! 」
まるで決闘を申し込む、武芸者みたいな大声で怒鳴った。
「はいっ」
粋も珍しく慌てていたんだと思う。
教師に名指しされた生徒みたいに、ぴょこんと立ち上がった。
俺等はそうして、食卓テーブルを挟んでしばし直立不動で向い合った。
そのうち、どちらからともなく笑いがもれだした。
俺は大笑いしながら、粋に飛びついた。
胸のなかに粋を閉じ込めた。
粋の躯は怖いくらい細っこくて、ぐにゃりと柔らかかった。
グールドの曲は第五番から六番へと流れていく。一粒ひとつぶの音が鍵盤のうえで弾かれ、俺と粋の躯に染み渡っていくようだった。俺は腕の力を強めた。
「粋、好きだ」
粋と、名を呼びながら好きだと言うのは初めてだった。
「側にいさせて下さい」
小せえ粋は、爪先立ちしながら俺を見上げてそう言った。
その目元がちょっと濡れていた。
涙をこらえている様子があんまり可愛くて、俺は粋の目元に唇を寄せた。
「側にいろ」
右の目元の涙を吸った。
「はい」
「ずっとだ。ずっと俺の側にいろ」
左の涙にも口づけを落として吸った。
「夏だけです。夏しかいられません」
粋の声が、堪えるように震えた。
震える必要なんざねえ。全部ひっくるめて、俺はおまえを受け入れるんだ。
「知ってる。お前は夏の間俺の側にいろ。他の季節は俺がお前の側にいる」
「はい」
粋が俺に縋り付いた。
俺はきつく粋を抱きしめた。
念願かなって、この夏。俺と粋は夫婦になった。