壱の壱/翡翠堂ゆうれい奇譚
本作は角川「野性時代フロンティア文学賞」一次通過したものですが、完結後改稿した部分もあります。
昨年なろうにて連載していました「翡翠堂あやかし奇譚」が基本となっている為、ところどころ旧作と同じ部分があります。
空が随分しろく、雲が下に大きくはりだしている。
くるな。と、思っていると、雨がざざっと降ってきた。
夏の雨だ。
すぐにも止むであろう。
縁側で眺めていると、桜の樹のしたにでた。でた。と言っても、幽霊ではない。
極美しいおんなである。
但し、ひとではない。美しき翡翠の羽をもつ蛾。オオミズアオの化身である。
もう幾世代も以前から、庭の桜の樹に住みついている。
こうやって。夏の間だけひとの姿をして出てくる。
「御機嫌よう。ご隠居さま」
「おお。今年も別嬪だな」
儂の返事にオオミズアオが、にこりと微笑む。
オオミズアオに名はない。
不便であるが、つけるわけにはいかぬ。
つけると情をかわすこととなる。そうすると、妻に対して不義理となる。
そこいらへんは、オオミズアオも心得ていると見える。名を強請ることはない。
それはそれで寂しいものであるが、致し方あるまい。
「ちょいと。来てご覧」
手招くと素直にやって来る。
近くに寄ると、色の白さが際立つ。抜けるようなとは、まさにこの娘の為にあると言える。
「どうしたのですか? ご隠居さま」
「いや、なに。水羊羹が冷蔵庫にあるらしいから。おまえ良ければ食べなさい」
「あら嬉しい。御馳走になります」
オオミズアオは幼虫の時には、桜や梅の樹の葉を食べる。育つと口がなくなり、ものを食むことはなくなるらしい。この娘は、しかしよく食べる。
初めて会った時は、儂の残したゆでトウモロコシを縁側で齧っていた。儚げな容姿とは裏腹に、意外やおきゃんなところがある。それがまた愛らしい。
「……あら」
縁側までにこにことやって来て、そこでぱたりと歩を止めた。大きな榛色の瞳をぽかりと開け、立ち尽くす。
「宮地さん。お留守かしら……?」
そう言って無人の部屋を見渡す。家の主の姿はない。
オオミズアオの顔が曇る。目の端に不安が宿る。
この娘がこんな顔をするようになったとは。感慨深いものがある。
嬉しいような。
寂しいような。
儂には息子が一人いる。もう人の親になっている年の息子だ。もし儂に娘がいたら、こんな感情を味わったかもしれぬ。
「なに。じきに帰ってくるだろう」
「ご隠居さま。宮地さんにお会いになったの?」
「さっきちらと見かけたが、いつも使う軽トラの鍵を持っていた。仕事じゃないかい」
「あら。そう」
儂の一言に安心したのか、オオミズアオは慣れた様子で庭から縁側へあがりこむ。そのまま居間を通り台所へ向かう。
「ご隠居さま。缶麦酒もありますよ」
黒塗りの盆を両手に戻ってくる。
盆のうえには水羊羹を乗せた皿と麦酒がある。缶に触ると、きんと冷えている。
「しかしこれ、宮地のものだろう」
あの男が水羊羹を食わないくせに用意しているのは、オオミズアオの為だ。
それくらいの察しはすぐにもつく。
だが飲んべえの麦酒を、勝手に拝借するのは気が引ける。しかもエビスだ。あまり金まわりの良いとは、いいかねる男だ。エビスなんて、とっておきの楽しみなんじゃなかろうか。
「大丈夫ですよ。ほら」
オオミズアオは気にする素振りもなく、紙片を儂へ差し出した。どこか湿っぽい手触りの紙は、これまたひんやりとしている。
「水羊羹の箱に貼られていました」
粗野な外見に似合わぬ達筆な宮地の筆で、『麦酒あり。爺さん飲むなら飲め』と書かれている。
「ね? 大丈夫でしょう」
そう言うとオオミズアオはこちらの返事も聞かずに、華奢な指でプルトップを景気よく開ける。
懐かしい音に、自然喉が鳴る。
きっと前まえから用意していたのだろう。メモの文面はいかがなものかと思うが、なんとも味なことをするではないか。有り難く頂戴することにした。
この家の主ーー宮地圭介なる男は、口は悪いし、目つきも悪い。
とかくがさつに見られがちだ。
だが日々轆轤を廻し器を造っているだけあり、あれでなかなかどうして細やかな神経を持ち合わせている。
オオミズアオは嬉しそうに、水羊羹をちいさく切り分けては、口に含んでいく。
宮地の心遣いが嬉しいのであろう。
これだって、今日あたり現れるだろうと思い、用意していたに違いない。まあ儂の麦酒はおまけであろうが、気に留めてくれているのかと思えば爺だって嬉しいものだ。
麦酒の缶に口をつけると、絢子の顔が浮かんだ。あれは缶から直に飲むのを嫌がるおんなであった。
だがここは、もはや人様の住居。出された物をいただくのに、コップを所望するのも我が儘であろう。第一儂は全く気にならぬ。
口に含む。黄金のきんと冷えたアルコールが喉元を過ぎる。そこから胃の腑まで一気に流れ込む感覚が、たまらない。
別嬪さんのオオミズアオを隣に侍らせ、飲む麦酒は格別だ。実にせいせいとした心持ちになっていく。
雨は勢いを増している。
湿り気が強まり、土の匂いが、どこからともなく漂ってくる。天からの恵みの銀糸は、夏の風景をにじませながら彩っていく。
庭の桜も梅の樹も。黒い影となって雨のなかに溶けていくようだ。
風にのり、遠く車の走る音が切れぎれにここまで聞こえてくる。その度にオオミズアオは、そわそわと落ち着かぬ様子で耳をすます。
本当にこの娘は変わった。
儂の家族と、この家にいた年月。
この娘は誰かを待つということがなかった。
ひとを超越した存在であるがゆえの、深淵の縁に一人でいた。こころは人間から、とおい縁を漂っていた。それが、ちと空恐ろしくも悲しかった。
できればこの娘の、縋り付く存在になりたかったものだが、爺には叶わぬ夢というものだ。だからと言ってはなんだが、儂は最後に餞を用意しておいた。
年寄りのお節介かもしれぬと思っていたが、餞は目論み通り、娘の心をつかんでくれたらしい。
オオミズアオは水羊羹をたいらげると、「ごちそうさま」と手を合わせた。
「遅いですね……」
そう言いながら水羊羹の乗っていた、小ぶりの平皿をそっと指先でなぞっていく。
皿は深みのある蒼色だ。この蒼は宮地の蒼だ。儂が惚れ込んだ蒼色だ。
宮地の師匠である「六角窯」の六角先生の青は艶やかなものだった。器自体の形が華やかで、作品として優れていた。弟子の宮地のものは、六角先生と比べると素朴な器だ。ひとが日々使う、普段使いの器である。
儂の隣でオオミズアオがため息をつく。
「遅いわ……ホント」
オオミズアオが独りごちた時だ。
さっと、表の格子戸が開く音が響いた。
「帰ってきました!」
オオミズアオが喜色を浮かべて、玄関に向かって駆けて行く。
その背中が幸せだと語っている。
眺めるだけで、爺のこころの底が、ほっこりしてしまう。いかん。いかん。年をとると、どうにもおセンチになってしまうようだ。
玄関先からは、賑やかなふたりの声が聞こえてくる。
プルトップを開けた缶麦酒の表面を、いくつもの水滴が流れおちては、盆に小さな水盤をつくっていく。どうやら麦酒は温まりつつあるようだ。
水羊羹の乗っていた皿は空っぽだというのに、飲んでものんでもエビス麦酒は減っていない。
麦酒を口にふくみ、美味いと思った。
喉を通りすぎる感触が、心地良かった。
だがそれは全て儂の頭がつくり出した、記憶の反芻に過ぎない。所詮はまぼろしの感覚だ。
割り切ってしまえば便利でさえある。だがどうにも厄介な存在だとも感じてしまう。
まだこの地で暮らしていけるのではないかと、時々思い違いをしてしまいそうになるからだ。
ここはもう、儂の居場所ではない。
縁側から庭先へと降りる。
雨は降り続いているが、儂の躯は濡れることはない。
麦酒も。雨も。儂の躯にとどまることなく、通り過ぎていくだけだ。
天にむかって両手を伸ばす。
するとそのまま躯がひゅるりと、空中へ吸い込まれていく。ふわふわと漂っていくと、宮地がいた。
宮地の背後。門柱には「翡翠堂」と書かれた、表札変わりの平皿がかかっている。儂と絢子の住んでいた家は、今では宮地の工房兼住居となっている。
宮地は百九十の長身に逞しい躯つき。
無精で伸ばした髪が邪魔だと、頭にはタオルを巻いている。いつもどこか土で汚れた服装をして、お世辞にも美男の部類ではない。だが精悍な顔立ちは笑うと愛嬌があって、おんなに、もてなくもない。
事実六角先生からは、若い時はそれなりに遊んでいたと聞いている。
それがどうだ。
玄関にはいれば良いものを、格子戸を開けたままオオミズアオに抱きつかれ、どうしたものかと固まっている。
儂が見込んだ通りだ。
遊びかたを知っていても、この男は惚れ込んだおんなには初心そのものだ。
宮地の無骨な大きな掌が、おずおずとオオミズアオの頭を、こどもをあやすように撫でていく。
じれったいにも程がある。もっとやりようがあるだろうにと、活を入れてしまいたくなる。
まあだからと言って、これ以上のお節介は野暮ってもんだ。
それに仲睦まじいふたりを見ていたら、無性に儂も妻の絢子に会いたくなった。
霊体であっても、ひとの情というものは無くならないらしい。一層強くなっていく気さえする。それが分かっただけでも、生きている時よりも賢くなった思いである。
妻の待つ涅槃へ、儂は戻る事にしよう。
オオミズアオをよろしく頼むぞ、宮地圭介。
ぜひにも良い名をつけてやってくれ。




