参の伍/翡翠堂じゅんじょう奇譚
気分を害したわたしは、宮地としばし顔を合わせまい。そう誓った。
なのに翌日には、宮地の声が聞こえてくると、気になって仕方がない。
出かけそうになると、居ても立っても居られない。
どこに行くのだと問いつめたいが、相手は子供ではない。健全なる成人男性。わたしに行く手を阻む権利はない。
だからと言って、家で待っているのは苦痛である。
平静を保とうとするのだが、全ては徒労に終わった。
要は宮地から、目を離すと疲れるのだ。
ならばできる限り近くにいれば良い。そうだ。それが最も精神的によろしいではないか。
わたしは意識して、宮地の側に行くようになった。
仕事になると、宮地の工房からはピアノ曲が流れてくる。
似つかわしくない事に、宮地は作業中クラシック音楽をかける習慣があった。
ピアノの軽やかなメロディーが聞こえてくると、誘われるように工房を覗くのが日課になっていった。
宮地は大抵、入り口に背を向けて轆轤を廻している。その背中をそっと見る。
大きな。逞しい背中である。
やがてわたしの視線に気がつくと、宮地が「おお」と声をあげる。そのまま作業を続ける時もある。今日はきりが良かったのか手を止めると、「俺に用か?」と聞いてきた。
「別に」
「そうか? そろそろ懐いたんじゃないのか?」
「犬猫のように言わないで下さい」
「じゃあ何だ?」
「この間の……」
「ああ?」
「あのひとが来るのは嫌です」
「え?」
驚いたように宮地が目をまるくする。
言ったわたしだって驚いた。
これではまるで焼きもちを妬いているようではないか。
違う。ちがう。
他の妖に来られるのが嫌なのだ。
「ええと。八田みやこか?」
確かめるように、宮地がフルネームを口にする。
立ち上がると土で汚れた手を流しで洗い、わざわざこちらまでやって来る。
「……そうです」
「ああ。そうか」
「はい。ちょっと……苦手なので」
口もごったわたしに対して、宮地は分かる、わかると頷いた。
「俺もあいつは苦手だ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「でもお友達なんですよね?」
「いんや。違う」
「だって……会っているのでしょう?」
「俺と八田みやこが? まさかだろ」
「けど、そう言っていましたけど」
「あいつは、浩平っていう弟弟子の恋人だ」
「え?」
「先日婚約したって言うから、祝いの会に行っていた。その事か?」
「……そうなんですか」
「おお。弟弟子はぞっこんなんだが、俺は八田みやこのきつい目が苦手でな」
「……そうですか」
「おお」
では宮地の弟弟子は、妖まじりと婚約をした事となる。
それまた何とも奇特な話しだ。
宮地の口ぶりでは、どうやら八田みやこの正体には気づいていない。宮地が八田みやこから、危害を被る事態はないであろう。ならばここは黙認しておくのが、妖としての礼儀というもの。そうわたしは結論をだした。
曲が変わった。
わたしは宮地の方は見ずに尋ねた。
「……この曲は?」
「ああ。ドビュッシーのパスピエだ。好きか?」
「……好きです」
口にすると頬が熱くなる。
好きなのはこの曲だ。宮地ではない。
「俺も好きだ」
けれども宮地の口から「好き」の言葉がでると、胸が高鳴ってしまう。
今晩もきっと。宮地はわたしへ封筒を差し出す。そして違う意味の、同じ言葉を口にするはずだ。
今よりもっと。
甘さの滲む声で告げられる「好き」の言葉を思うと顔が赤らむ。
「じゃあ、こっちこいよ」
宮地が工房の椅子を指差す。
「ピアノ奏者はミシェル・ベロフ。二〇〇七年のアルバムだ」
宮地がCDを片手に曲の説明を始める。
わたしは宮地の座る椅子の隣に腰かけた。
頬がまだ火照っている。
夏の暑さを感じないオオミズアオなのに、変である。
変だというなら、宮地の側が心地良いと思えるのだから、全てが変なのだ。ならば気にしてもしょうがないではないか。
わたしがピアノの音に耳をすましていると、宮地がふいに背を丸め、わたしを覗き込んだ。そうすると躯の大きな宮地に、すっぽりと包まれるような感覚におそわれる。
「……何ですか?」
「俺が惚れているのは、あんただけだぞ」
唐突に。
真面目な瞳で宮地が言った。
「え?」
「八田みやこに、気持ちが動いたことなんざねえ」
「関係ありません」
「そうか?」
「そうです。気にもしていません」
「ならいいんだ」
宮地が目を細めて微笑んだ。
「他の女なんざ関係ねえ。好きなのはあんた一人だ」
今までならば何を言われても平気だった。鼻で笑ってかわせた。
なのに。
どうしようもなく胸が締めつけられる。
「あんたが少しでも俺のことを思ってくれるなら、俺の人生丸ごともらってくれ」
宮地の掌が、そっとたしの頭を撫でる。
「……わたしは夏しかこの世にいられない妖です」
「知っている。けど関係ねえ。俺の人生も。俺の器も。あんたに全部もらって欲しい。いらねえって返されたって、困っちまう。な? いいだろう?」
撫でる掌が、髪のうえを滑っていく。
「……困ります」
「俺だって困る。引く気はねえんだ。どっちみち。あんたはいずれ俺に絆されて、もらっちまうしかなくなるんだ」
「……酷い言いぐさですね」
声が震えた。
わたしが居られるのは、夏だけの閉じられた場所だ。
それでも良いと。本当に分かってこの男は言っているのだろうか。
「そうか? まあ、俺はひでえ男だからな」
宮地が笑う。
裏の無い。まっすぐな笑みだった。
夏だけ。この瞬間だけ。
宮地の側はわたしの居場所だと。そう思っても良いのだろうか。
「俺に惚れたら、ちゃんと言えよ」
そう言うと宮地はわたしの頭を軽く叩き、席を立った。
急に離れた距離と掌に、わたしは物足りなさを感じた。
「同じベルガマスク組曲だが、奏者が違う。音がちょっと軽いぞ」
宮地が次のCDをセットする。
わたしは気づかれないように、宮地の横顔を盗み見た。
美男子ではない。だがどうしてなのか、好ましく思えてしまう。
顔も。声も、指先までも。
ふと。自分から触れてみたい衝動にかられ、慌てて顔を背けた。今はまだ。この距離感で十分だ。
※ ※ ※
やがて。わたしのこの気持ちは際限なく膨らんでいく。
声を聞き、隣に座り、顔を見るだけでは飽きたらず、宮地の腕のなかを望んでいく。
甘く苦しい葛藤のなか。
夏だけではなく、永久を。
宮地からの「名」という絆を望むようになっていくのは、すぐ先の未来の夏だ。