星売りの少女
深い深い谷の底に、【雪掘りの町】はあります。
厳密に言えば、そこは谷ではありません。旧い時代の遺物を求めて、降り積もった雪を掘って掘って掘り続ける内に自然とこんな地形になったのです。
谷底の町は、国中から商人やら労働者やらが集まって、いつも聖夜祭のように賑わっています。夜も人々は眠ることなく、明かりでチカチカ光るそこはまるで地上の銀河です。
家の中から溢れる光と街灯に照らされた大通り。その端っこに立って、一人の若い娘が、道行く人々に声をかけていました。
「あの……マッチは、マッチは要りませんか?」
残酷なまでに煌びやかな町の灯りが、娘の青ざめた頰を照らしていました。マッチ箱の入った籠を持つ手は寒さに震えて、指先まで氷のように冷え切っています。
「誰か……」
その時、娘のすぐそばを、一人の少年が横切りました。娘は思わす手を伸ばして、少年の外套の端を掴みました。
「うわっ」
「あ、あの、マッチは要りませんか?今ならお安くしますし、サービスも致します!」
娘は、突然のことに驚きつつもあゝまたかと云いたげに此方を振り返った少年と目を合わせました。
驚くほど綺麗な、黒曜石のような瞳を持つ少年でした。
年の頃は娘の少し下でしょうか。旅人の装いで、灰色のフードを目深に被っています。
「あの、僕、あまりそういうことに興味はないので……」
「そ、そんなこと仰らずに!一晩、一晩銀貨一枚で構いませんから……!」
「……ごめんなさい」
それでも娘がしつこく追い縋っていると、二人の後ろから別の声が掛かりました。
「カガミ、どうしたの?」
「あ、ハル……」
カガミと呼ばれた少年が振り返りました。娘も合わせて振り返り……思わず言葉を失いました。
そこに立っていた少女は、娘が今まで現実で見たことのないような−−昔に読んだ御伽噺に出てくるお姫様のような−−美しい姿をしていたのです。
春の野原のような若葉色の長い髪、桜の花弁のような薄桃色の瞳。降り注ぐ雪の中、白いマフラーを首に巻いて、寒さに息を白く濁らせていましたが、彼女の立っている場所だけが不思議とあたたかな雰囲気に包まれていて……それ故に、マッチ売りの娘には近寄りがたく思われました。
しかし少女は、娘を見て云いました。
「おや、貴女、マッチを売っているんですか?」
「え、ええ……まあ……」
「それなら私も頂いて宜しいですか?一箱お幾らですか?」
「……あ。……ええっと……マッチ一箱なら、銅貨五枚くらいでしょうか?」
「分かったわ。ありがとう!」
少女は無邪気な笑顔のまま、マッチを一箱買いました。
「私達は旅人で、この町に来てから、改めて旅の資金を貯める為に期間限定で働き始めたばかりなのです。此処を左に曲がって真っ直ぐ行った先の薬屋さんです。もし具合が悪くなったら、すぐ来て下さいね!」
「は、はい」
「それでは、さよなら!」
「……さよなら」
薬屋さんのある方に歩き始めた少年と少女を、暫くの間、マッチ売りの娘はじっと見つめました。その視線には、憧憬とほんの僅かな妬みが混じっていました。
それから遠ざかる二人に背を向けて、再び、道行く男達に声をかけ始めました。
「あの……マッチを買いませんか?」
「ふん。お前は顔色が悪すぎる。幾ら見目が良くとも、こうまで陰気臭い相手にその気にはならん」
「…………」
結局その後も客を取ることは出来ず、マッチ売りの娘はとぼとぼと歩き始めました。
裏通りの薄暗い細道に入ったその時、急に胸がどきっとして、彼女は大声で泣き始めました。泣きながらぐるぐるぐるぐる考えたのです。
(今日会った女の子は、私が本当にマッチを売っていると思ってたんだわ。家族も住む場所も持たない私がこれまで何をして生きてきたのかを、私がどんなに惨めで穢らわしい存在なのかを知らないのだわ。嗚呼、ああ!妬ましく思ってしまった自分が情けない!)
娘は暫く泣いて泣いて泣き続けましたが、やがて不器用にしゃっくりあげて泣き止みました。泣いていてもどうしようもないからです。
その時、不意に彼女は、立ち尽くしたまま泣いていた自分を黙って見ていた人に気が付きました。
まだ十にも満たないような男の子でした。男の子は襤褸を纏って、頰をこけさせて、無気力な眼で娘を眺めていました。
娘は静かに訊きました。
「……あなたも、お腹が空いているのね?」
「うん。もう、一昨日から何も食べてない」
娘は一瞬、いま持っている銅貨を恵んでしまおうかと考えました。しかし、最近ほとんど食べる物にありつけていないのは自分も同じです。
娘は結局、男の子から視線を逸らし、あたかも逃げるように裏通りの奥へと走って行ってしまいました……。
どのくらい走り続けたでしょうか。いえ、そう長い距離は走っていないでしょう。ろくに食べたり休んだりしていない体はあっという間に限界を迎え、痩せこけた足はがくがく震えました。体力の消耗に伴って、霏霏と降り注ぐ白雪が、体温を奪っていきます。
それでも、娘は歩みを止めませんでした。止められませんでした。今夜は木賃宿に泊まる分の金さえないのです。彼女はあてもなく彷徨い歩きました。
やがて、【雪掘りの町】の郊外……つい最近まで“採掘場”であった場所まで歩いて、娘は漸く立ち止まりました。
深雪に半ば埋もれつつ、チカリと光るものを見つけたのです。
(何だろう?でも、何だか綺麗……)
娘は屈み込んで、その場の雪を掘り起こしました。素手でしたが、冷たさはちっとも気にしませんでした。その手はとっくに悴んで、指先まで冷え切っていたものですから。
すると、
青い星のような光が辺り一面に散らばりました。
(な……)
娘は思わず目を閉じました。
そして、気がついてみると、
「…………!」
彼女は、一枚の銀貨をその手に持っていました。
これまでに見たことのない、美しい銀貨でした。自分が知っている銀貨よりも一回り以上大きく、その色は本物の銀よりも鮮やかで、しかし羽のように軽く、夜空の星のように自ら光を放って輝いていました。
娘は少しの間、目を見開いて銀貨を見つめていましたが……それと同時に、この瞬間に、自分が為すべきことを悟りました。
だから。
娘は勢いよく雪を蹴って立ち上がり、町へと引き返すべく走り始めました。
マッチ売りの娘は走って走って走りました。雪に埋もれた石畳を踏みしめて、吹溜まりを飛び越えて、降り続ける雪よりずっとずっと速く走りました。
つい先程まで、もう少しも走れないと感じていたのが嘘のようです。あの、貧しさに窶れ惨めさに泣いていた哀しい少女はもう居ません。その頰は赤く熱り、その瞳はキラキラと輝いていました。銀貨の放つ煌めきが、彼女のか細い指の中を流れる、生き生きとした血潮を透かして見せました。
娘が目指したのは、薬屋さんでした。
彼女は戸を開けて飛び込むと、丁度いま店番をしていたのでしょう、あの、カガミという少年が顔を上げました。
「君は、あの時の……」
「薬を下さい!」
娘は云いました。
「薬を下さい!名も知らぬ“あの子”の命を繋ぐ、飢えと寒さに苦しむ子供を生き長らえさせる……そんな薬を!」
娘が持っていた銀貨を差し出すと、カガミは大きな眼をますます大きく見開きました。
視線を、銀貨と娘の顔との間で何度も行ったり来たりさせて、それから、絞り出すような声で云いました。
「それで……いいの?」
「え?」
「お姉さんは、それでいいの?この銀貨は切符だよ。何処へだって行ける、何だって買えるお金だ。これがあれば天国にだって行けるんだよ」
娘には、カガミが言わんとしていることの意味を理解していなかったのかも知れません。尤も、理解していようがしていなかろうが、答えは変わらなかったのでしょうが……娘はきっぱり首を振りました。
「構わないわ。今まで余裕なんてなくて、自分のことばかりで、そんな自分が惨めで情けなくて……でも、それでも、たった一人を助けられるなら。それだけで、私は自分が生きた意味を見出せるかも知れない。それが本当の幸いなのかも知れない。そう思うのよ」
「……。そっか」
そうなんだ。繰り返し、カガミが呟きました。観念したように息を吐いて、しかし次には弱々しく微笑みました。
「それなら、僕は止めないし……そういう人に会えたことを嬉しく思うよ」
「……私も。最期にあなたみたいな人と話せて良かった」
カガミは棚に向かうと、そこから一本の小瓶を取り出しました。そして、銀貨と引き換えにそれを手渡しました。
「この薬は」
カガミはそっと囁きました。
「【春の女王様】が作った魔法の薬だよ。いずれはこの国に春をもたらす、この国を覆った雪を溶かして見せる。だから、効果は保証付きだよ」
「それは良かった。……それじゃあ」
娘は笑って云いました。
「さよなら」
「さよなら」
そうして、再び、恐ろしく乱れた雪空の下へと、凍えるような寒さの外へと飛び出して行きました。
真っ直ぐ駆けていく娘の後ろ姿が見えなくなるまで、カガミは建物の外と内の狭間に立ち続けていました。
カガミは見ていたのです。
全てを覆うように隠すように降り積もる雪の上に、彼女の足跡が刻まれなかった様を。彼女の手を離れた瞬間、淡雪のように銀貨が消えていった様を。
「……だから、僕は春を探すんだよ」
あのマッチ売りの娘も、自分と同じ宿命を負っていた双子も、自分に石を託してくれたお爺さんも、全ての魂が報われるように。
あの赤頭巾の子が、貴女が救いに行った名も知らぬ子が、笑顔で生きていけるように。
絶望のように降り続けるこの雪を溶かして、旧い時代からの呪いのように続く冬を終わらせて、そうすれば、こんな自分にも、生まれた意味や本当の幸いを得ることが出来るのだと信じて。
☆
【雪掘りの町】で掘り出される旧い時代の遺物とは、その多くが失われた技術でした。しかしその中には、戦時下に投入された兵器も多くありました。
例えば、地雷。
そして、地雷の中には、綺麗な見た目で何も知らない子供を惑わし、わざと触らせるという代物までありました。
戦争が終わろうとも消えることなく、現代も時たまこの町で犠牲者を生み出している、呪いのような悪魔の兵器。
雪に隠され、時に埋もれ、見えにくくなろうとも、それを見過ごしては、忘れてはならないのです。
☆
雪に埋もれかけてぐったりとしたその男の子が声をかけられると、そこには数時間前に出会った若い娘が立っていました。
娘は、男の子に薬の入った小瓶をくれました。
そして、
「ありがとう、お姉さん!」
男の子が、驚きつつも笑顔で顔を上げた時、
もう娘の姿は見えず、明け方の近い雪景色が広がっていたのでした。
〈おしまい〉
モチーフにした作品一覧↓
『星の銀貨』(グリム童話)、『マッチ売りの少女』(アンデルセン童話)