第八十六話
一体どれだけの時が過ぎたのだろう。竜也は、すぐ傍らに佇む何者かの気配で意識を取り戻した。
身体はずいぶん楽になっていたので、それなりの時間の睡眠も取れたようだった。
—— まさかララエル?
竜也は、薄目を開けて周りの様子を探ってみる。乳白色の異次元空間では無い。ホワイトオーク無垢材で統一された部屋模様は、もと居たエレーナの部屋だった。気を失っている間に『神々の間』に連れて来られた訳では無かった。
意を決して起き上がる。目前に佇む人物を茫然と見上げる。感無量で言葉が出て来なかった。
目前に居る人物はエレーナだった。学院の制服である純白の長衣姿で部屋の入口に佇んでいた。
計り知れない程の愛おしさに涙が出てくる。ゲーム時間でほんの数日のあいだ会わなかっただけなのだが、ものすごく懐かしさを感じていた。
胸が締め付けられるような感覚に、大きく深呼吸を繰り返して心を落ち着かせようとする。しかし、そんな事で落ち着く筈が無かった。
「エレーナ……」
ベッドから立ち上がり、エレーナに歩み寄る。この腕で思いっきり力強く抱きしめたかった。
しかしエレーナは、竜也が近付いた分だけ後退る。
「貴方は誰ですか?」
エレーナが警戒した様子で、間合いを取りながら問い掛けてきた。なぜ自分の名前を知っているのかと訝しんでいる様だった。
竜也はピタリと動きを止めた。衝撃の言葉だった。一瞬にして頭の中が真っ白になる。停止した思考と身体は完全にフリーズしていた。
双方ピクリとも動かなかった。竜也は、エレーナが自分の事を知らないという事実に茫然とするばかりだ。
エレーナは、この男が何者なのかと注意深く用心しながら窺っていた。
「僕は川島竜也」
「カワシ・マタツ…ヤ?」
エレーナは、非常に言いにくそうに言葉を発する。そういえば異世界では、この名前が非常に発音しにくくて覚えずらい名前だったと思い出していた。
「竜也で良いよ……。僕は、コスタクルタ王国滅亡の危機を救う為に、君の居る世界……。異世界に君の使い魔として召喚された者だよ」
「私の使い魔は妖精竜よ。人間の男を召喚するだなんて、そんな破廉恥な行ないはしていません!」
エレーナが、竜也の説明を聞いて激昂する。なんて不埒な事を言うのだと言わんばかりに竜也を睨み付ける。
「じゃあロベリアさんは、どんな使い魔を召喚したの?」
「ロベリアさんは、ケット・シーを召喚していました」
「ケット・シーって?」
竜也はケット・シーを知らなかった。思わず聞き返してしまう。
「一言で説明するなら妖精の猫です。有翼猫が翼の生えた猫なら、ケット・シーは二足歩行をする、より人間に近い存在の猫なのです」
何やら微妙に自分が迷い込んだ異世界とずれている。話もずれてしまった。
話を戻す為に、竜也は傍らのベッドの上から抱き枕を拾い上げた。それをエレーナに向かって名前が見えるように突き出す。
「ここに書かれている漢字……。此方の世界で言う所の旧世界語で、竜也と書かれているよね。この名前はなに?」
「タツヤは、私の使い魔である妖精竜の名前です」
「だったらこの漢字……。旧世界語を誰に教わったの?」
「妖精竜のタツヤからです。タツヤは古代語魔法も使える優秀なパートナーで、古代語魔法の基礎となった旧世界語にも精通しており、名前の書き方を教わったのです」
竜也は、辺りを見回す。肝心の使い魔が見当たらない。
「使い魔のタツヤが見当たらないけど、どうしたの?」
その質問にエレーナは顔を強張らせる。微かに震える肩は、辛い過去を思い起こしている様だった。
「タツヤは魔界の軍勢が攻め寄せてきた時に、私を庇って死にました」
竜也は、なんて言って良いのか分からず、気まずそうに顔を俯かせた。自分が死の直前に感じたエレーナの心を思うと居た堪れなくなる。
いま現在も異世界に居るエレーナは、自分が死んだと思って嘆き悲しんでいるかと思うと、なんとかして自分が生きている事を伝えてやりたい。出来れば、もう一度会いたい。しかしその術がない。ゲームの中にそのヒントがあるのかも知れないと思っていたのだが、ゲームの中のエレーナに合ってみても、それは分からなかった。
さきほど辺りを見回した時に使い魔だけでなく、他の一切の気配が無かった事を思い出す。
「皆はどうしたの? ドリーヌさんや、セシルさんや、ロベリアさんや、ジェレミーさん達は無事なの?」
「みんな討ち死にしました。学院生で生き残っているのは私だけです」
その言葉に竜也は、さらに気まずさを感じていた。押し潰されそうな空気が漂うなか、もう言葉を紡ぐことが出来ないでいた。
ゲームの中のエレーナは、自分の知らないエレーナだった。心がまったく読めず、思念も通じ合わない。
こんなエレーナは見たくないという思いと、彼女の傍からは離れたくないという相反する思いに苛まれながら、力なくフラリとベッドの淵に腰を落とす。
「ここは私の部屋です。勝手に私のベッドに腰掛けないで下さい!」
自分のベッドに汚い輩が触ったとでも言いたげな物言いに、竜也は苦笑いを漏らす。始めてエレーナに会った時の印象を思い起こしていた。
特殊能力が無い事に殺意を抱かれ、事ある毎に目くじらを立てられたものだ。
「そんなに邪険にしないでよ。僕は君の本性や、内腿の付け根にある三連に連なるホクロまで知ってるんだよ」
エレーナは、咄嗟に自分の股間を両手で隠す。顔は羞恥の為に真っ赤に染まっていた。
「なぜ私の恥ずかしい所にあるホクロの位置まで知っているのですか?」
「僕は、パラレルワールドって言ったら良いのかな? このゲームの世界と同じ作りの異世界で、エレーナとはそういう所が見られる関係だったんだよ」
エレーナはイヤイヤをするように頭を振りながら数歩下がると、入口の扉の影に身体を隠した。
「貴方の今の言葉は、ハラスメント防止システムの定義に抵触します」
エレーナの言葉が終わらない内に、目前に『WARNING』と書かれたシステムメッセージのウインドウが現れる。黒と黄色の警戒色で描かれた文字が、警報音に合わせて明滅していた。
竜也はキョトンとしていた。これくらいの事でハラスメント防止システムに引っ掛かるとは思ってもみなかったからだ。
『WARNING』と書かれたシステムメッセージの下段に書かれている『NPC エレーナ・エルスミスト嬢より、即座に半径十メートル以上離れる事!』という文字を唖然と見やる。
竜也は、両手の手の平を左右に広げて肩を竦めてみせた。それから警告に従って部屋を出て行こうとする。
エレーナとすれ違い様、彼女の胸にそっと手を這わせる。彼女は、大仰なほど飛び上がった。
その瞬間、『WARNING』という警告文字が『EJECT』に変化した。強制退場のカウントダウンが始まる。
「あっ! ちょっと待って!」
竜也は、さらに間合いを取るべく後退るエレーナを必死で呼び止める。彼女の胸に触れた瞬間、異世界に居るエレーナと心が繋がったのだ。一瞬の事で、エレーナが今どんな状況に陥っているのかすら感じ取る事は出来なかった。
どうしても現在のエレーナの情報が知りたかった。そして自分が無事だという事を伝えたかった。
異世界にいるエレーナも、此方の思念を感じ取ったようだったが、一瞬の事で何かを伝え合う時間は無かった。
触れている時間だけ思念が通じ合うのではないかと、竜也は再び胸に手を伸ばそうとする。しかし硬直した身体は一歩も動いてはくれなかった。
エレーナは、警戒して既に手の届かない所まで避難している。胸を両手でかき抱き、非常に冷たい眼差しで此方を睨んでいた。
その間にも無常にカウントダウンは進んで行く。
「エレーナ! お願いだ! 手だけでも握らせてよ?」
竜也は必死に懇願する。しかしエレーナは、冷たい視線を放ったまま微動だにしなかった。
やがてカウントダウンは進み0になる。一切の動きが停止した背景は、やがて乳白色の霧で覆い尽くされたように染め上げられ、無情にも竜也は現実世界に戻らされてしまった。




